第3話
玉子 一
事務所に戻ると、留守番の幸子さんはまだパソコンのディスプレイを睨んでいた。
「どうしたの?もう今日はいいよ」
「そうなんですけど、今のうちに先月までの誤差を見つけようと思って・・・」
「適当に合わせてくれていいんだよ。どうせきちんと申告するつもりはないんだからね」
「だめですよ、粂井さん。帳簿は正確につけて、正しい申告をしないと。キチンと申告をしないというのは・・・そういうのって脱税って言うんじゃないんですか?」
「わ、分かったよ、幸ちゃん。ちゃんと申告するから、数字が合うまで、心置きなく調べてください」
俺は大阪では通称「キタ」と呼ばれる飲み屋街に近いビルの一室を借りて、「サクセスコーポレーション」の商号で金融業を営んでいる。
僅かな資金と数人のスポンサーだけで独立して、これまでは大きなトラブルもなく、屋号のように「サクセス」とまではいかなかったとしても、どうにかこうにか無難に営業を続けてきた。
バブル経済が崩壊して虚構の好景気が一気に沈んだ。
人々は異常な世の中に戸惑いながらも享楽生活を続けていたが、不動産や株価の急落によって大損を被り、街角から消えていった。
次第に消えたのではなく、一気にどこかに消え去ってしまった感があった。
虚構の景気が終わり、尋常でない人々の姿が見えなくなるとともに、バブルの温床となった銀行が融資を引きにかかったことにより、中小企業はたちまち資金繰りに喘ぎはじめ、俺のような小さな街金にも恩恵が訪れた。
少しずつ顧客も増えて、今では毎月一億円近い取引高を維持している。
開業当時から手伝ってくれていた女性が昨年秋に結婚で退職し、途端に事務処理まで手が回らなくなったので、今年の三月から幸子さんに来てもらっている。
彼女は俺の行きつけの小料理屋「安曇野」の娘さんで大学浪人生、今春は残念ながら不合格だった。
「あの子、結婚したの?しっかりした子だったから、辞めてしまったのならそれは大変ね。もし粂井さんさえよければ、うちの娘をしばらく預かってくれないかしら?」
長かった冬の終息を感じ始めた二月下旬のある日、安曇野で飲んでいるときに女将さんが言った。
「本当ですか。それは助かりますけど、俺とふたりだけの小さな事務所ですよ。幸ちゃんが嫌がらないですかね?」
「大丈夫よ。これまで甘やかしてきたから、少しはヤクザな世界も知っておかないとね。どうかしら、預かってくださる?バイト料なんて小遣い程度でいいのよ」
「ヤクザな世界ではないんですけど・・・」
ともかくそんな経緯があって、幸子さんは怪しげな高利貸しの電話番となったわけだ。
俺は狭い事務所の隅に置いているソファーに疲れ切った身体を落とした。
本当に今日は真逆の出来事があった一日だった。
矢田玲子のことは、夢を見ているような、或いは幻影だったような気もしないではないが、彼女の身体の感触や言葉の余韻などが、確かに全身に残っていた。
「しかし奴は現れなかった」
今年の大型連休明けに用意周到の上で不渡りを出し、行き先不明の無期限逃避行を開始した代表者の狡猾そうな顔が脳裏に浮かんだ。
この日の債権者集会のために持って行った数枚の不渡り手形を、汚れたボロ雑巾を捨てるようにテーブルの上に放り投げ、俺は苦々しい気分になった。
開業してからあまりにも平穏過ぎたのだ。
今回の不渡り手形の総額は一千五百万円ほど、開業以来稼ぎ続けてきた利益からするとそれほど大きな痛手とは言えないが、俺は五月の連休明けにスポンサーや銀行からすべての手形を買い戻した。
そして今日の債権者集会を迎えたのだが、やはり奴は出てこなかった。
「粂井さん、もう十年近くも無事にやってらっしゃるのだから、無理をしてはいけないわよ。一件のお客さんに多額の融資は避けたほうが賢明じゃないかしら」
スポンサーのひとりで、月に三千万円程度の手形の再割引を受けてくれている未亡人は、そう俺にアドバイスしたが、そんなことは分かっている。
自分では慎重に考えているつもりだが、大きな利益の出る取引には暴走してしまうのだ。
サラリーマン時代は、オファーがあればそれを実行するか断るかは審査部の仕事だった。
俺の周りには同僚や部下がいたし、仕事で行き詰れば上司や社長に相談できた。
トラブルになれば、社長はじめ社員が一丸となって解決するまで走り回った。
小規模だったが、それが会社というものだ。
独立してからは、仕事を取るのも自分、貸すか断るかを判断するのもすべて自分自身なのだ。
暴走しないように気をつけてはいたのだが、今回は下手を打ってしまった。
存在価値が消滅して、紙くず同然になってしまった不渡り手形を睨みながら、俺は深くため息を吐いた。
「どうしたんですか?」
顔を上げると幸子さんが俺を不思議そうに見ていた。
「いや、どうもしない。ちょっと考え事をしていただけだよ」
「それならいいんですけど、ジッと一点を見つめていましたよ」
「うん、裁判所に行って来たんだけどね。あそこは正義の味方じゃないな」
俺は幸子さんを見上げて笑った。
「正義の味方ですか・・・?」
「いや、幸ちゃんは気にしなくていいんだ。それよりお母さんのお店に寄って、何か美味しいものでも食べようか」
「はい、私もうお腹ペコペコです」
幸子さんの屈託のない笑顔は、鬱陶しい梅雨空など吹き飛ばすくらい晴れやかだった。
俺は幸子さんと一緒に、阪急東通り商店街近くの雑居ビルの五階にある「安曇野」を覗いた。
このところ蒸し暑い夜が続いていたため、店は常連客などで、十五ほどある席はほぼ埋まっていた。
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