5-2

 朝のホームルームで、花咲音かさねは連絡事項として文化部の総会がある事、一年五組でも数名出席者がいると言っていた。はるは自分達天文部の事かと思ったが、それだけでもないらしい。


 いずれにせよ、今は天文部の事を考えなければならない。


 給食の時間が終わって昼休みになると、桜は咲心凪えみなと二人で文化部の部室まで歩いていた。桜はノートと筆記用具を持っている。突発的に脳内で言葉の奔流が起こる現象は今でも続いている。


「桜ちゃん、文芸部の方は上手くいってるんだよね?」


 部室棟に入ると、咲心凪はこそっと耳打ちしてきた。


「多分……連休中に一本書けたし……」


「うんまあ、そこも気にはなるんだけど、四月中に何があったかとかね?」


 確かに、咲心凪ちゃんにはあんまり文芸部の事を話していないのかも知れない。


「文芸部の部長が僕の作品集作ってくれて……」


「作品集!?」


 咲心凪が急に大声を上げるので、桜は驚いて数歩、咲心凪から離れた。


「鳳天の文芸部で作品集作られるって相当レベル高くないと無理なんじゃなかった!?」


 咲心凪はどこで知ったのか、やたら凄い事のように叫んだ。


「でも、毎年の行事みたいに言われた……」


「いやそれでも凄いよ。後で読ませて」


「う、うん……」


 凄い、という言葉は文芸部に入る過程で、そして入ってからも言われたが、桜はまったくピンとこない。自分より同期の宝泉ほうせん楽要かなめの方がよほど上手いと思う。


 作品集そのものは部の備品なので、咲心凪には掲載された物のコピーを渡す事にして、桜は文芸部の部室の扉をノックした。


 中には二人の人物がいた。


 一人は亜麻色の長い髪の毛の前髪を中央で分け、後ろ髪をおさげにした、制服を着崩した人物だ。校則の規定を遥かに超えるロングスカートに、ブレザーを着ずにカーディガンを羽織るスタイルは五月になっても継続するらしい。手には扇子を持ち、部室奥の部長席にかけている。


 もう一人は黒髪をボブカットにした垢抜けた印象の一年生だった。頬のラインが健康的に丸く、平均より少し高い身長を綺麗な着こなしで制服に包んでいる。


 制服を着崩しているのが三年の部長・鈴見すずみ凛々子りりこで、もう一人が桜の同期・宝泉楽要だ。


「きたか……」


 凛々子は剃刀色の瞳に美の暴力を浮かべて二人を見た。桜はもう慣れている自分を発見した。ちらりと咲心凪を見ると、緊張しているのが分かった。


「初めまして……天文部の部長の氷見野ひみの咲心凪です……」


 咲心凪は早速、強張った声で自己紹介した。


「文芸部部長、鈴見凛々子だ。適当な所にかけろ」


「はい……」


 もしも咲心凪の動作に擬音をつけるならば、ブリキの玩具を無理に動かすような音だと桜は思う。桜はいつも座る凛々子の対面に座った。凛々子の左隣に楽要が座っているので、咲心凪は桜の右隣に座った。


「初めまして。文芸部の次期副部長、宝泉楽要です。話は町田まちださんから伺ってますよ」


「あっはい……」


 咲心凪ちゃんはどうしたんだろう……普段はそんなに人見知りするわけじゃないと思うけど……桜は、頭の中で何かの虫がうずくのを感じた。


「話を纏めると」


 凛々子は扇子を閉じ、トンと机の上に先端を置いた。


「天文部の副部長が写真部と兼部で総会に出られない。会計は別の用事で無理。しかし書記の桜は文芸部の副部長だから必然的に天文部は出られる人間が部長の氷見野一人しかいなくなる……合ってるな?」


「はい……」


 咲心凪はいつもの人懐っこい印象からはかけ離れた、おどおどした態度で凛々子の言葉に答えた。


「まあ文化部総会そのものが私からすれば茶番に過ぎんのだが……」


 茶番……そうなのかな。


 文化部の総会で何をするのか分からないけれど……ううん、多分、凛々子先輩にとってはどんな難題が出ても必ず解決できるんだ。だから簡単に見える……実際に簡単なんじゃないかな。


