7-3
そして、桜はその後で由意に会えないか連絡した。月曜の朝、茶道部の部室でという事になった。
緊張――一騎打ちに臨む臆病者の心境で、桜は月曜日に登校して、慣れない部室棟の中を歩いて、茶道部の部室を見つけた。
躊躇いながら、ノックする。少し気持ちを落ち着けなければ、また倒れてしまいそうなくらいに精神の糸が張り詰めていた。
少しして、由意が出る。
「おはよう、入って」
由意の顔は少しというには過分に、物憂げだった。
「おはよう……お邪魔します」
桜は由意が何かを抱えているように見えて怖かった。それでも、ここでしっかり話をつけておかなければならない事は分かっている。ましてこれは自分から言い出した事だ。
しっかりしなければならない――桜は、上座に座る由意の対面に座った。
「天文部の事?」
由意は自分の内側に巻いたボブカットの先端を指で集めながら、桜に尋ねてきた。由意には『また会って話をしたい』としか言っていない。
「……正直に話すね」
取り繕う事は、桜にできる筈もなく。
天文部の事も、少し入ってる。
でも、そっちは今、玄佳ちゃんと咲心凪ちゃんが考え中で……由意ちゃんが無理なく活動に入れるにはどうしたらいいかを練って貰ってる。
由意ちゃんも今は大変な時期みたいだし、なるべく負担にならないように……それを考えたいけど、本題はもっと別の所。
本当の事を言うと、咲心凪ちゃんと、仲直りして欲しい。
僕と、玄佳ちゃんで話したんだけど、今、天文部に一番必要な事は、由意ちゃんと咲心凪ちゃんが仲直りしてくれる事だって。
咲心凪ちゃんは、由意ちゃんの事を凄く気にしてて――。
桜の言葉は途中で止まった。
話している桜の手を取って、由意が険しい顔で桜を見ている。
打たれる――桜は脊髄反射で目を閉じた。幾多のトラウマは、人を無条件に信じさせてくれない。
「桜ちゃんの言いたい事は、分かるよ」
それでも、暴力の風は吹かなかった。
「でも、それは無理」
ただただ訪れたのは、惨酷だった。
桜は目を開いて、由意を見た。その顔は、いつになく険しく、元々は迫力のない造りの顔に嫌悪を浮かべて桜を睨んでいた。そう、睨んでいる。由意は初めて、桜に向けて明確な嫌悪を見せた。
「どうして……」
桜の声は小さく、静寂の中に消えてしまいそうだった。
「私の事を考えてくれてるのは嬉しいよ? でも、私が戻ったらまた私に寄りかかるでしょ。桜ちゃんはしない。でも、咲心凪ちゃんがどうかは別だよ」
寄りかかる――由意はそれをとても嫌がっていた。そして――。
「私はやりたい事に対して時間が足りなさすぎるの。自由にする時間も今はほとんどない。この状況でずっと天文部の事を考えるのは無理だよ」
いつの間に。
いつの間に由意の中で天文部への優先順位はこんなにも下がってしまったのだろうか。
僕達が、ずっと寄りかかっていたからいけないの?
由意ちゃんの世界の中に、僕達の居場所はもうないの?
聞きたい事は次々に溢れてきて、けれどそれを言ったならば徹底的な破局が訪れる気がして、桜にはできなかった。
由意は足りない物に満ちている。その中で天文部の事も、咲心凪個人の事も『不要』と判断されている事が、桜にはとても悲しかった。
「前にも言ったけど、天文部から籍を外すわけじゃない。活動がしたいなら三人ですればいい。私はもう、疲れたの」
疲れた――それは、それ以上の追及を許さない言葉だった。
それでも――桜は、やっぱり、諦め切れなかった。
すぐ傍にいる由意の右手を、取る。由意は意表を突かれた顔をした。
「天文部の事……もう少しだけ、待って欲しい。由意ちゃんの希望を叶えられるように、僕達も考えるから……でも」
桜は、由意の右手を両手で握った。
「咲心凪ちゃんと仲直りして欲しいのは、本当だよ……咲心凪ちゃんは、ずっと気にし続けてたんだから」
譲れない物が、桜の中にあった。
由意は、冷徹を薄墨色の瞳に浮かべて桜を見ている。
「咲心凪ちゃんはずっと、由意ちゃんに言われた事を気にしてた。由意ちゃん――園芸部の活動の時に言ってたあの言葉、本気だったの?」
大して興味もない天文部に――その言葉は、由意を一人の仲間として見ていた咲心凪にとってはとんでもなく傷つく物だった筈だ。それに応じた咲心凪も悪いが、由意の謝罪がないと、二人の仲はどんどん劣悪になるだろう。
「桜ちゃんさ」
由意は、桜の両手にそっと自分の左手を重ねた。
「随分、咲心凪ちゃんに肩入れするよね」
いつか、母親が包丁を持って自分を見下ろしていた時と同じ感覚を、桜は抱いた。
由意にとって、面白い筈がない話の運び方をしてしまった――桜は自分が無我夢中になっていて、由意の気持ちを考えられていなかった事を深く恥じた。
自然に、手と手が離れる。
それは別離の予感に似ていた。
「正直、形だけ謝れって言われれば謝るよ。それでこの一件がなくなるなら、喜んでする」
玄佳が休日に言っていた事は、事実だった。
由意は体面を取り繕う為ならば、単なる謝罪はする。しかし、由意がそれをしたならば由意との関係性はそれまでとなる。それが玄佳の言っていた事なのだと分かって、桜は話をやり直したくなった。
けれど、やり直しなんてものは幻想に過ぎなくて。
「でも、咲心凪ちゃんもそれで納得するか知らない。そんな不確かな事、できないよ」
由意ちゃんも少し、意地になっているのかも知れない。桜はそんな事を考えた。
「由意ちゃん――」
「桜ちゃんさ、ここ最近私の事にかかずらってるけど、文芸部の方大丈夫なの?」
由意はいとも容易く、話をすり替えた。
「それは……」
「聞いたよ? 浮舟賞の事。知ってるのかな。あれは年齢関係なくプロになれる珍しいチャンスだって」
それは、桜もよくは分かっていない、ただ募集要項を読んで、自分とは遠い世界の出来事と認識しただけの物だった。
「それだけ大きなチャンスが目の前にあるのに、桜ちゃんは目も向けてない。それはとても勿体ない事だよ」
老婆心と言うには辛辣な言葉が、由意から出ていた。
「玄佳ちゃんも写真部の方どうするのか知らないけど、天文部に割ける時間が限られるのは咲心凪ちゃん以外全員そうなの。そこを考えずにただ謝って、活動に参加しろって言われても、それは泥船と分かってる船に乗るのと一緒だよ」
泥船――由意ちゃんは、リスクを避けようとしてるの?
それとも、もっと別の意味があるの?
聞けない僕は、いくじなしだ。
「……分かった」
桜は、もう由意に対して言える事が少なすぎて、その言葉を受け入れるしかなかった。
心は悄然とする。そして一つ、燻る物がある。
「桜ちゃんも、文芸部の事考えた方がいいよ」
それは――この状況で出てくるにしては妙に明るい、光明だった。
「うん……」
少し、
「ホームルーム始まるし、いこうか」
由意に導かれるまま、桜は茶道部の部室を出た。
教室に向かう途中、凛々子に会えないか聞くと、昼休みに部室にくるように言われた。
まだ、諦めていない――桜の心の中には、種火が残っていた。
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