5-5

 下校時間を告げるチャイムが鳴ると、はるは一人で玄関まで歩いていった。


 世界の歩みはいつも早くて、僕だけがついていけないみたいに感じる。なんだか、宝泉ほうせんさんもつらそうだった。文芸部の関係性はまだ固まってもいないけれど、これからどんな風に変わるんだろう。


 変わり続ける……きっとそうだ。


 その中で僕はどんな変容を迎えるんだろう――唐変木みたいになるんじゃないか。


「桜」


 不意に、取り留めない思考は聞きなれた声に遮られる。


玄佳しずかちゃん……」


 玄佳は靴を履き替えて、一年五組の下駄箱が集まっている所に立っていた。


「まだいるみたいだったから、待ってた。帰ろ」


「うん……」


 桜は、すぐに靴を履き替えて玄佳に並んだ。


 どうして玄佳ちゃんは待っていてくれたんだろう。けど、今は僕も会いたかったから、いいのかも知れない。


「玄佳ちゃん……写真部の方は大丈夫なの?」


 当たり障りのない言葉のようでいて、それは随分心配そうな響きを伴っていた。


「どーするかねぇーってのは先輩が言ってた事だけど、先輩と私でそれぞれ月一冊のアルバムがノルマになった。あと写真のコンテストって年中あっちこっちでやってるから、それにも出してみるかって……私も素人なんだけどね」


