7-1

 由意ゆいと話し、楽要かなめと約束を交わした翌日の土曜日、はるの母は仕事があると言って不機嫌そうに出ていった。桜に「今日は昼と夕飯を買う以外に家から出るな、勉強だけしてろ」と言いつけて。


 桜の父は一緒に住んでいない。たまに帰ってくるが、よそで仕事している。桜は広い自宅に一人きりだった。母が残したのは恫喝とお昼を買う少しのお金だけだった。


 桜は初め、一人で勉強していた。考査前と考えると少し焦るが、それほど悪い点数を取るような気もしない。それより、天文部の方がどうなったのか気になった。


 一区切りすると、桜はスマホを取った。


 連絡するのは、少し躊躇う。しかし、しなければ落ち着けない。


 桜は玄佳しずかにかけた。


「桜?」


 ワンコールで玄佳が出て、桜は少し驚いた。


「玄佳ちゃん……ごめん、天文部の方がどうなったか気になって……」


 桜はすぐに要件を言った。玄佳が何をしているのか分からないが、彼女にも平等に考査があり、天文部と写真部の活動がある。


「あー、桜がくれたメモから行動方針固めようって話になったけど、由意の詳しい状況が分からないからいまいちって感じ、IBMの手掛かりについては私と咲心凪えみなで探してるけど、手応えなし」


 玄佳は簡潔に教えてくれた。


 そう言えば、由意ちゃんから聞いた細かい事はまだ全然、玄佳ちゃんにも咲心凪ちゃんにも話してない――桜はそこに思い当たった。


「ごめん、由意ちゃんの事情について……話していいのかな……」


「話して。私が脅した事にしていいから」


 桜が躊躇うと、玄佳は即座に答えて、言い訳までくれた。


「……実は」


 だから桜は、話す事にした。


 由意の方で華道部と茶道部にそれぞれいって、そちらの指導役になりつつある事、二つの部活も廃部がかかっているので迂闊に天文部に合流できないという事、この二つが問題の重要点だった。


「……だから、園芸部もあるし、由意ちゃんが活動に参加する頻度はどうしても減ると思う。時間がかかる探し物とかができなくて、もう少し違う活動があれば別かも知れないけど……天文部の活動がどういう物なのか分からないから、僕じゃそこまで回らなくて……」


