7-2
心配は杞憂に終わり、玄佳が半袖のTシャツに黒いスキニーという恰好、肩掛け鞄と巾着袋を持って立っていた。
「おはよ。お昼食べた?」
何気なく、玄佳は尋ねてくる。それが桜には嬉しかった。
「まだ……玄佳ちゃんと一緒に食べようと思って」
「そっか。じゃ、お邪魔します」
「うん……台所使うとお母さんに気づかれそうだから、僕の部屋で……」
「桜の家ってあの婆が支配してるの?」
支配している――それは桜も感じていた事だった。
母に限らないが、桜の家族は桜の全てを管理し、支配して思う通りにいかないと癇癪を起こす。
「……多分、そう」
それがずっと続いているから、僕はいつも何かに怯えているんだ。
「そっか……ま、今はまず天文部の事考えよ」
「うん……入って」
桜は自室に玄佳を招いた。桜が奥に座ると、玄佳はその対面に座った。桜が買ってきたコンビニ弁当と、玄佳が持っていた巾着袋が並ぶ。
「頂きます」
「頂きます……」
桜は弁当の蓋を開けた。小さな物だが、小食な桜にとってはそれで充分だった。
「栄養偏りそうだから、野菜少し多めに入れて貰った」
玄佳は自分の弁当箱を開けて、中から緑黄色野菜を主に桜の弁当の上に置いた。こういうやり取りは桜にとって初めてだった。
「い、いいよ別に……玄佳ちゃんのなんだし……」
「
「う、うん……」
反射的に断ってしまっても、押しには弱い。
「で、食べながらだけど……
玄佳は卵焼きを一つ、桜の弁当に乗せた。
「ありがとう……でも、どうすればいいのかな」
お腹が空いていても食べる気にならない。それでも、桜はブロッコリーを一つ食べた。
前にも考えた事がある。
どうして心が悲しいのに食事は美味しいと感じるのか。
悲しみの深い所について、桜はまだよくは分かっていない。ただ、本能的に理解していて、その表層に触れてはいる。
「まあなんとかして由意を天文部の部室にこさせる所からだよね」
玄佳は現実的に問題を見ていた。玄佳は桜より思考がはっきりしているので、考え出すと理屈は出てくるのだろう。
玄佳の言う事を考えると、桜は食事を取る気力すら失せてくる。
「どうしても、必要なんだよね」
箸を置いて、桜は尋ねた。
「教室で、とかも考えたんだけどね。ただ」
「ただ?」
「由意には逃げ場を与えちゃダメなの」
「え……」
桜は、玄佳の言う事がよく分からなかった。
由意が逃げる? 確かに喧嘩の当事者である以上、咲心凪と直接話すのは気まずいだろうし、ここ数日は隣の席なのにまったくと言っていい程、話していない。
だからと言って由意が逃げるだろうか。
由意はいつも泰然自若としている印象があって、彼女が逃げ出す所を桜はいまいち想像できなかった。
「桜、多分ピンときてないよね」
桜の困惑はすぐに玄佳に伝わる。
「うん……由意ちゃんはそういう事、しそうにないって思う」
玄佳に隠し事をする必要はない。桜は頭の奥から感じる侮蔑の視線を無視して、玄佳に視線を向けた。
「私の思い過ごしならいいんだけどさ」
玄佳は語りだした。
まず、由意は理屈こねさせたら天文部の誰よりも上手い。その場その場で最適な事を言える。桜も、今までで感じてると思う。
で、今の由意と咲心凪にとっての『最適解』は『仲直りする事』でしょ?
四月の間、ずっと桜に言った事を隠してた由意なら、『心からの謝罪』じゃないお詫びを『本物』にすり替えるくらいはできる。
それが解決になるかって言うと、多分ならない。
玄佳はそこで話を区切って、桜が淹れたコーヒーを少し飲んだ。
「前……いや今もか。私なんかその手のタイプだけど、悪いって自覚してる事に対して頭下げて『ごめんなさい』って言うのは凄く簡単な事なんだよ」
頭を下げる――確かそれは。
「玄佳ちゃん、それ、この間うちで……」
「桜の家の糞婆相手にやった。問題なのは『ごめんなさい』って言えば『とりあえずの』解決にはなるって事」
桜はあまり知らない駆け引きを、玄佳は自分の事として知っている。
「じゃあ……待って、でも、由意ちゃんも仲直りはしたいよね?」
「心からしたいって思ってんのか、単に今の状態だと空気悪いからしたいのか分かんないのが由意の怖い所」
由意の本心――確かに、それは確かめようがない。桜は由意から直接話を聞いたが、咲心凪の事に関する言及はほぼなかった。
「……咲心凪ちゃんに納得して貰えるのかな」
「桜ってほんと、優しすぎるよね」
「え?」
急に褒められて、桜は思わず間抜けな声が出てしまった。
玄佳を見ると、魔性の中に慈しみみたいな感情をこめて、黒曜石の瞳で少し微笑んでいた。
「咲心凪は謝られたらすぐに許すし、自分の非も認める。由意はどうかなって言うと、『形だけ丸く収める』って事ができるタイプ」
亀裂――いつか、桜自身が感じて、現在進行形で問題化している物を、深めてしまう可能性に、桜は初めて思い当たった。
「……由意ちゃんの、本心」
「まあ私と桜じゃ由意のどこをどう見てるかが違うから、簡単に分からないのも分かる。でも――」
玄佳は考えるように、目を細めた。
「大体、形だけの謝罪って後で何かしら問題起きるからさ。ほら、私と
楽要の事を話題に出されると、桜はそれで納得するしかなかった。
以前、楽要に聞いた事と玄佳が言っていた事を合わせると、楽要の目の前で玄佳は自殺未遂を起こし、後で楽要に謝っている。ただ、今現在、二人が仲よしかと言うと、間違っても違う。
その関係が、由意と咲心凪に当てはまるかどうかの岐路にいるという事だ。
「……
桜は、一つの気持ちを自分の心の中から掬い上げた。
それはとても勇気がいる事で、自分にできるかどうか分からない。ただ、『できると信じる』事は由意が教えてくれた大切な事で、『明日の予定に失敗を書き込まない』とは咲心凪が大事にしている信条だ。
「まず、由意ちゃん本人の気持ちをしっかり確かめないといけないって、分かる」
それを玄佳に任せてしまうという手はある。自分は今の所、あまり時間に自由が利かないし、理不尽な発作も最近になって明らかになってきた。
ただ、由意が桜にだけ話してくれた事を考えると、玄佳では聞けないか、喧嘩になるのではないかという気持ちがある。
「まず、僕が由意ちゃんの気持ちを確かめるから、玄佳ちゃんは咲心凪ちゃんの方をお願いできるかな」
桜が強く言うと、玄佳は穏やかに笑った。
「桜」
玄佳はそっと、桜の左ほおに手を添えた。
「きっと、桜ならできる。一つ、お父さんが残した言葉を贈るね」
優しい玄佳の顔に見入っている内に、彼女の顔が至近距離までくる。
「つまり『人の心を開くのは優しさと悲しみだ』って」
優しさと、悲しみ――桜は、その言葉をしっかり脳に刻んだ。
「ありがとう……絶対、由意ちゃんの心を聞くよ」
桜は、決意を瞳に浮かべて答えた。
玄佳はそっと桜の唇を人差し指でなぞり、自分の唇に当てた。
桜が赤くなる中で「信じてるよ、桜」と玄佳は言ってくれた。
もしも玄佳を失ったならば、名前を呼んでくれる白い鳥をもたない桜はどうすればいいか、見当もつかない。
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