 玄佳が写真のノウハウを小学校の頃に学んでいる筈がない。玄佳が得意なのは寧ろ絵で、写真についてはほとんど成り行きで始めている。


「そっか……」


「桜は大丈夫なの?」


 その言葉は、言って欲しいような欲しくないような、曖昧な気持ちがある。


「……自信は、ない。ないけど、書肆しょし浮舟堂うきふねどうで開いてる文学賞に作品を出す事になって、連休中に書いたのを今、文芸部の部長に預けてる」


「潰れそうな顔をしてるのは、どうして?」


 潰れそう――思わず桜は、玄佳の顔を見上げた。


 玄佳の美貌にはあまり表情が浮かばない。ただ、今は無表情に一滴、心配を混ぜたような顔をしていた。


「……プレッシャーなのかな。分からない」


「そう。ちょっと、寄り道しない?」


「うん、いいよ」


 桜はいつも自分の『心の声』が分からずにいるが、玄佳と二人きりの時に限っては、自然と心に従った声が出てくる自分を発見していた。


 それは熱情に耽った一夜がもたらした一種の効果であるかも知れなかった。


 玄佳は桜の二歩先をいって、鳳天ほうてんの近くにある公園に入った。中ではブランコの周りにテープが張ってあった。


「あのブランコ、何かあったの?」


 桜は疑問に思った事をそのまま尋ねた。


「撤去されるんだって」


 玄佳は簡単に答えて、ベンチに座った。桜は隣に座る。


「なんか、疲れるよね」


「うん……天文部は、どうするんだろ」


咲心凪えみなには先にちょっと話しておいたけど、聞いて」


 桜は、玄佳の顔を見上げた。その顔は綺麗で、何気なく桜の首筋に噛みついて血を吸い尽くしそうな薄暮の吸血鬼に見えた。


 連休の間に、文貴ふみたかさんに頼んで、お父さんの担当編集だった人を紹介して貰った。


 高岡たかおかさんっていう人で、書肆浮舟堂にいる。


 お父さんが『Icy Blue Moon』を描いた当時の事を知ってる人でもあるから、会えないかって頼んでみた。


 勿論、相手は仕事の都合もあるから簡単にはいかない。けど、顧問の先生を通してくれればすぐにでもっていう事だった。


 私が、お父さんの娘だからっていう事もあるみたい。


 西脇にしわき先生に頼んだら、交渉してくれる事になった。


「そこで何か、手掛かりがつかめたら、天文部にとっては充分な『成果』になると思う」


 玄佳は話を結んだ。


「じゃあ、咲心凪ちゃんは……」


「西脇先生にその話通した後、部室で今後の予定について書くって言ってた。由意ゆいには後で伝えるって。多分、今夜くらいに連絡はくるよ」


 今夜――今日、明日と学校があるが、連休の影響でその後はすぐに土日だ。


「……ごめん、大事な話をしてる時にいなくて」


「桜は文芸部があるんだからしょうがないよ。っていうか」


 玄佳は、桜の肩に自分の肩を寄せてきた。


「滅茶苦茶プレッシャーじゃないの? あれだけの人数の前で文学賞取るのが決定みたいに言われるのって」


 玄佳の低い体温が伝わってきて、桜は何故だか無性にその体温に甘えたくなった。


「……先輩も、宝泉さんもやる気になってる。でも僕は、やっぱり、ただ鈴見すずみ先輩の言葉に従ってるだけで、どうしたいのか見えない。プレッシャー……かは分からない。無理だって、頭の中で声がするから、そんなに重たく考えてないのかも知れない」


 正直に話していいのか――話せば失望されるかも知れないが、桜には誠心があった。


「僕の声じゃないんだ」


 僕のいた小学校は、何かの賞があると全校生徒が必ず出す決まりがあった。書道とか、絵とか、自由研究、作文、全部、先生が集めて、賞に出すの。


 そういう何かの話をする度に、お父さんも、お母さんも、お前には無理だって言うの。


 お前は愚鈍だから、愚図だから、出来損ないだから……色々理由はあったけれど、似た言葉の繰り返しで否定されて、銀賞なんかは貰えるんだけど、そんな大したものでもないからお父さんもお母さんも馬鹿にして、そんなもの捨てろって言う。


 お前は出来損ないなんだからって、お父さんに言われた事が、ずっと気になってる。でも、自分でも出来損ないだって思うから、言い返せないんだ。


 桜が寂しく話を結ぶと、玄佳は立ち上がった。


「玄佳ちゃん?」


 どうしたんだろう……玄佳は桜の小さな手を取った。


「ちょっときて」


「う、うん」


 桜は玄佳に引っ張られて、公園の中にある自販機の前にきた。玄佳はレモンスカッシュを買った。


「はい」


 そして、それを桜に渡す。


「え……いいの?」


 にこ、少しだけ音がつくように、玄佳は笑った。


「桜が頑張ってる事を認めるには、ちょっとお手軽過ぎるんだけどさ」


 玄佳からの努力賞、らしかった。


「ううん、ありがとう」


 桜は缶を開けて、レモンスカッシュを少し飲んだ。甘い味の中で炭酸が弾けて、桜は少し噎せた。


「あ、炭酸苦手だった?」


 玄佳は自分の分も買っている。


「ううん。大丈夫。でも、久しぶりに炭酸飲んだから……」


「じゃあ、こっち飲む?」


 玄佳が差し出したのは――コーラの缶だった。


「……玄佳ちゃん」


「ごめん、何も考えずに買ってた」


 玄佳がささっとコーラを取り下げて、自分で飲むので、桜は少しおかしくなって笑いかけた。けれど上手く笑えないでいる。


 もう少し。


 もう少しでいいから、自分に自信が欲しいな。そうすれば、玄佳ちゃんと一緒にいる時間ももっと、楽しくなるっていう確信があるから。


 桜はそんな事を考えて、レモンスカッシュの缶を少し傾けた。


「でも」


 不意に、玄佳は真顔になって桜を見た。


「文学賞取る気で書いた桜の『本気』を見てみたい気持ちは、あるよ。ファン一号だから」


 そうだ――桜は、大事な事を思い出した。


 それは、今の自分の作品は玄佳が応援してくれて、楽しみにしてくれているというとても小さく、けれど大切な事だった。


「うん……今日、先輩から文章の技法についてのノートを貰ったから、それを読んで、もっと強くなる」


 桜が答えると、玄佳は桜の腕に自分の腕を絡ませた。


「なら今日は、伝説誕生の記念日だ」


 そうなるなら、どれだけいいか――そんな事を思う一方で。


「ありがとう」


 素直に頑張ろうと思える気持ちも、桜の中にはしっかり存在している。


 帰ると、桜は凛々子りりこから貰ったノートを隅々までよく読んで、翌日に備えた。



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