5-6
翌日、
ただ――天文部のあれこれをどうにかする前に、桜は自分個人の問題をどうにかしたかった。
一年生のフロアにいく途中で玄佳に一言言って、桜は三年生の教室を目指した。訪ねる相手は無論、
凛々子は自分の席にかけて原稿用紙の束を読んでいた。
初めて会った時、桜にとって凛々子は美の暴力的化身だった。今でもその印象は変わっていない。ただ、もっと、保護者に感じるような温さも持っている。
「す、鈴見先輩……おはようございます」
桜は、その彫刻のような姿に声をかけるのを躊躇いながら、それでも声をかけた。
「桜か……丁度いい。こちらからいこうか考えてた所だ」
剃刀色の瞳に見られる事は、少しマゾヒスティックな心地よさをもたらすという事も、近頃の桜には分かっていた。
「あの……ノート、読みました。それで……あちこち直したくて……」
一度出した物を直すというのは気が引ける。今相手になっているのは凛々子だからそれが通るのであって、賞に出してしまえば訂正などできない。
「締め切りまでの期間中は存分に考えろ」
凛々子は桜が昨日渡した原稿用紙と、それをコピーして朱を入れた物を差し出してきた。
「これは……」
「文としておかしい部分、誤字脱字がある部分を直した。だが――この作品を高めていく上での問題はそんな些末な部分にあるんじゃない」
凛々子先輩には、見えているの?
僕はただ、先輩がくれたノートの中で使える技法を試したいっていうくらいで、根本的な部分は全然、分からずにいるのに。
「ど、どうすればよくなりますか」
知りたい――桜はノートを取り出して、メモの用意をしながら尋ねた。
「主人公が抱えている『自分は今球根の時期にいる』という部分から結末の『今花として咲いた』という部分への流れは概ね書けている。話の筋に破綻らしい破綻はない」
桜は凛々子の言葉を書き留めていく。凛々子はそれを見て、言葉を継ぐ。
「ただ、説明が足りない部分がある。『花として咲きたい』と願う気持ちの核の部分について、一読して分からせるような文句がいる」
一読して分からせる――それは確かに、凛々子が作品を書く上で大事にしている事らしい。ノートを読んだ桜には分かった。
「主人公は劣悪な環境にいるな?」
「はい」
「そこに恵みをもたらしてくれる人間も上手く書けている」
「ありがとうございます」
「ただ、劣悪な環境から抜け出してどうしたいのかという部分だ」
ここが重要になる――桜は、その言葉を太く書いた。
「漠然と『幸せになりたい』というのは話の力点を担うには少々弱い。もっと具体的に『どうしたいのか・どうありたいのか』が明確になって、それを一言で表せるならば、この作品は化ける」
凛々子の言葉を、桜は考える。
「殺し文句、みたいな……」
「あるいは惹句。ただ、言葉の並びという物は後で直せる。問題は主人公の具体的な目的が不明瞭な事だ」
具体的な目標を明確に、と桜は大きく書いた。
ただ、それは――桜自身、どうしても書けなかった部分でもあった。
「その部分……悩んだんですけど、なんだか自分と主人公を同一視して、上手く言えない自分がいて……ただ漠然と『幸せになりたい』としか書けませんでした」
「まあ主人公を自分に重ねている部分は見えるが……」
読む人が読めば、分かるんだ――桜は言葉を扱う者が使う魔術めいた不思議を体験する事になった。
「だからこそ、桜が思い描く『幸せの形』を突き詰めるべきだな。この部分を形にできるかで説得力が変わる……ただ」
不意に、剃刀の色に血が乗るような錯覚が起きる。
「それ以前の文脈という物もある。それに、ありふれた幸せにするにせよ、何か特殊な形にするにせよ、そこには明確で物語に嵌め込める、そして印象を強く残す形が必要になる。細かい部分は幾らでも修正が効く。桜なら私のノートも上手く活かせるだろう。だが、核心の部分だけは桜が考え抜かなければならない」
凛々子がただ優しいだけではないという事も、桜には分かっている。
幸せの形――それは、朧げに見えている。ただ、上手く言葉にする事ができない。球根にとっての養分、土、水、雨……そういう物に自分がなりたいという感覚と、その前にある一つの時期――『花』という形は、酷く難しい。
「……もう少し、考えます」
何か、自分の中に存在する未知の感情が存在する。それを言語化できれば、作品も変わるような気がしていた。
「……桜」
不意に、凛々子はいつもならば見せない悲しそうな色を剃刀の瞳に湛えて、桜の名を呼んだ。
「こういう事は言いたくないが、これは一つの競争だ。徹底的に作品と向き合って最適な判断をしなければ、勝てんぞ」
勝つ――それは桜にとって、よく分かっていない言葉だった。
桜が人に勝った事は半生を振り返ってもほとんどない。底辺争いに勝ち残った事はあっても、凛々子のように何かの頂点に立った事はない。
勝利の味が、分からない。分かるのは砂利交じりに口の中を犯す赤錆の匂いだけだ。
「勝つのって、どんな気持ちになるんですか?」
だから桜は、素朴な質問を出してしまった。
「……気休めじみた達成感と、次への恐怖、そして虚無に襲われる」
凛々子からの返答は、あまりいい意味には取れなかった。
「それでも、勝たなければいけないんですか」
「何かの頂に立った時、その景色をどう見るかは人それぞれ。私は――」
凛々子は少し、遠い目をした。
「あまりいい気分になれなくて、それでも勝ち続ける事を選んだ。少なくとも、限られた者にしか見えない景色が見られる事は確かだからな――桜」
どこか、いつもの凛々子とは様子が違った。
「私もまだスタートラインに立ったばかりだ。ただ、桜が今の私と同じ所に立った時、桜なら私とは違う形で別の道を往けると思う」
凛々子と違う形、別の道――それは少しというには過分に、寂しい気持ちを喚起した。
「僕が、凛々子先輩と同じ所に……」
立ってみたい、その気持ちがどこから湧き上がるのか桜は自覚しなかった。
「突き詰めていけば、立てる。桜にはそれだけの力がある」
凛々子の言葉は、いつも強い。
強くなりたい――心の中で、声が聞こえるのが分かった。
「もっと……」
玄佳といる時のように、言葉が自然に出てくる。
「もっと、多くの事を書いてもいいんでしょうか。僕は……物語にしたい事の半分も書けていないような気持ちになります」
心の声が大きすぎて自分で聞こえないんじゃないかと玄佳は言うが、確かにそうなのだろうと桜は思う。今聞こえる物は、反響すら伴っている。
「一つ目は貪欲に求めろ、二つ目で不要な物を捨てろ」
すぐに、凛々子は道を示してくれる。
「入れたい要素を並べ立て、その後で不要な物を捨てていく……要不要の判断は決して誤ってはならないって、桜に言うのも無粋だな」
急に凛々子は可憐さすら感じさせる笑顔になった。
「お前の心が一つの答えを見つければ、自由自在に筆は動く。まずは、作品を通して自分に向き合え。迷ったなら私に声をかけろ。ただ……
「は、はい! ありがとうございます!」
桜はアポなしで尋ねた事に思い当たって、思い切り頭を下げた。
そして、凛々子から預かる物を預かって、教室に向かった。
ホームルーム前、昼に天文部で話そうと言われた。
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