8-12

 由意ゆいは大雑把ではあるが、既にはるを守る為のプランを考えていた。下準備に回るのは由意と咲心凪えみなの二人だ。玄佳しずかについては桜との連絡役、桜については大人と相談する事が多いので、そこで決まった事を玄佳に話すというのを主に頼まれた。


 その話が纏まる頃に、児童相談所の担当者がきて、桜と、弓佳ゆみかと、西脇にしわきと話した。桜はただ弓佳と西脇の話に合わせていた。


 結果、すぐに施設に入ると言う話にはならなかった。桜は不安だった。


 それでも、咲心凪と由意を連れて帰る時の西脇の力強い笑みに支えられて、なんとか不安を振り切った。


 文貴ふみたかも戻ってきて、食卓を囲んで、玄佳と一緒にお風呂に入って、寝るまでの時間は二人で過ごす。


 明日も学校にはこなくていいが、課題はしっかりやるようにと西脇に言われてある。そして、咲心凪が桜の分のノートを取ってくれていた。


 長かった二日間が終わってまだ水曜日の夜だ。桜は由意から受け取ったノートで課題を解いていた。玄佳も一緒だ。


「……ねえ、桜。ちょっと、休憩しない?」


 ある程度時間が経つと、玄佳は提案してきた。


「うん……正直、今は課題より休みたい気持ちもあるし」


「それ」


 真顔で、玄佳は桜の顔をピンと指した。


「疲れる事ばっかりだと思うからさ。でも、前の桜より今の桜の方が、絶対に強くなってる」


 疲れる事ばかりなのは、本当にそうだと思う。


 強くは……なれているのかな。ほんの少し、変わった気はするけど。


 桜の前で、玄佳は本が溢れている本棚に向かい、一冊の絵本を取った。


 玄佳が取る絵本ならば、それは実父つきのひさしが描いた物に違いない。


 思えば事実で、玄佳が桜の隣に座って示した表紙には『誰かのヒーロー』というタイトルがついていた。


「一緒に読もう」


「うん」


 玄佳がこのタイミングで『ヒーロー』をタイトルに冠する本を無意味に選ぶわけがないと、桜は分かっている。


 中は、つきのひさしらしい幻想的なタッチで二人のヒーローが描かれていた。


 少しずつ読み進めていく中で、ヒーローはぼろぼろになりながら戦っていく。つきのひさしの作品にしては珍しく『闘争』という物を明確に、しかし子ども向けに描いている。


 玄佳は、以下の一節をなぞった。


[本当は、二人共初めから知っていたのでしょう。『誰かのヒーロー』は『誰かの悪』なのだと]


 今の玄佳がそれを示すのは、とても大切な意味があると、桜は確信した。そして、あえて自分にそれを見せる玄佳の覚悟が、明確に見えた。


「誰かに自分の心臓を見せるとしたら、こんな気持ちなのかも知れない」


 それは絵本に書かれたつきのひさしの言葉ではなく、玄佳自身の言葉だ。


「きっとそれは、桜が相手だからだよ」


 本を閉じて、玄佳は桜を抱きしめた。


「元々、人に嫌われるなんてなんでもないと思ってた。機会があったら死ぬし、相手に嫌われようとそれは寧ろ、未練が残らなくていいってすら思ってた」


 心臓の音――静かな空間で密着していると、僅かに玄佳の心音が聞こえた。


 その鼓動は早くて、桜はこれが求めた《音》なのだと理解できた。


「でも、生きていくって決めてから、嫌われるのが怖くなった。八方美人にはなれないけど、でも、この人には嫌われたくないなっていう気持ちが何個もできてさ」


 玄佳の唇が見えて、桜はそっと左肩を優しく抱く玄佳の左手に、自分の手を重ねた。


「でも」


 桜の小さな手を、玄佳は確かに握り返した。


「桜の為なら、誰に嫌われてもいい」


 強く、桜の肩の怪我に触れないように、玄佳は桜を抱いた。


「桜を守る為なら、私は悪になるって、決めた」


 玄佳は右手で絵本のページをめくり、最後の一節をなぞった。


[正義はいつも、悪と一つです。だから、二人のヒーローは鏡映し。正しさとは? 答えを見つけたならば、また会いましょう]


