8-6
天文部で話がある程度纏まり、
そこにある事を今の自分の力で具現化して……考えると、直す所は多い。
過去・現在・未来を繋ぎ止めるもの――『心』に耳を澄ますより、痛みの記憶を数えた方が早い。
桜は一度思考を整理するのにノートを取り、本文に組み込む文章の下書きを作って、不意に思った。
『心の在処』それを考えると、桜はいつも自分のノートに全て思考を吐き出していたように思う。
一度、机を離れてこれまで、小学校の頃も含めて閉じ込めてきた記憶達を開いた。
その時、桜は明確に自分という一つの『もの』にある『軸』を意識した。
長丁場になる――直感で悟り、桜はコーヒーを淹れて、徹底的に作品に取り組んだ。
日曜の夜までかけてなんとか改稿作業は終わった。
書き上げた後に見直す癖をつけろと凛々子にいつか言われたのを思い出したが、書き上げた時点でふらふらになっていたので、明日に回す事にして、桜は眠りに就いた。
翌朝、朝一で凛々子に昼に会えないか尋ねると、部室でとなった。寝不足のまま登校し、桜は『球根』の原稿を読みながら昼を迎えた。
中には凛々子がいて、何かの原稿用紙を読んでいた。
「桜」
凛、頭の中で鈴が鳴るように、凛々子の一言で桜の意識は一気に覚醒した。
「励むのはいいが、健康を失するような事はするな」
ほんの一秒で、凛々子は土日に桜がたどった軌跡を見て取った。睡眠時間を削ったのをすぐさま看破したらしい。
「すみません……でも、原稿はできて……」
桜は自分の席につき、持ってきた『球根』の原稿用紙を凛々子に渡した。目の前まできて分かったが、凛々子が読んでいたのは『球根』の前稿だった。
「まあ今回は見逃す。だが、作家が健康を失して早死にするなどよくある話。お前はそんなつまらん悲劇の登場人物にはなるな」
「はい……」
作品の出来不出来と関係ない所で凛々子に怒られるのは初めてかも知れないと桜は思う。凛々子に対して怒りっぽいイメージはあるものの、桜個人が怒られた事はないし、今回についてはいつも見せる激烈な言葉の嵐を使わない。
それでも桜は少し不安で、最新の原稿を見る凛々子の剃刀色の瞳を見た。
人の顔色ばっかりうかがって。
頭の中から侮蔑の声がする。今だけはそんな言葉はやめて欲しかった。
「……桜」
それでも、軽蔑の言葉は凛々子の声に消える。
「下世話な好奇心で悪いが、お前、四月から五月の間に恋人でもできたか?」
「え……あ……」
桜は返す言葉が出てこなかった。
玄佳の事は書いているが、あくまで『玄佳をモデルにした架空の話』として纏めている。玄佳本人のアドバイスも活かしているが、それだけで分かるようなものだろうか。
ただ、凛々子の剃刀色の瞳はこの時、断頭台の刃のように見えた。
「えっと……はい」
「そうか。すまんな。読んでいたら気になっちまって」
もっと何か言われるかと思ったが、凛々子は納得したらしく、それ以上聞いてくる事はなかった。
桜はなんだか無性に恥ずかしい気持ちを抱えていた。恋人がいると見破られると、玄佳と二人で淫らな事をした事も、凛々子からすれば確実に『事実を元に書いている』と分かるだろう。
自分と玄佳の事を……と考えると桜は顔が赤くなるのを避けられなかった。
「あの……凛々子先輩」
話を逸らしたくて、桜は声をかけた。
「どうした?」
凛々子は二つの原稿用紙を見比べながら、まるで今の話がなかったかのように平然と答えた。
「先週、
「ほう」
「ただ、なんなのか分からなくて……」
原稿用紙の束から顔を上げて、凛々子は剃刀の瞳に気怠げな色を浮かべた。
「あのバカは好き勝手しやがって……」
凛々子は呆れたように宙を見て、一つ溜息を吐いた。
「もっとも、確かに私も『
何か、大事な事のようだ。桜には凛々子と花会里の間に暗黙の了解が存在し、それを花会里の方が先に桜に話したとしか分からない。
「それは……なんの話なんですか?」
さっきまでの羞恥心は好奇心に殺された。
凛々子は扇子を広げ、口元を隠した。
まるで本心を隠すかのようで、桜はどことなく(今は聞けないんだろうな)と悟った。
「桜が、というのは可能性の話でしかない。実現するかどうかはまた別だが……いずれにせよ、この話を他の部員抜きにするのは公平性を損なう」
公平性――何か、とても大事な話である事は分かった。
「近い内に全員集めたいが……桜がこれるのは火・木か」
「ぶ、文芸部の用事って言う事なら少し無理は効きます……部長の
桜の言葉に、凛々子は珍しく微笑ましい物を見る目で目を細めた。
「話を焦るな。各々学校にきてはいる。それに私も準備はあるからな。まずは明日の放課後で提案する。急ぎの用事がなければこい」
「は、はい!」
少しでも、凛々子の気持ちを知りたい――桜はそれを自分の軸からくる気持ちなのだと知った。
少し、凛々子が言っていた事が分かる気持ちがした。
『お前の心の声はきっと物凄いものを生み出せる』――凛々子と出会った時、彼女が言っていた事だ。桜は四月、五月を通して少しは自分の心の声を聞けるようになっていると思っている。
錯覚に過ぎないのかも知れない。凄いと思っても凄くはないのかも知れない。
ただ一つ思うのは――。
「今回の改稿、どうでしょうか」
以前ならば聞けなかったくらい、『今』に自信がある。
「細部まで精密に読んでいない状態で完全な判断を下す事はできんが――」
凛々子は扇子を閉じ、左手にぽんと当てた。
「――恐らく、この作品に私が細かい口出しをする事はもうない。というか――」
凛々子は一度視線を原稿用紙に投げ、慈しむように桜の文字をなぞった。
「ここまで洗練された芸術に下手に何かを言って汚す事は、私にはできん」
それは明確に、凛々子が桜の作品を認めてくれた証だった。
少し、目頭が緩む。眦が湿気る。ただ、凛々子が認めてくれた事がとても嬉しい。
「ただ――」
無論、『凛々子に認められる』が完全なゴールではない。
「世間ってのは見えてる範囲より広い……実際に浮舟賞に出してどうなるか。最上級の褒め言葉は取っておく」
「今、これ以上褒められたら、泣いちゃいます」
桜は心から思っている事を、そのまま伝えた――同時に頬を涙が伝った。
「泣きながら言うな。自信を持て。思えば二ヶ月にも満たない間だが、その間に桜は見違えた。今回書いていて、つかむ物もあっただろう?」
「はい。なんていうか……」
桜は眼鏡を外し、目元を拭って凛々子を見た。
「僕自身の『軸』をつかんだような気がします」
軸――揺らぎはしても、決して折れる事がない一本軸が、桜の中には明確にあった。
「その感覚、絶対に忘れるな」
凛々子の言葉は、いつでも強い。
「はい」
同じくらい、強くなりたい。
桜は原稿をコピーすると言う凛々子と別れて、教室に戻った。
玄佳にも読んで貰いたい気持ちがあって、心は軽かった。
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