4-12
その食卓の席で玄佳が言った事が二つ、決定事項もその二つだった。
桜は今夜、以前そうしたように玄佳の家に泊まる。そして、玄佳は文貴と共に桜の母に謝りにいく。
前者は桜を帰らせられないという玄佳の配慮で、後者は玄佳なりの礼儀だった。
玄佳と文貴が出ている間、桜は書き物をしていた。『球根』の原稿は迷走していた部分が綺麗に組み立てられ、連休中に書けそうだった。
桜がメモを終えると、玄佳と文貴は帰ってきた。桜がどうなったか気になって尋ねると、玄佳は『桜は何も心配しなくていい』と言う。
それでも心配なまま、桜は玄佳と一緒につきのひさしの絵本を読んだりしながら過ごして、夕飯を頂いて、お風呂に一緒に入って、寝る前、玄佳のお下がりのパジャマに身を包んで一緒のベッドに寝転んでいた。
玄佳のベッドは一人で使うには広く、小柄な桜が入って丁度二人分くらいのサイズだった。
「……なんか、前、桜がここに泊まった時から、こうなるの分かってたみたい。未来なんて、見えないのに」
玄佳は部屋の電気を少しだけつけた状態で、横を向いて桜と向かい合っている。
「僕は、全然分からなかった。ただ」
「ただ?」
「こうなりたいって、心の中ではずっと叫んでたんだと思う。玄佳ちゃん」
不意に心細さという魔物に襲われて、桜は布団の中の玄佳の手を取った。
「ずっと一緒にいたいけど、僕にそれができるかな……」
酷く、自信がない。それはいつもの事だが、自分から言い出した事を曲げてしまいそうになる今の自分は酷く惨めだった。
「離れないって、言ったでしょ」
玄佳は身じろぎして、桜の体を抱いた。湯上りというのを差し引いても玄佳の体は火照っていて、そのいつにない熱度が桜の体まで熱くした。
「……玄佳ちゃんの家の子になりたいのは、我儘かな」
「我儘だけど、叶えてあげたい」
玄佳の手は彼女の物ではないように、桜の体をそっと撫でている。このまま玄佳の意のままにされても、桜はまるで構わなかった。
二人で一緒に、どこまでも――透明な場所までいく。その為の契りなら、桜に拒む理由などない。
「ねえ、玄佳ちゃん」
「ん?」
桜の体をまさぐっていた玄佳の手が、止まる。
「どうして、僕を選んでくれたの?」
その一言が合図であったかのように、二人の顔が密着する。おでことおでこをくっつけて、玄佳は目を閉じた。熱を測るような体勢で伝わってくるものが熱ではなく玄佳の心そのものならばどれだけいいか分からない。
「どうしてなんて、簡単に言えるほど単純な理由じゃないよ」
玄佳は、至近距離で桜に囁き始めた。
桜の放っておけない感じが好き。真剣に何かを書いてるのを見るのが好き。どんなものを書いているのか読みたくなった。うちのめされるくらい、桜の作品は私の心を打った。
それに、私の事を心配してくれる人は今までにもいたけど、泣いてまで止めてくれる人なんていなかった。私が教室から飛んだ時でも、親ですら泣きはしなかった。
でも、桜は泣いてくれた。死なせないって、言ってくれた。
「ごめんね」
桜の心の問題を見過ごしてて。
もっと早く気づこうと思えば気づけた事だと思う。でも、私は合宿で桜があんなになるまで気づけなかったよ。
私の問題も、桜の問題も、何も解決してないんだと思う。
「でも、二人で乗り越えて、二人で一人から、一人と一人で二人以上になろう」
玄佳の黒曜石の目は、暗い光の中で確かに桜の目を射抜いた。
「うん……約束だね」
す、と桜の方から、玄佳に唇を差し出す。玄佳は桜の唇に自分の唇を重ねた。昼間にしたよりも長く、二人はお互いの湿度と熱度を貪っていた。
何も。
何も持っていないのかも知れない、僕達は。
