第2話

       玲子 二


 泉の広場を上がり、新御堂筋を一呼吸だけ下って左に折れると太融寺町のホテル街、女はためらいも見せずに俺を引き込むように最も近いホテルに身体を滑らせた。


 社会が全力で様々な生産的な行いの真っ只中にあるに違いないこの時間だが、意外に空室は数えるほどしか残っておらず、「どの部屋にする?」との女の問いかけに答える代わりに、目の前に表示された空き部屋の中で手の届くボタンを強く押した。


 女と俺はすでに行きずりの情事の序章に入っているのだろうと頭では思っていても、エレベータの中で何の接触行為にも及ぶことができず、部屋に入って靴を脱ぎ、ドアをロックして初めて俺は女の腰に手を回した。


「私、誰とでもこんなことするわけじゃないのよ。別に信じなくてもいいけど」


「こんなことって、まだ何もしていないじゃないか」


 腰を引き寄せ唇を合わせた。

 この蒸し暑い季節に女の唇は氷のように冷たく、軽く開いた口中に舌を差し入れてみても、絡みつく女のそれからは情熱が伝わってこなかった。


 モスグリーンのスーツを脱がせてベッドの端に投げ捨て、ベッドに倒した女に覆いかぶさって強引に身体をつないだ。


 女はシャワーも要求せず俺のなすがままに受け入れたが、俺の動きに身体を合わすこともなく、ただ顔を横に向けて微かに喘いでいるだけだった。


「あんた、あまり慣れていないんだな」


「そうかしら」


 いったんつながりを解いて長く深いキスを交わした。

 さっきは感じなかった女の悪くない口臭が俺の鼻腔を刺激した。


「つまらない世の中ね」


 唇をゆっくりと離したあと、女はポツンと呟いた。


「哲学的なことばかり言うんだな。俺も今朝はあんたと同じように世の中クソだなと思っていたよ。でも今はそう思わないな」


「なぜ?」


「そりゃそうだよ。あんたのような美人と、思いがけずこうしているんだからな。今日はイレギュラーが二本立てだ。しかもそれは真逆だ」


「どういうことなの?」


「さあ?話すと長くなるからな」


「ともかくシャワーを浴びてくるわ。出てきたらあなたはもう消えているかも知れないけど、別にかまわないのよ」


 女の真っ白なブラから豊かな胸の一部がはみ出ていた。

 スカートをたくし上げて下半身を突き刺しただけのつながりだったので、女の胸が恐ろしく豊かなことに気づかなかったのだ。


 俺は部屋の隅に申し訳程度に置かれた小さなクローゼットを開けて、モスグリーンのスーツをハンガーにかけてやった。

 ベッド脇に投げ出されていたシャネルの黒のバッグを見て、女がなぜこれほどまでに無警戒なのかが分からなかった。


 汗で湿ったシャツを脱ぎ、それをソファーに投げてベッドに腰をかけ、わずか一時間ほど前に女に声をかけてからの経緯を振り返った。

 どのような角度から今の状況を分析してみても、まるで夢を見ているようにしか思えなかった。


「本当に救いようのない世の中ね」


 いつの間にかバスルームから出てきていた女が、バスタオルを身体に巻いたまま俺の横に立ち、ため息混じりに言った。

 ヘヤーキャップを外すと、形よくカールされた黒髪が波打った。


「素敵な世の中だ」


「フフフ。おかしな人」


「俺がシャワーを浴びて出てきたら、あんたの姿は消えてしまっているかも知れないが、別にかまわない」


「馬鹿みたい」


 女は含み笑いではなく、ようやく口をあけて笑った。


 シャワーを浴びて出ると、女は枕を背もたれにして座っていた。


「あんたはどういう女なんだ?」


「私?残念ながら高級コールガールよ。一時間十万円。ホテルの前に私を仕切る組関係のヤクザが見張っているわ。あなた、うまく私に引っかかったわね。今度から気をつけなさいよ」


「は?」


「でも、少し安くしておいてあげるわよ。あなた感じいい人だから」


「冗談だろ」


「さあ、どうかしら?」


「ヤクザはひとりだけなのか?」


「そうよ」


「それなら好勝負できそうだな」


「どうでしょう?」


 女は俺の首筋にキスをしながら言った。


「もう二回くらいは可能だな。合計いくらになる?」


 俺は弾力のある乳房を弄びながら女に問いかけた。


「あなたって正直な人ね。さっき、眼球が一瞬だけ一センチくらい飛び出したわよ」


 女はフフっと笑って言った。

 俺と女はホテルを出て梅新の交差点で別れた。

 別れ際に女の携帯電話の番号と名前を聞いた。


「なぜそんなことを聞くの。行きずりの関係じゃなかったの?」


「でもさっきあんた、俺の腕の中で『離さないで』って言っていたじゃないか」


 女は数秒考えてから「馬鹿」と言って俺の胸を叩き、矢田玲子と名乗った。


「また会えるかな?」と聞いてみたが「さあ、どうでしょう」と笑った。

 だが女の笑顔は心の底からのものではなく、目には感情が映っていなかった。


 女は「それじゃまた」と言ってタクシーを停めて行ってしまった。疾風が吹き抜けたようだった。

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