5-9
翌日、
そして、西脇の案内で四人は鳳天近くの喫茶店に入った。円形のテーブルが幾つも並ぶ洒落た店で、桜は少し恐ろしい気持ちになっていた。自分が入るにはあまりにも綺麗すぎる場所だと。
「すみません、
西脇はすぐに、店員に声をかけた。店員は桜達を一つのテーブルに案内する。
座っていたのは、銀髪を丁寧に撫でつけた壮年の男性だった。
「鳳天学園の皆さんですか」
彼は立ち上がり、桜達に向けて礼をした。
「はい、鳳天学園中等部天文部、顧問を務めている西脇
西脇の一言で、それぞれ自己紹介する。
全員テーブルにかけ、飲み物を頼んだ。
「まず、
西脇はいつになく真面目に話を進めていく。
「氷見野咲心凪さん、ですね。どのような事ですか」
「簡単に言うと、つきのひさし先生の作品『Icy Blue Moon』がどうやって描かれたのかについて、です」
咲心凪はノートを広げて、メモの用意を始めた。
「天文部という事は、つきの先生が見た物を実際に見ようとしていらっしゃる?」
高岡は気になるであろう事を尋ねてきた。天文部が絵本作家の作品の事を尋ねる理由は他にない。
「正確に言うと、私のお祖父ちゃんもIBMを見たって言ってて、玄佳ちゃんのお父さんも見ている……二つの証言からIBMが見られる条件を割り出す活動をしています」
咲心凪の言葉に、高岡はにこりと笑った。
「確かに、つきの先生はそれを見たようです。そこから何かのインスピレーションを得て、絵本を一冊描いた……私で答えられる事ならばなんでも尋ねてください」
桜は自分の顔が好奇心に染まるのを感じたが、それ以上に思うのは話を進めている咲心凪の緊張、玄佳の好奇心、そして不機嫌そうな由意の表情だった。
「つきの先生はどんな状況でIBMを見たか、書き残してませんか?」
咲心凪はノートを見ながら話を始めた。
「幾つかのメモについては預かっています。今日……つきの先生のご令嬢もいらっしゃると聞いたので、持ってきました」
高岡はバッグから一枚のクリアファイルを取り出し、丁寧に咲心凪に渡した。咲心凪は受け取った。
「ただ、私が受け取ったのは構想のメモが大半で、IBMという物の観測条件に関しては不明瞭です。『着想』の書類を見てください」
高岡の言葉で、咲心凪がそれを机上に広げる。
鉛筆で描かれているが、つきのひさしの絵だと分かるタッチで雲を纏った月が描かれ、そこに幾つかの文章が書かれている。
「当時、つきの先生が仰っていた事はよく覚えていますよ」
高岡は玄佳を見て微笑んだ。
「先生はずっと『透明な場所』にこだわっていました。その上で『きっとこの月が
抽象的な言葉ではあるが、つきのひさしの考えの上でも、『IBM』は重要な物であるらしかった。
咲心凪は資料の内容を見て、それを玄佳に回した。玄佳は桜と由意にも見えるようにそれを広げた。
つきのひさしが書き残した事を纏めると、以下の通りになる。
とある繋がりで天体観測に参加した時、近くで轟音を聞いた。直後、月が雲に隠れた。何か何かと思っている内に霞んでいた空が晴れて、氷のように青い月(Icy Blue Moon)が見えた。そこから先は、つきのひさしの作品の構想となっている。
「これうちにはないな……高岡さんはこういう物を他にお持ちですか」
玄佳が尋ねる。義理の父には慇懃無礼な玄佳が、高岡には礼儀正しいというのが桜には不思議だった。
「すぐに探せた物がその程度だったんですよ。何せあなた達が生まれた頃の作品ですから、社に残っている資料もどこまで探れるかは不明瞭……ただ、つきの先生の物とされる資料については他にも当たる当てはあります」
高岡の言葉に、玄佳は考える表情になった。
無論、父親の事ならば玄佳は知りたがるだろう。今でも、義理の父をお父さんとは呼ばない玄佳の事なのだから。
「当時の話とか、覚えてませんか。つきの先生がどんな物を見たって言ってたとか……」
咲心凪は少しでも情報が欲しいらしく、高岡に尋ねる。
桜は見終えた資料を由意に渡した。
「空が何か……それが何かをつきの先生も分からないようでしたが、何かで満ちているようだったとはよく仰っていました。類似の天体現象について調べてみるとも仰っていましたが、そちらでどのような物を発見したかを確認するより早く、幾つかのラフが上がってきました」
という事は、高岡さんでも知らない事があるっていう事だ――桜は玄佳を見た。
「私の方でも探してみます。高岡さん」
「はい」
「お父さんはそこが『透明な場所』だって言ってませんでしたか」
玄佳の問いの真意は、分からなかった。
ただ、邪魔する事を許さない支配力が、その美貌には浮かび上がっていた。桜から見る横顔は、人面の人喰い獣のように整っていて、何故翼が生えていないのか不思議なくらいだった。
「透明な場所は先生が一生をかけて追及すると仰ったテーマです。少なくとも、その考えの中でとても重要な位置づけにあるとは思いますが……」
高岡は玄佳の視線から自分の顔を逸らした。
「直接的に言及される事はありませんでしたね。何か――そう、卑しい喩えを使えば『これこそがわが流派の秘儀』とでも言わんばかりに、周りにはあまり話さない話題でした。透明な場所とIBMの繋がりについては」
という事は、とても重要な事が隠れているんだ。
桜はそんな事を思った。
「っていう事は……」
「玄佳ちゃんの家に何か残ってないかの確認くらいじゃない? できる事は」
整理するように呟いた咲心凪に、由意が不機嫌そうに被せた。
「まあそうなんだけど。高岡さんも何か資料があれば……」
「ええ。時間がある時に探してみましょう。それから、よければお昼を食べていってください。つきの先生のご令嬢が一緒ならば、興味深い話もできるでしょう」
高岡はにこやかに誘ってきた。
「あり――」
「あ、私は遠慮しておきます」
お礼を言おうとした咲心凪を遮って、由意が静かに、淑やかに立ち上がった。
「元々、お昼前までの約束だったので。それじゃ、失礼します」
誰が何を言う間もなく、由意は静かに去っていった。
「……やーっぱ、何かあるね」
玄佳はその後姿を見て、呟いた。
「何か、気分を害すような事を言ってしまいましたかね」
高岡は困惑したように玄佳に尋ねた。
「いえ、なんでもないんです。ただ、由意は最近別の事が忙しいみたいなので。それよりお父さんが生きてた頃……」
すぐに玄佳は話をつきのひさしの物に戻した。
由意ちゃんはどうしたんだろう――立ち去った方を見ても、もう影も見えない。それに、咲心凪ちゃんが悲しそうな顔をしているのがとても気になる。
桜はその後、高岡にごちそうになりながら、居心地の悪い空気を感じていた。
亀裂――不意に浮かんだその言葉が、幻想である事を願った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます