8-10

 家を出たはる玄佳しずかに連絡すると、近くの駅で待っていて欲しいと言われた。


 どの道、もう家の中に自分の居場所などない。感傷らしい物もない。桜はただ、もう少し歩けばしがらみから解放される予感に任せて暗い道を歩いた。


 無事に駅について間もなく、一台の車が停まった。


 桜がそちらを見ると――助手席から玄佳が慌てた様子で出てきた。


「桜!」


 玄佳は桜の所まで駆け寄ってきて、その肩に両手を置いた。


「ごめん、玄佳ちゃん……今晩、泊めて欲しい」


 傍目に見ても異常事態が起きていると分かる程の大荷物に加えて、腫れた頬、唇の右端から伝う血のライン、何かあったのは一目瞭然の状態だった。


「うん……待って、荷物、車に乗せるの手伝うから」


「ありがとう」


 玄佳と一緒にいて、安心している自分がいるのを、桜は発見している。


町田まちださん」


 聞こえた男性の声は、玄佳の今の父である月守つきもり文貴ふみたかの物だった。


「文貴さん……」


 久しぶりに会うが、相変わらず綺麗に身だしなみを整えて、眼鏡をかけている。清潔、という言葉が当てはまる人だと桜は思う。


「ひとまず、荷物を」


「はい」


 文貴は桜の荷物を受け取り、次々に車のトランクに詰めていく。


「後ろに乗って」


「文貴さん、私は桜の隣だから」


「分かったよ」


 玄佳が強い調子で言うと、文貴はすぐに運転席に回った。桜は玄佳と一緒に後部座席に座って、シートベルトをつけた。


「もう、大丈夫だからね、桜」


 玄佳は桜を労わるように手を握った。優しく低い体温は、心から安心できるもので、桜はようやく、張り詰めていた物が緩むのを感じた。


「ありがとう、玄佳ちゃん……」


 桜は玄佳に寄りかかった。


 やっぱり、強くなったと思っても、強くない。


 玄佳ちゃんがいなかったら、野垂れ死にだったと思う。だけど、文貴さんと、玄佳ちゃんのお母さんは許してくれるんだろうか。


 それがダメなら、もう地獄に落ちるしかないのかな。


「桜」


 緩み過ぎていた気持ちが、玄佳の一言で現実に立ち返る。


「うちについたらまず傷の手当。話はそれから聞くけど……それやったの、誰?」


 桜は答えようとして、口の中に溜まっている鉄錆の味が邪魔するのを感じた。玄佳はすぐに察して、ポケットティッシュを取り出した。


「口の中、切ってるよね」


「うん……」


 桜は受け取ったポケットティッシュに血を吐き出した。玄佳はそれを受け取って、運転席と助手席の間に固定されたゴミ箱に入れた。


「ありがとう……。お母さんの言う事聞かなかったら、何度も打たれた」


 あった事はまだ全て処理し切れていない。ただ、鈍い痛みが顔と、倒された時にぶつけた左肩にあった。


「……ごめん」


 どうして――桜が玄佳を見ると、彼女はとても悲しそうで、今にも破裂しそうな顔をしていた。


「桜がつらい時に、私はいつも傍にいない……」


 その言葉がそのまま、疑問への答えだった。


「玄佳」


 桜が言葉を迷っていると、文貴が玄佳を呼んだ。


「どれだけ近しい間柄でも、常に傍にいて、その人の綿になる事はできないんだよ」


 その言葉は、その通りだと桜は思う。


「文貴さん――」


「待って、玄佳ちゃん」


 文貴に食って掛かろうとした玄佳を、桜は止める。


「今は……やめて」


 桜の言葉を聞いた玄佳は、悲しそうで悔しそうで、それでも理性を働かせた顔でそっと桜の手を取った。


「あの……文貴さん……玄佳ちゃんからは……」


 玄佳に言ってあるが、玄佳は文貴と、自分の母にどのように伝えているのか。


「玄佳から町田さんの連絡を見せて貰って、家にいられない事情があるのは分かったよ。町田さんのご両親とどう話すかは別だけど……ただの親子喧嘩ではなさそうだから、一度うちで、弓佳ゆみかさん……玄佳のお母さんも交えて話そうとなった」


