8-8

 はるが少し待っていると、カメラを提げた玄佳しずかがやってきた。


「お待たせ」


 玄佳はいつものポーカーフェイスで手を上げてくる。


「うん……玄佳ちゃん、前見せた作品の完成形、できたんだけど、原本は渡せなくて……」


「じゃ、印刷室いこうか」


「印刷室?」


「あれ? 知らない?」


 玄佳は鞄を開き、中から一枚のカードを取り出した。桜は――凛々子りりこがたまに机の上に置いている物だと、思い当たった。


鳳天ほうてんの部活に配られるカード。写真部でも使うから予備を持ってろって部長に言われてさ。いこう」


「う、うん……」


 凛々子からその内渡される物な気がした。桜が副部長になってすぐに浮舟賞の話が出たので、そちらの方を優先しろという事だろう。


 玄佳の後から校舎一階の一室に入ると、中には大きなコピー機が大量に並んでいた。


「原稿、出して」


「うん」


 桜は鞄の中から『球根』の原稿を取り出して、玄佳に渡した。


 玄佳は無表情に、少し、そのタイトルを見ていた。だが、すぐにコピーの作業に取り掛かる。


 桜はその白魚のような指先を見ていた。綺麗な指は紙を傷める事なく、次々と原稿用紙をコピーしていく。


 少しの作業の後、玄佳は刷り上がった原稿のコピーを持って、印刷室にあったステープラーで留めた。


「ちょっと……どこか寄る余裕ないから、きて」


「うん」


 桜は玄佳の後から印刷室を出て、後についていった。玄佳は鳳天の玄関を出て、少しの所に自販機とベンチがある場所にきた。


「飲み物飲む?」


「あ、自分で買うよ……」


 桜は財布を取り出して、緑茶を買った。玄佳は紅茶を買う。


「って、コピーとは言え汚せないな……」


 そんな事を言いながら玄佳はベンチに座って、コピーした原稿を読み始めた。


 桜は――目の前で原稿を読まれる照れ臭さを感じながら、少しお茶を飲んだ。自分の原稿の話、凛々子のプロデビューの話を聞いて、その密度に眩暈を感じる。


 玄佳ちゃんは、僕の今の最高傑作を、どんな風に読んでくれるんだろう。


 玄佳の方を見ると、真剣な顔で原稿用紙を読んでいた。その顔は一つの彫像のようで、瞬きすら何故そんな動きをするのか不自然に感じる程だった。


 ただ――桜はどこか、寂しさのような、もっと複雑なような感情を抱いていた。


 少し、怖がってるのかな、僕は。玄佳ちゃんが認めてくれるか、それも。けれど、これから先、『もっと上』を目指すだけの力が自分にあるのか疑っている。


 でも――『今のまま』じゃ、ずっと凛々子先輩に追いつけない。


 桜は鞄から凛々子に貰った『ドレスコードはいらない』を取り出し、最初の数行を読んだ。


 すぐに分かる。


 凛々子先輩も、自分の『軸』をしっかり握っているんだ。


 桜はようやく、凛々子と勝負できる最低限のラインに自分がきた事を自覚した。それがなければ勝てはしない程、凛々子という人物は遠い。


「桜」


 桜があれこれ考えている内に、玄佳は原稿を読み終えていた。


「ちょっとその本、大事な物なんだろうし、しまって」


「え? うん……」


 桜は本をしまい、玄佳に向き合った。


 玄佳は原稿のコピーを太腿の上に置いて、桜の方に身を寄せて、そっとその耳元に口を近づけた。


「最高だった」


 たった七音が、とても嬉しい。


 泣きたくなるような、けれどはにかむような気持ちが桜の中にあって、それはどうしても形にならなくて、ただただ大切な感情に思えた。


「ここまでくるの、大変だったでしょ。でも――ううん」


 玄佳は何かを言いかけて、自分の唇に人差し指を当てた。


「頑張ったんだね。絶対、取れるよ。浮舟賞」


 そして、桜の唇にその人差し指を当てる。


「絶対……」


「なんて、気休めかも知れないけど。でも、今までの桜と違う。私は――」


 玄佳は天を仰ぎ、人差し指を顎に当てた。


