8-9
いつもならば、
乱雑に脱ぎ捨てられた母の靴は、その機嫌が悪い事を桜に告げていた。
桜は丁寧に靴を脱いで、中に上がった。
「桜!!」
怒声――今の時点で完全に怒声と言っていい声が聞こえて、桜はリビングに入った。
母はソファーに腰かけて、怒りに血走った眼で桜を睨みつけている。今にも桜に殴りかかりそうなくらい、激昂している。
彼女は立ち上がり、桜の前にきた。桜は委縮して、一歩だけ後ろに下がる。
「座れ!!」
床を示す母の言葉に答えて――と考えて、桜は母の前からどいて、ソファーに座った。
もう、嫌だって思う。
言いなりになるのは、もう嫌だから。
「何してんだ?」
母は桜の前まできて、床を示した。あくまで、桜の席はこの家の中にないらしい。
「座れって言うから、座ったんだよ」
いつもならば出てこない言葉が、桜の口から出てきた。
次の瞬間、桜の視界がぶれた。
母の左手が、思い切り桜の頬を打った。衝撃、一拍遅れて、頬にジンとした痛みが湧き上がってくる。条件反射で涙が溢れそうになるのを、歯を食い縛って耐える。
「この屑が!!」
桜の母は桜の襟首をつかんで、無理やり床に転ばせた。桜は左肩を強く打ち、そこを押さえて苦痛に顔を歪めた。
「こんな時間までほっつき歩いて!! 帰ってきたらそれか!! この親不孝者!!」
桜は、打たれた所と倒れた勢いでぶつけた肩の痛みを無視して、立ち上がった。
眼鏡がずれたのを直す。少し口の中を切っているので、唇の端から血が流れている。それでも桜は立ち上がった。
『二人で一人から、一人と一人で二人以上になろう』――
『強くなれ』――
今はまだ、玄佳ちゃんと二人で一人かも知れない。
けど、僕は一人の人間として、玄佳ちゃんともっと強い人間になりたい。
自分を人間扱いしない人に幾ら酷い事をされても、絶対に、諦めない。
「なんだその目は!!」
立ち上がった桜を、母は更に打つ。
よろめく。それでも桜は倒れなかった。
強くなれと、心が叫んでいるから。
「お母さんは、何がしたくて、何を僕に言いたいの」
脳裏に玄佳の顔が浮かぶ、
普段の桜ならばまずしない〝反抗〟に、母は珍しくたじろいだ。
「殴っただけじゃ、怒ってる事しか伝わらないんだよ」
桜が自分の頬を叩いて言うと、母は顔を真っ赤にした。
「お前、ただでさえ成績悪いのにこんな時間まで何してた?」
何かと思えばくだらない言いがかりだった。
「部活だよ。今は天文部も文芸部も、大事な時期だから」
母の目はまっすぐに桜の目を見ている。桜はその視線の鉾を下げなかった。
「この……莫迦が!!」
また、母は桜を打った。桜は殴られたまま、険しい顔で母を睨みつけた。
「何が言いたいのか聞いてるのに、どうして殴るのか僕には分からないな」
そして、真っ向から母に対立する言葉を吐く。
「ただでさえ成績落ちてる癖に部活なんてやってる暇ないだろ!! 部活なんて辞めろ!! 家で勉強だけしてろ!!」
「嫌だよ」
桜は、この時初めて明確に、母の言葉を否定した。
今までずっと、桜は母にも、父にも従属を超えて隷属する姿勢を見せていた。だからこそ、唐突な叛逆に母は驚いているらしかった。
「お母さんも、お父さんも、お祖母ちゃんも、お祖父ちゃんも、みんなそうだよね」
非力な桜は――既に充分な武器を持っていた。
「僕が友達と何かする度に怒って、僕が人と繋がる事がその人に対して迷惑みたいに言う。だから僕はいつも自分が余り物みたいに感じてた」
口の中から血が流れてきて気色悪い味が広がる。
じれったくなって、ペッ、桜は血の混じった唾を床に吐いた。
「そんな風に縛って、僕にどう生きていけって言うの。誰とも繋がらず、ただお母さん達の言葉を聞く人形として生きていけば満足なの?」
思っていた事が、いやにすらすら出てくる。以前、授業参観の日に玄佳の前でノートに書いた言葉をもっと強くして、それを母にぶつける。
母の暴力を止めるくらいの言葉が、今の桜の武器だった。
母の顔には血管が浮く程に、赫怒している。それでも殴る方向にいかないのは、彼女が持つ最後の理性だろうか?