 申し訳ない気持ちを感じつつ、桜は話せる事を話した。


「なるほどね。まあそういう事情があるならいいんだけどさ」


 ビデオ通話ではないので、玄佳の顔は見えない。ただ、玄佳は珍しく何か言いたげだった。


「方針を決めるのにくらい参加しろって思うんだよね」


 玄佳の言う事は、桜にも分かる。


 しかし、由意の気持ちも、ヒントはあった。


「僕も……由意ちゃんがいてくれたら心強いって思う。でも、由意ちゃんは多分、四月の間に僕達が寄りかかってたのが、ずっと嫌だったんだと思う」


「まあそれ言われたら私が言える事なくなるんだけど」


「ごめん……」


「今のままっていうのは天文部にとってって言うより、咲心凪にとってまずいんじゃないかって思う」


 咲心凪にとって――桜はそこが欠落していた事に気づいた。


 頓馬! 頭の中の罵声が脳の深い所に刺さる。それを必死に耐えて、言葉を探す。


「咲心凪ちゃん……部活で何か言ってた?」


 今の所、天文部で活動しているのは玄佳と咲心凪だけだ。玄佳にしか見えていないものというのは必ずある。


「大分塞ぎ込んでる。由意の事情が分かれば少しは違うのかも知れないけど、前に由意にキツい事言われたの、それに喧嘩っぽく返したの凄く気にしててさ」


 咲心凪の明るくても温厚な人柄ならば、喧嘩した事は大きな傷になるだろうと予測できた筈――桜は自分の愚かを呪った。


 一つ二つの事を考えるのに精一杯で、どうしてもどこかで見えない所が出る。それが悲しくて、桜はぐすっと洟をすすった。


「桜?」


 玄佳が心配そうに声をかけてくる。


「……どうして、目の前にいる人全員を助けたいのに、手が届かないのかな……」


 いつも、そればかり気がかりになって、根雪のように積もっていって春はこない。もう少し聡くなれたなら、春の温度もくるのだろうか。


「大丈夫だよ。一人が見れる範囲なんて狭いもんだから。分かるでしょ、ちょっと前の私がどれだけ狭い世界しか見てなかったか」


 頷く事は、玄佳の今までを否定するようで、できなかった。一度否定して、もう一度という事は、惨酷に過ぎる。


「玄佳ちゃん……でも、咲心凪ちゃんと由意ちゃんに、仲直りして貰いたい」


「それは多分、天文部にとっても必要な事。って言っても私、人と喧嘩したの桜が初めてなんだよね」


「僕も玄佳ちゃんが初めて……」


「じゃ、手掛かりは二人でつかめるね」


 どうして玄佳は、こんなに簡単に言葉を捕まえて、甘やかな風に言い換える事ができるのか、桜は不思議だった。


 以前から玄佳は言いたい事ははっきり言うタイプだったが、その心が過去から今に向いてから、口説き文句とも違う殺し文句を出してくる時が、不意にある。


「うん……でも、玄佳ちゃんの家にはいけないし……」


 その甘やかな言葉で殺して欲しい気持ちがある。


「外出も禁止?」


「お母さんが仕事にいく時、お昼と夕飯買う以外で外に出るなって……」


「って事はあの婆いないの?」


「今日は帰るの凄く遅くなるって……休みなのにって怒ってた」


「カルシウム足りない婆だな……分かった」


 分かった?


 今の玄佳ちゃんの言葉、少し引っ掛かる。まるで何か、いい事を思い付いたような言いぶりで、およそこのシチュエーションに相応しくないのに、何故かピッタリ嵌るような……。


「今から桜の家にいく」


「え……」


 以前、玄佳が桜の家にきて、母に卵をぶつけた一件以来、桜の母は玄佳の事を蛇蝎の如く嫌っている。もしも玄佳の痕跡を見つけたならば、どんな酷い事になるのか分からない。


「それとも、他に誰かいるの?」


「いない……僕一人」


「なら、考えるには丁度いいじゃん。桜が動けないなら私が動く」


 通話の先の玄佳が何故か、強気な表情をしている気がして、桜は千里眼でも得たような不可思議な気持ちに陥った。


「いいのかな……」


 桜にとって、家族の言いつけを破る事は、とんでもない破戒に似ていた。


「桜はお昼用意して待ってて。私は自分で持ってくから。桜は言われた通り家から出てない。だからあの婆に文句を言う権利はない」


 これくらい、強くあれたら――桜は、玄佳の中に英雄の像を見る。


「二人で二人以上の人間になる前に、まずは二人で一つ。大胆仲直り大作戦考えるよ」


 その言葉は、少し冗談めかしているようでもあったけれど、とても真剣で、魅力的な物だった。


「うん――待ってる」


 桜は、誘惑に陥る獣のように、頷いた。


「すぐいくから」


 それだけ言って、玄佳は通話を切った。


 桜は通話を終えてスマホを置いて、楽な格好でいる自分を発見して、少し着替えて、お昼を買いにいこうと思った。


 暗闇を感じていたが、案外未来は暗くないと思う。


 それはきっと、玄佳がもたらしてくれる一つのとうであって、桜にとっては何よりも大切に火光に変えていかなければならない物だった。


 桜は細い体を余所行きの服に着替えて、母が残した食事代を持って、家を出た。

《英雄》――一つの言葉がとても大切な気がした。


 昨日、楽要が言っていた《地獄》という言葉、巴水見はゆみから聞いた禍福の縄の話、今の桜にはどれも宝物みたいに大切な物に思えて、その一つ一つをしっかり考えたいと思った。


 帰ると、玄佳を待つ間にコーヒーを淹れた。


 一人でも、寂しさを感じないのは、少しだけ和らいだ心のお陰だった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る