「桜」


「は、はい!」


 桜が凛々子の持つ絶対的な力に見惚れていると、凛々子は素早くそれを察知した。


「再興したばかりの天文部が早速目をつけられるのはよくねえな。特に、相手が花会里かえりだとまともにはいかない」


 凛々子は桜の推測通り、生徒会長の黒崎くろさき花会里と知己であるようだった。


「あのっ、桜ちゃんをなんとかうちの方に回して貰うわけには……」


「話を急くな。そもそもその提案を却下するならばこんなに時間を取らずに却下して終わりだ」


「っていう事は……」


「桜はどうしたい」


 咲心凪を無視して自分に剃刀の視線を送る凛々子のその視線に慈しみを感じるのがどうしてか、桜には分からなかった。


 ただ、したい事は明確だった。


「僕は……咲心凪ちゃんが困ってるなら、力になりたいって思います。総会に出るのが僕でもいいなら……ですけど」


 自分がいって何ができるというわけでもない。それが桜にとっては怖い。怖さは恐ろしい魚の姿を取って頭の中に現れた。


 何匹もの魚が陸の上でびちびちと跳ねる光景が頭の中によぎる。呼吸を奪われて苦しむその姿は悪夢の中にいる自分によく似ていた。


「別段、何をする場でもない」


 凛々子が扇子を開く音が、凛と頭の騒音をかき消す。


「幸い、文芸部には次の副部長に内定がある宝泉がいる。今の内に副部長の仕事を覚えさせておくのもありだろ。桜は天文部の代表として出て、大人数が集まる場での空気をつかめ。それは来年のお前の糧になる」


 糧、という言葉の韻律に美麗さを付与できるのは、凛々子の美貌と美声が持つある種の魔性だろうと桜は思う。


「じゃあ……宝泉さん、お願い」


 桜はまず、自分の代わりになる楽要に頭を下げた。


「まあ私は文芸部一本ですから、構いませんよ」


 楽要は笑顔で引き受けてくれた。


 どうして宝泉さんの笑顔が怖く見えるんだろう。今の宝泉さんは少し前の玄佳ちゃんみたいに、風船が限界まで膨らんで破裂する寸前みたいな感じがする。けれど、多分それを口にする事はいけない。


 風船に針を刺す事になる。


 桜は恐ろしい気持ちが湧いてきて、頭の中を整理したい衝動に駆られた。とはいえ、話はまだ済んでいない。


「文芸部の方、大丈夫なんですか? 言い出したの私ですけど……」


 咲心凪は恐る恐る凛々子に尋ねる。


「私は花会里とは馴染みがある。あいつの言い出す事も分かった上で言ってる。それに、こちらにとっても有望な新人二人にいい経験をさせられるなら悪い話じゃあない」


「ありがとうございます!! 宝泉さんも!!」


 咲心凪の中にある恐怖心は楽要には発動しないらしく、いつもの愛嬌がある顔でお礼を言っている。


 魚――何かとんでもない発想を得た気がして、桜は持っていたノートを開いて小さく[魚]と書いた。


「桜ちゃん?」


「ご、ごめん」


 すぐに、桜はノートを閉じた。頭の中の言葉の群れは魚群よりも乱れていて、まだ形にできそうにない。


「桜、宝泉、総会の後、文芸部全体で連絡事項を通達するからここに集まれ」


「は、はい!」


「分かりました」


 今の桜には、楽要の顔が怖くて仕方なかった。


 少しの熱で発火する気体を中に入れた風船のように、熱度のある笑みが桜を見ている。桜が返せるのは不甲斐ない視線だけだ。


 まだ僕は――人間になれないの?


 出来損ないの癖に。


 不意に聞こえたのは、醜い顔が放つ罵声だった。


「いこう、桜ちゃん」


 否――錯覚だ。咲心凪が心配そうに桜の顔を覗き込んでいる。


 咲心凪に手を引かれて教室に戻る間、頭の中に浮かぶのは恐ろしく美しく捕まえられない発想だけだった。



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