5-10
桜は落ち着かない気持ちを抱えたまま、家に帰って『球根』の原稿を一通り書いた。翌日までにはなんとか仮完成まで漕ぎつけた。
土に還るイメージ、雨として降り注ぐイメージは恵みをもたらす人になりたいという形で作品に発露し、月曜に少し手を加えたならば
事件は、月曜の朝に起こった。
桜は玄佳と一緒に学校にいった。教室に入ると、咲心凪はきていた。
咲心凪は何かを読んでいるような背中をしている。桜は何も言えない自分を見つけて、原稿用紙の束を取り出した――そこに、由意がきた。
「おはよう」
由意はいつも通りに声をかけてくる。
「おはよ」
「おはよう……」
「由意ちゃんおはよう! 土曜あの後ね――」
「何か分かったの?」
咲心凪の声を遮った由意の顔を、桜は確かに見た。
いつもならば穏やかに見える表情がこの時、複雑に組み合わせた絵の具のように淀んだ色に染まり、まるで生き血をかき分けてきたかのように不吉な物に見えた。
思わず声が出そうになるのを、桜はなんとか両手で止めた。
「玄佳ちゃんの方で手掛かりを探してくれる事になって――」
「そうじゃなくて。どうするかじゃなくて、何か新しい情報は入ったのかを聞いてるの」
この厳しい由意はまだ桜がほとんど知らない物だった。ただ、咲心凪は体験しているのか、顔が青くなっている。
「えっと……玄佳ちゃん、何か見つけた?」
玄佳に話を振る咲心凪に注がれる由意の表情は、心の底から興ざめしたようで、桜はまともに彼女の顔を見られなかった。それでも視線を外せないのは、僅かな熱で爆発するかのような恐ろしい雰囲気の為――以前、
「お父さんの遺したメモの類は片っ端から当たってるけど、そんなすぐに何か見つかるような量じゃない」
玄佳はただ、事実を言っている。
「だから、つまり……」
「だったら、しばらく天文部の方は私がいなくても大丈夫だね」
由意はすげなく、咲心凪の視線を振り切った。
「いや待ってよ! 玄佳ちゃんが探してるって言っても一人で探してるんだよ!? 今は当たりをつけて貰ってる状態なの!! そこから私達三人も」
「どの道、今は動けないって事でしょ。咲心凪ちゃん、自分で言い出した癖に自分の家には何もないの?」
咲心凪のプランを一蹴し、由意は咲心凪自身の事を言った。
IBMの話を最初に始めたのは咲心凪であり、それは彼女の祖父の体験からきている。ならば彼女の家にも何か残っていないのか――由意が言っているのはそういう事だ。
「残ってるならとっくに持ってきてるよ」
珍しく――桜と出会ってから初めて、咲心凪は怒った声を出した。
「お祖父ちゃんが何か残してないかなんて凄く探した。でも見つからなかった。見つからなかったから探してるんだよ」
「なら、もう少し能動的になったら?」
「なっ……」
挑発するような由意の言葉に、咲心凪は怒ったように立ち上がった。
「能動的にって、部の足並みがそろってなきゃできないでしょ!? 誰が一番足並み乱してるか分かってる!?」
由意の机に両手をついて、咲心凪は必死に訴えている。
由意は冷酷を薄墨色の瞳に浮かべて、咲心凪を見た。
「一人欠けた程度で動けなくなるって? 随分切羽詰まってるんだね」
「そりゃそうだよ!! こっちは廃部の危機もかかってるんだから!!」
「それは人を縛る理由になると思ってるの?」
「思ってないけど!! せめて連絡くらい返してくれてもよくない!?」
週末の間、由意は天文部の連絡に既読だけつけて無視している。咲心凪はそのストレスも溜まっているらしかった。
「私も忙しいんだよ。桜ちゃんだって文芸部があるし、そう簡単に全員でなんて――」
「由意」
地雷を踏んだ――由意が、玄佳の地雷を。
玄佳がそっと立ち上がり、由意の隣に動いていた。
「桜を言い訳に使うな」
その言葉は、有無を言わせぬ迫力を伴っていた。
「この前も桜を言い訳に使ってたけどさ、桜に何か確認したわけじゃないよね? 桜は天文部の活動も捨ててない。寧ろ、私達に合流する為に週末頑張ってた。桜を見もしないよね。クマ凄くできてるのに」
その段になって、由意はようやく桜を見た。桜は玄佳の言葉で目元を隠した。睡眠時間を削ったので、その影響は涙の通り道を塞いでいるだろう。
「……全員やってるから、当てもない作業につきあえって?」
由意は穏やかな顔に嫌悪感を浮かべて、二人に視線を送っている。桜は見ているしかできない。天文部の方で人手が足りないのは事実だが、由意に何か事情があるらしいのも分かっている。
「つきあえって一方的には言わないけど、つきあえないならせめて理由くらい言って欲しいって分からない?」
「見つかるかも不確定な物の為に時間を割ける程、暇じゃないんだよ」
「じゃあ由意ちゃんはなんで天文部に入ったの? そもそもIBM自体いつ見つかるか分からないんだし――」
「だからこそ活動に自由があっていいと思うんだけど?」
「逆だよ!! だから少しでも手掛かりを探したいって言うの!!」
由意と咲心凪、二人の意見が真っ向から対立している。
由意は効率の悪い作業に時間を割きたくはないのだろうが、咲心凪は寧ろそのような作業に没頭できるタイプだ。お互いに嫌な部分が重なっている。
「由意はやらない理由探してるだけなんじゃないの?」
そして、どちらかに誰かが味方するとまずい。玄佳はそれが分からずに咲心凪の肩を持つ。桜はどう止めればいいのか分からなかった。
「探すまでもないでしょ。IBMは夢物語に近いんだから、気長に探す。根詰める程、私達は専門家じゃない。それじゃダメ?」
「夢物語って――」
「はい、三人共そこまで」
不意に、会話に割って入ったのは――クラス委員長の
「……黒崎さん、聞いてたの?」
天文部の中で真っ先に潰れた声を出したのは、何故か桜だった。
「あなた達注目の的だったわよ……とにかく、部活の事で揉めてるのは分かったけれど、天文部については
花咲音の言葉に、由意は酷くつまらなさそうな顔をした。
「私は義理を立てて天文部に入っただけ。そんなに人手が欲しければ部員を増やす方向を目指したら?」
その言葉がどれだけ重たい意味を持つのか、由意は分かっていてやっているのではないかと桜は思った。
「……なら、もう由意ちゃんには頼らないよ」
ただ、咲心凪がそう言う事も簡単に理解できて。
一昨日に感じた亀裂という言葉が予感だけでなく、実際に起きてしまった事が、桜にはただただ悲しかった。
「とにかく、四人でちゃんと話し合ってね。
泣いてる――花咲音に言われて、桜は目元に手をやった。眦が湿気る感覚を忘れるくらいに、三人は激しくやりあっていたらしい。
「……ごめんなさい」
いたたまれなくなって、桜は謝った。
それが合図みたいに、玄佳はそっと自分の席に戻り、咲心凪は机上の書類を片付け、由意は教科書とノートを取り出した。
最悪な空気のまま、四人の一日が始まった。
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