 きっと、玄佳ちゃんはこの絵本を何度も読んだんだと思う。本の傷みが、教えている。


「玄佳ちゃん」


 自分を抱く玄佳の腕に手を回しながら、桜は玄佳に語り掛ける。


「玄佳ちゃんにとってのヒーローは、なんなのかな」


 玄佳は少し体勢を変え、桜と向き合った。


「愛の為に、悪を背負う者」


 以前の玄佳とは、明確に違う物を感じた。


 きっと、四月の終わり頃に玄佳に同じ質問をしても、違う答えを返したと思う。


 ただ、今、玄佳から感じる物は、自分に向いている途轍もなく大きな愛情だった。


「愛だけで、生きていけたらいいのにね」


 桜はそっと、玄佳の顔に自分の顔を近づけた。


「うん……本当ならね」


 玄佳も、桜に自分の顔を近づける。


「でも、今」


 玄佳は左手で桜の右手を握った。


「二人の間にある物は多くて、その全部が大切で、どれも捨てたくはない」


「違うよ。ここにある物全部、形を変えながら、この先ずっと、繋がっていく」


 桜の心に、もう迷いはなかった。


 苦しむ事はあっても、目指す事は一つだけだと、明確に自覚できるから。


「やっぱり、桜は強いね」


 至近距離で、玄佳の笑顔が桜の視界を塞ぐ。


「桜にとって、『ヒーロー』って、何?」


 予期していた言葉に、嘘が吐けない誠心がある。


「誰かに希望を灯す事を、絶対に諦めない人」


 お互いが目指す『ヒーロー』の像は、明確に違う。


 それでも――。


「最高のヒーローじゃん」


 玄佳は、認めてくれた。


 なんでかな。


 同じ気持ちじゃないけれど、同じ夢を見ている気になれるのは。


 未来は――見えない。


 過去は――つらい。


 現在は――混迷の中にある。


 いつも未来を見ている咲心凪ちゃんの道に祝福があればいい。


 いつも現在を見極める由意ちゃんの勇気は、頼もしい。


 いつも過去を大切にする玄佳ちゃんは僕の英雄で――愛しい。


「玄佳ちゃん」


「ん?」


 桜が名前を呼ぶと、玄佳は不思議そうな顔をした。


「ずっと二人で、一つの星座になろう」


 地上で離れない一つの星座を玄佳と描けたら――それが、つらすぎる過去から現在の桜が未来に望む『心』だった。


 玄佳は答えず、桜の頤を取って口づけた。


 少しの間、二人は互いの味を感じ合っていた。


 言葉より、体温の方が雄弁で、桜は言葉という物の弱さを知った。


「今のが答えだよ」


 玄佳は、照れくさそうに微笑んだ。


「絶対に離さないって前にいったけど、今は違う」


 顔と顔が離れても、体温が伝わる気がした。


「もう、どんな距離も私と桜を分かてない」


 自分の顔が笑顔になるのを、桜はとても自然に感じていた。


「僕も、同じ気持ちだよ」


 本当に、玄佳は桜にとってヒーローだった。


「玄佳ちゃんと一緒に、強くなりたい」


「なれる」


 玄佳が急に桜の手を取るので、桜は驚いた。けれど、それはすぐに笑顔になってしまうくらいに、チャーミングな事だった。


「桜は今までよりずっとずっと強くなってる。だから――私も、強くなる」


 明確な誓いが、そこにあった。


「何があっても揺れないくらいに――ん」


 玄佳の唇を、桜は無理やり塞いだ。


 軽く唇を触れ合わせ、離れる。


「揺れててもいい。それが玄佳ちゃんと僕の強さだから」


 桜がそっと玄佳と小指を絡めると、玄佳は本当に珍しく、真っ赤になった。


「……その気になっちゃったじゃん」


 それでも玄佳は、桜の小指に自分の小指を絡めた。


「強くなろう。二人で、もっともっと」


 桜の言葉に、玄佳は愛しさを顔に浮かべた。


「桜と一緒なら、どこまででもいけるよ」


 二人はもう一度だけ口づけをして、放っていた課題を閉じて、一緒に眠った。


 桜にとって、大きな転機が訪れた長い一日は終わり――一つの転換期が始まろうとしていた。





第二部完結

作者の病気療養の為、第三部開始時期未定。




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Icy Blue Moon 風座琴文 @ichinojihajime

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