少しのありふれた言葉と、幾つかの思い出と、見えはしなくてもここに確かにある愛が、持ち物だ。
瞼を閉じればトラウマばかりが浮かんでくるけれど、玄佳ちゃんの笑顔がそれを掻き消してくれる。それはとてもチャーミングな事なんだと思う。
いつか氷のように青い月を見て、一所懸命に生きて、透明な場所に向かうまで、どれだけの物を手に入れられるのか分からない。
けれど、今までみたいにただ生きていただけじゃない未来がこれから始まろうとしてる。
その中で幾つもつらい事があるんだと思う。
いつも、もうこれ以上つらい事なんてないと思いながら生きてたけれど、もっとつらい事なんて何度も何度もあった。きっとこれからも苦しんでいく。
でも、今までは一人だったけれど、今は玄佳ちゃんがいるから、きっと大丈夫なんだって思う。
桜の頭の中に流れた言葉は、桜の心の中だけの物だった。
ただ、くちづけを終えた玄佳の顔は、桜の心を読んだかのように、穏やかだった。
「ねえ、桜」
「何? 玄佳ちゃん」
「これからはもっと気軽に、うちに泊まりにきなよ」
「いいの?」
「お母さんも文貴さんも私が黙らせるからさ」
「そうじゃなくて……きっと、僕のお母さんはどんどん玄佳ちゃんを嫌いになってくよ」
「大嫌いな奴に嫌われたって、別になんともないよ」
「……玄佳ちゃんは、強いね」
「そう言える桜も、強いよ」
「どうして?」
「幾ら酷い目にあっても、桜はその度に自分を持ち直して立ち上がってきた。私はずっと打ちのめされて、這いずり回ってた。私にはできない事だよ」
「でも、玄佳ちゃんも僕にはできない事をしてる」
「何、それは?」
「自分の血の繋がった家族をずっと愛し続けるって、僕にはできないんだ……」
「じゃあ、その分の愛は私に注いでくれる?」
「うん。全部、玄佳ちゃんにあげるよ」
「なら、私も立ち上がって一緒に歩いていけると思う」
「ごめんね、歩くのが遅くて」
「いいの。私もふらふらだから」
「寄り添え合えば、少しは違うのかな」
「歩くのは遅くても、楽にはなるのかもね」
「きっとずっと、魘されていくって思ってた」
「今は、違う?」
「目の前にある物をしっかり見て、玄佳ちゃんと一緒の宝物を幾つも瞼の中に閉じ込めて、いつか透明な場所に一緒にいきたい」
「その気持ちは、私も一緒だよ」
「なら、約束だね」
「うん、約束。絶対に、破らないし破っちゃいけない約束」
小指と小指が絡まり合い、つられて唇は唇を求める。
とても理性的とは言えない衝動は二人に似通っていた。
凶悪! 感情とは時に凶悪さを伴って体を突き動かす。今の二人はまさにそれだ。
語り合っている内に、二人がしていた事はただお互いの衣服を乱してその体に触れ合うという事で、桜には『その先』が分からなかった。ただ、玄佳は知っていた。
少女というには大人びていて、大人というには稚拙な二つの体は、一つのベッドの上で絡み合っていた。
「桜……約束だよ」
玄佳の声が、まるで直接脳に語り掛けるかのように聞こえる。
桜はその手に全てを任せ、何もかもを忘れて二人だけの秘密に耽った。
玄佳はそっと電気を消して、暗闇の中で二人は一つの契りの営みを行なった。
生きてきた今までの全てが、この時の為にあったかのような心地よい充足感が桜を満たして、赤子のように玄佳の指をそっと舐めた。錆びた鉄を舐めたような味がして、桜は痛みを感じながら眠りに就いた。
夜は夢魔に魘され、朝は女神に起こされ、そして玄佳と生きていく。
球根が根を張り芽を出し花を咲かせるように、歓びに満ちた朝が訪れる。
小休止ののち、2024年8月4日19時から第二部開始。
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