 一応、安心してよさそうだった。


 いつも安心を求めて、彷徨っている。


 ただ、完全な安心なんてどこにもないのに。


 頭の中の虫はこんな時でも疼く。体の方に体力が残っていなくて、思考に追いつかない。


「今晩は泊まっていくといい。見た感じに尋常ではないし、しばらくうちにいる事も考えて欲しい」


 文貴の言葉は、素直に嬉しかった。


「ありがとうございます……」


 まだ、今日という一日は終わっていない。玄佳の家で話をして、今後の事も考えなければならない。


 家出したに等しい事は十分承知しているが、その後の事を考える余裕など桜にはなかった。ただ、もう二度と家に戻りたくはなかった。


 そっと、玄佳が桜の肩を抱く。桜はその温もりに触れて、少し目を閉じた。


 間もなく、文貴はマンションの駐車場に車を止めた。


「着いたよ。荷物は自分で持ちたい物だけ持って。あとは僕の方で運ぶ。食事をしているようでもないから、先に上がって、傷の処置をしてから食べて」


 文貴はすぐに、声をかけてくる。


「いこう、桜」


「うん……」


 ほとんど力が入らないのは、食事もせずにずっと母と喧嘩して、ふらふらになりながら歩いてきたからかと思う。


 玄佳に一番大事な物を詰めている通学鞄を持って貰って、桜は玄佳の家に入った。


「いらっしゃい、町田さん」


 以前にも少しだけ会った事がある玄佳の母・月守弓佳が出迎えてくれた。


 玄佳をそのまま大人にしたような見た目の彼女は、ラフな格好にエプロンをつけて待っていた。彼女は桜の顔を見るなり心配そうな顔をしていた。


「待って、救急箱出しておいたから。玄佳、食事、出せるだけ出しておいて」


「分かった。桜」


 玄佳は桜に通学鞄を渡してきた。


「ありがとう……痛っ」


 左手でそれを受け取ろうとした桜は、肩が痛んで思わず落とした。


「腕もどうかしたの!?」


 弓佳が驚いたように尋ねてくる。


「お母さんに床に転ばされた時、左肩をぶつけて……」


「玄佳、リビングに文貴さん入れないで。町田さん脱がせるから。それとアイシングの準備」


「勿論」


 母と子になると阿吽の呼吸を発揮するらしいのが、桜には少し羨ましかった。


 ずっと制服を着ていた桜は、部屋の中で上を全部脱いで、弓佳に見て貰った。


「痣になってるわね……待って、口の中も切ってるし……右手は大丈夫?」


「はい……」


「ガーゼで止血するから、押さえてて」


 言われる通り、桜は口の中のガーゼを押さえた。


 頬と肩を見て貰った所、骨に異常はないらしいが、内出血はしているので、明日になったら病院にいく事になった。


 痛む肩をなんとか動かして桜が私服に着替えると、玄佳が玄関で待っていた文貴を呼んで、桜の荷物を玄佳の部屋に入れて貰った。


 ダイニングで四人が集まり、食事を取る事になった。


 口内の出血はなんとか止まり、桜は少しずつ食事を取った。


「食べてる途中で悪いけど……」


 弓佳は食事の手を止めて、桜に尋ねてくる。


「はい……」


 落ち着かないのは、月守家三人と会話するのに慣れていないからだ。


「玄佳が桜ちゃんに書いて貰ったノートのコピー、読んだんだけど……あれは本当の事?」


 玄佳が何を考えていたのかは、桜には分かった。


 そっと玄佳を見ると、いつもの無表情に少し苛立ちに見える何かを乗せて、自分の母を見ていた。


「玄佳ちゃんに言われたノート……細かい記憶違いはあるかも知れませんけど、書いてある事は本当です……」


「それで、今日はどんな事があったか、聞いてもいい?」


 優しく尋ねてくる弓佳に、桜は今日あった事を一通り話した。


 少しでも、今よりよくなれば――そんな気持ちを抱えながら。


 酷く疲れながら桜が話すと、今日明日は休むように言われた。



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