「もっと桜を好きになったし、もっともっと、桜の作品を読みたいって思う」


 玄佳が、自分の作品を求めてくれている――その事が、桜には何より嬉しかった。


「ありがとう……正直に言うね」


 桜は、話す事にした。


 文芸部の先輩方も、宝泉ほうせんさんも、僕の最高傑作だって褒めてくれた。


 それは凄く嬉しかった。浮舟賞を取りたいって思うくらい、思い上がっちゃうような言葉で、でも。


 その話のすぐ後に、凛々子先輩のプロデビューを聞かされて、まだ僕はそこまではいけないって考えたら、不安で、でも弱気になっちゃいけないって思う自分もいて……。


「これ以上の物を生み出せるのか、不安だった」


 でも。


 そんなの全然、杞憂なんだと思う。


 一昨日書き上げたばかりで、今はまだ『次』が見えないだけって、玄佳ちゃんが『読みたい』って言ってくれて分かった。


 寧ろ――。


 何を書くとか、何が書きたいかとか、今はまだ全然分かってない。でも、僕自身の《心の軸》を折らなければいいだけなんだって、分かる。


 それは、玄佳ちゃんの言葉が守ってくれるって、気づけた。


「だから、ありがとう」


 桜が心からの言葉と共に笑顔を送ると、玄佳は桜のその頬の膚に触れた。


「聞きたいな、桜の心の軸」


 その言葉に隠す事など、できる筈もなく。


「僕はずっと『人と、世界と繋がりたい』って心の中で叫び続けてる。それがぶれないなら、どこまででもいけると思う」


 繋がり――桜の中にある一つの心は、自分で見つけられなかっただけで、ずっと心の中にはあった。


『球根』を書く時、それを明確につかんだ。


 だから、迷う事はあっても折れる事はない。


 それを確信させてくれたのは、玄佳だ。


 桜が安心していると、玄佳はおもむろに桜の唇を奪った。ちろりと蛇が舌を出すように玄佳は桜の口内に侵入して、すぐに唇を離す。


 一瞬の混乱、そして湧き上がる羞恥心の擾乱が桜を襲った。


 外で、というのは初めてで、桜は周りを見回してしまった。


 驚きはあったが、それは一つの背徳感として桜の中に戦慄的快感を呼んだ。


「いこっか。そろそろ下校時間だし」


 玄佳は優しい微笑みで、なんでもなかったかのように桜の手を取る。


 芍薬と立ち上がる玄佳の動きに合わせて桜は立ち上がり、少し手を離して鞄を背負って手を繋ぐ。


 そのまま二人は校門まで歩き出した。


「お父さんがね」


 校門を出ると、玄佳は優しい声で言った。


「昔、言ってた。『一つの終わりは一つの始まりなんだ』って。桜が一つを終わらせたなら、きっともう何かが始まってるんだと思う」


 何かが――それは、桜自身思ってもいない事だった。


「なんだろう……今、心にある全部を一つの作品として出して、それでもまだ残ってるもの……」


「それもあるけどさ」


 玄佳は桜の目を見る。


「人は常に何かを手に入れて、なくしてくって、お父さんの受け売りだけど、何か手に入れた物があるんだと思う」


 玄佳は正面を見て、少し歩いた。


「私は桜の心を覗けるわけじゃないから、分からないけど」


 手に入れた物――桜は玄佳と繋いでいない右手を見た。


 何もない、汚いと言われた手で、何かをつかんで、それが糧になる。それは、凛々子の言っていた事にも重なっている。


 手が、泥塗れになっている錯覚を抱いて、桜は立ち止まった。玄佳の手がぶらり、離れる。


「桜?」


 すぐに、桜は玄佳に並んで、そっと身を寄せた。


「少し……強くなれたと思う。けど、まだ玄佳ちゃんに寄りかかってないと、倒れそうになる」


 玄佳は手を繋がず、そっと桜の肩を抱いた。


「いつまででも、こうやっていようよ」


 その言葉が嬉しくて、桜は少し、眦が湿気るのを感じた。


 玄佳が降りる駅まで一緒に帰り、桜は少し遅めに帰宅した。







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