5-8
天文部のあれこれが決まった後、
足りない物と言われれば確かに足りない。桜にとってそれを一つのイメージとして具象化すれば『雷』だった。
ただ、そのイメージをどうつかんで、作品に落とし込めばいいか分からない。別の言葉に置き換えれば『刺激』となるのだが、安易に手に入る物ではない。
ホームルームが終わると、桜は天文部の方にいく口実もなく、文芸部に向かう理由もないので、ただ家路に就いた。
気もそぞろに課題を済ませて、『球根』を書き直す。
幸せになりたいと願う気持ちが主人公にあるが、その幸せの形が不明瞭――どうしてそのヒントが『雷』なのか、桜にはよく分からない。
ただ、とても大切な事な気がしている。
桜が頭を悩ませていると、スマホが鳴って、
いつになっても大丈夫なようにしておこう、桜は原稿用紙を読んだ。だが、すぐに書きあがるわけもなく、何かふんわりと見えている物をつかもうと虚空に手を伸ばしたりした。
下校時間の頃、
「あ、桜?」
玄佳ちゃんの声だ……何故か当たり前の感想が出てくる。
「うん……どうしたの?」
「連絡。咲心凪の代わりに」
咲心凪の代わり、という所がよく分からなかった。スマホを見ても、咲心凪はさっきまで普通に連絡してきている。
「何かあったの?」
「まあちょっとね。とりあえず聞いて」
「う、うん……」
桜は何かが起きる予感を感じながら、玄佳の話を聞いた。
ただ、こっちも今月の成果なしってわけにはいかないじゃない?
その事を話したら、高岡さんは明日か明後日に時間を作ってくれる事になった。ただ、急だから天文部は全員でいけるか怪しい。
桜は――きたいんだよね?
不意に、玄佳は桜の心を見透かしているような事を言った。
「うん……文芸部の原稿は大事だけど、でも、天文部のみんなの方がもっと大事だよ」
桜は、玄佳にならばしっかり本心を伝えられる自分がいる事を発見していて、少し強気な気持ちにもなっていた。
「ま、桜はそう言うと思った。咲心凪が今、
玄佳はそこで声を途切れさせた。
桜が耳を澄ますと、電話口で咲心凪が大声を出しているのが分かる。
「由意は最悪こないかも。由意って多分、縛られるのが嫌いなんだよね」
縛られるのが嫌い――それは確かに、昨日今日の由意の言動を見ていれば分かる気もした。
「でも、咲心凪ちゃんは……」
「くるように言ってる。まあ実際私達の中で誰が一番『その時最適な行動が取れるか』って言うと由意だしね」
玄佳が言う事は桜にも分かる。由意は『今』を分析して最適な動きを出す事に関しては誰よりも得意だ。その時々での判断も早い。大人との対話にも必要というのは、咲心凪も恐らく分かっている。
「ただ……」
玄佳が咲心凪の方を気にするのが、桜には見えるようだった。
「きたとしても、後で何かある筈。昨日今日、由意は天文部の方に出てないけど、その間で園芸部やってるのかどうか分からないし。揉めそうになったら桜は咲心凪の事お願い」
揉めそう――確かに由意は最近咲心凪に対する当たりが強いし、玄佳とは以前、少し剣呑な空気が流れていた。
「玄佳ちゃん……」
聞くのが、とても怖いのはどうして?
「大丈夫だよ。桜は何も心配しないで」
玄佳の声はとても優しくて、桜はそれ以上何かを言う事ができなかった。
本当は、玄佳が由意と喧嘩しそうな事や、咲心凪が今どんな話を由意としているのか聞きたいのに、聞けない。
「……玄佳ちゃん」
ただ、言える事というのは、一つだけあって。
「何?」
「もしも何かつらい事になったら、僕を頼ってね」
自分が倒れそうなのに、誰かに頼られて大丈夫なのか――否、それが玄佳ならば受け止めるのが自分という生き物だ。桜は自分の心に刻んだ。
「……ありがとう。桜もね」
「玄佳ちゃん!! 桜ちゃんに明日どうか聞いて!!」
玄佳の感傷的な声に被さるように、咲心凪の大声が聞こえた。
「だってさ」
「う、うん、大丈夫……」
早速、僕は倒れそうになってる。けれど、踏ん張るんだ。きっと、玄佳ちゃんも――玄佳ちゃんも、倒れそうなのを堪えてるんだから。
「じゃあ、細かい時間は後でラインするね。また明日」
「うん、待ってる」
通話を終えると、桜の中には何かとめどなく悲しく、何か大きな物を諦めた後のような気持ちが湧いてきた。
雷は、鳴らなかった。
鳴りそうな気配を感じているけれど、もっと酷い雨になる気もする。
僕にできる事はなんだろう。『球根』を書き上げるより、もっと直接に人の役に立つ事がしたいな――ああ。
『余計な事はするな!』その通りだと思う。
鳩尾の上に痛みを感じて、桜はスマホだけを取って椅子から立ち上がり、ベッドにふわりと倒れた。
どうして、僕は出来損ないと呼ばれて反論もできないの?
タン、タンと窓を叩く音が聞こえて外を見れば、五月雨が降り出していた。
玄佳ちゃん達は大丈夫かな――傘を持っていきたいけれど、今からいったんじゃみんな帰ってるだろうな。
取り留めもない思考が桜の中に湧いてきた。書き留めようとも思わないくらいに倦怠感が満ちている理由は、桜自身にとっては明確だった。
胎児の夢なんて言葉があるけれど、僕が魘されているのはそれなのかも知れない。
聞かなきゃよかった言葉っていうのは確かにあって、僕はそれを聞いてしまった。
……きっと、口にするだけでおかしいと思われる。
やり切れない気持ちになった桜は立ち上がって、また『球根』の原稿用紙を見た。
もしも僕が球根の時代を過ぎて何かを成して幸せになりたいというなら、それは玄佳ちゃん抜きじゃできない事なんだろうと思う。
玄佳ちゃんは恵みをくれた一人で、一番大切な人だけど、一体僕は玄佳ちゃんとどんな事がしたいんだろう。
玄佳ちゃんは絵が描ける。一緒に本を作るのは面白そうだと思う。玄佳ちゃんの写真に僕が文章を合わせる……それもいいかも知れない。玄佳ちゃんはつきのひさし先生の絵本を沢山持っているから、僕が持っていない物も読ませて貰えるかな。
でも、こういう事は友達同士でもできるんじゃないか?
問いかけるその人物の顔は、何故だか
切れ味鋭い剃刀の目に見える僕は、何を思うのか――それは、ひょっとすると。
桜は空想から戻って、右手で自分の陰部を押さえた。
あの日玄佳がくれた痛み――体験はまだ一度だけで、その先に何があるのかを桜はよくは知らない。ぼんやりとした想像と、今でも思い出せる自分自身の味が手掛かりだった。
そこにあるのは痛みであり、血であり、紛れもなく愛だった。
桜は『球根』のメモを取っているノートを取り、大きく『開花の痛み』と書いた。
花が咲く時に痛みを感じているとしたら?
それを手掛かりに、桜は言葉を繋げていった。ただ、上手くはできない。
大きな手掛かりではある――手応えを得てスマホを見ると、明日の十時半に
由意もくるらしい。桜はそっとOKの返事を送って、食事に向かった。
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