第9話 探せ、境界線

 翌朝の通学路、僕は上下左右、ひたすら目を凝らしながら登校した。……が、案の上というべきか大文字さんが見せてくれた彼方の世界に通じる何かを見つけ出すことはできなかった。試しに眼鏡を外してみたが、何のことはない、視界がぼやけるだけだった。

 学校に着くと、ちょうど綾見が昇降口で上履きに履き替えているところだった。

「綾見は何か視えた?」

 挨拶をそっちのけで訊いてみるが、綾見はふるふると首を横に振った。そりゃあ昨日の今日で視えるわけないか……と残念がってみせるも、内心では安堵している自分がいた。置いて行かれるのは嫌だ。でも、少しばかり自己嫌悪。ちなみに、呼び捨てなのは「さん」付け不要という綾見本人からの要望であり、彼女の伯父さんからも許可をもらっている。

 下駄箱から上履きを取り出しながら、僕は昨日のことを思い返す。

「お前たちの視覚はまだまだ未熟だ。光る紙と俺が見せた彼方の光景、どちらも視ようとして視えたわけではない。言ってみれば受動の視覚だ。今度はお前たち自身が視ようとして視る、能動の視覚を身に付けろ」

 大文字さんはそう僕らに言い付けた。

「質問」

綾見が手を挙げ伯父の説明に異論を唱える。

「そもそも視覚というのは目が光の刺激を受けて形を捉える感覚を指すのだから、全て受身と言えるんじゃないの?」

「正解――なのだが、俺が言いたいことはそういう教科書的なことじゃない。もともと視えているものを視る感覚ではなくて、視えないものを視る。そういう感覚だ」

「視えないもの、ですか」

「そうだ。お前たちの目で捉えてほしいもの、それは――」


***


「――境界線って言われてもね」

 僕が靴を履き替える間、綾見が鞄を小さく振った。

 僕たちの世界以外にも世界が在ることは昨日自分の目を通して知った。そして、ここから先は説明を聞いただけのまだ信じきれない話。この世界にはどうやら彼方の世界に繋がる恐れのある『境界線』と呼ばれる裂け目が無数に存在しているらしい。いわゆる神隠しとは、ふとした偶然で裂け目に迷い込むことが原因で起きるそうだ。境界線のうち一つが大文字さんたちのいる事務所にあることはこの目で視た。だけど境界線が無数にあって、通学路にすらあるだろうと自信たっぷりに言った大文字さん言葉は今でも到底信じられなかった。現に今だって一つも視えやしない。

「俺の手首が見えなくなった場所を覚えているか」

 あのとき大文字さんは言った。

「境界線は『ここ』に在る」

 それからというもの、僕と綾見は在ると言われた場所に何度も手を伸ばし、目を凝らしたが、手は宙を掴むだけで、目には壁と天上が映るだけだった。ただのからっぽな空間、宙。本当に在るのかと疑いたくもなったが、大文字さんの手首が消え、彼方の世界を見せつけられた以上、事実から目を逸らすことはできなかった。

 事務所から家路までの帰り道、そして今朝の通学路、いろいろな場所に目をやったが、不自然なものは見つからず今に至ってしまった。

 教室に向かう階段を上る途中も何か視えないものかと目を凝らしていたら、いつの間にか綾見は離れてまだ階段の踊り場にいた。

「どうかした?」

「先に行って。同じタイミングで教室に入ったら色々あるでしょう?」

 あぁ……と納得しつつ少し傷つく。思い至らなかったのは、僕が少なからず浮かれていた証拠だ。恥ずかしながら、僕はまだ高校に入学してから班行動以外で女子と話をしたことがなかった。入学前はそれはもうバラ色な想像・妄想を少なからずしていたわけだから、入学してから昨日まで、理想と現実の差に動じていなかったといえば嘘になる。そんなわけだから、理由はさておき、綾見に声を掛けられたことは自分にとって想像以上に嬉しい出来事だったらしい。彼女に線を引かれてようやく気付き、そして、思いのほか堪えた。

「分かった、授業が終わったらまた」

 会釈をして一段飛ばしで階段を駆け上る。教室に入る際に廊下をちらりと見たが、綾見はまだいなかった。

 授業中、先生方にとって僕はさぞ熱心に授業に取り組む生徒に映ったことだろう。これほど目を見開き黒板までの空間隅々を凝視したのは初めてだ。途中、二列離れた綾見がどうしているか確認してみたが、思ったとおり、僕と同じ態度で授業に臨んでいた。 

 この教室に境界線はない、そうに違いない。負け惜しみに似た確信と目の奥の鈍痛から始まった頭痛に苦しんでいるうちに放課後となった。さっさと学校を出てバス停前で綾見を待つこと少々、校門から歩いてくる彼女の顔を一目見れば僕と同じ感情が胸の内に渦巻いていることが手に取るように分かった。

 バスを待つ列にクラスメイトはいないので隣に並ぶ。挨拶は互いにため息だった。

「本当に視えるものなのかな?」

 綾見の疑問に同意したかったが

「伯父さんを疑ったら駄目でしょ」と何とか堪える。

「僕たちの教室に境界線ってやつはなかった、そうやって納得しよう」

「うん……」

 会話が弾まないのを見かねたかのようにバスが停留所に到着する。境界線が間違いなく在る場所で再挑戦するまではいったん休憩。僕は眼鏡を外し、酷使した眼球を労いながら瞼を閉じた。

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