「……したくもない相手と結婚して、作りたくもない子ども作って、やっと老後の事考えなくてよくなったと思ったらこんな不出来な娘で……お前は将来家に金入れる事だけ考えてればいいんだよ!!」
薄々、そんな気はしていた。
桜の母が桜に求める事は、ただ将来自分を養うだけの財力をつけろという事で、桜はその為の奴隷と化していればそれでいい。
「それもできないなら、本当に出来損ないの死にぞこないだな。『部活辞めます』って言え!!」
それでも、本性を見せても母は桜への扱いを変えないつもりだった。
本当の部分が見えてしまえば、桜にとって母は恐れる相手ではなかった。
「お母さん」
血の味を噛み締めながら、母をしっかりと、まっすぐに見る。
「僕の人生は僕のもので、その中であなたを支えるならそれは納得できる」
「なら――」
「けど」
桜は――母を睨みつけていた。自分の中にこれ程の厭悪があるのかと思う程、強い感情が視線に宿る。
「僕の人生を無視してただ『私の為に生きろ』って言うなら、そんな関係はもう終わりにしたい」
母が歯を噛み締めるのが、明確に分かる。
桜も、強く奥歯を食い縛っていた。
嫌になる程、血は争えず、争う事しかできない血統はどうすればいい?
答えなど、分かっていた事で。
「そんなに親の言う事を聞くのが嫌なら、もう家から出てけ!!」
先に答えを下すのは、母だと桜には分かっていて。
「二度と顔を見せるな!! 死んじまえ!! お前の人生は生まれた時に終わってるんだから!!」
自分が生まれた時に呼吸していなかった事を母は言っている。
その時からこの関係は終わっていたのだと思う。
「出ていくよ」
驚く程素直に、桜は――今までずっと、心のどこかで反抗しながら従っていた母の言葉に、心の底から頷いていた。
「僕の人生は終わってない。それに、自分の娘を一人の人として扱わない人と、これ以上一緒にいられない」
桜は、リビングの出口に向かった。
「おい」
「必要な物纏めたら、家を出る。それだけだよ」
恨みがましい視線を背中で感じながら、桜は自分の部屋に引き上げた。
いつもの落ち着く空間に入ると、昂奮していた脳が覚める。
悲しい気持ちが溢れたりするのかと思った。けれど、悲しみは一欠片もなくて、あるのは昂奮で消えていた生々しい痛みだった。
桜は原稿用紙を一枚取り、そこに少しだけ書置きした。
[ずっと出来損ないの死にぞこないと呼んでいたなら、どうせ私に愛着なんてないんでしょう。
生まれた時に死に損なったあなた達の人生のお荷物は消えます。
二度とお目にかかりません。さようなら]
それだけ書いて、学校の鞄、私用の鞄、体操着入れ、今まで書いてきた原稿用紙と大事な事を書いたノート、学校で使う物全て、着替えも詰め込んで、桜は部屋を出た。
純粋な気持ちなら、いつも迷わない。
思考を乱す笑い声は、母が見ているテレビから聞こえる物だ。
乱れるな。
自分に一言言って、桜はリビングをちらりと見た。
「さようなら」
一言言って、桜は家を出た。
止められるかと思ったが、それは桜に残った最後の儚い未練でしかなく、母は見向きもしなかった。
帰る事のない家を見ても、愛着も湧かない。
ここまで冷酷で惨酷になれるのかと思いながら、桜は玄佳に連絡した。
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