4-11

 はる玄佳しずかは、電車に乗って、以前二人できた神社にきていた。


 無人の神社の境内には誰もおらず、二人はなんとはなしに社殿の周りを歩いていた。玄佳はたまにシャッターを切っている。


「神社って、なんとなく好きなんだよね」


 不意に、玄佳が言った。


「どうして?」


 いつもより自然に言葉が出てきた。桜にとってそれはたまにしか感じられないもので、この時は疑問にも思わなかった。


「なんだか、神様に近い場所だからかな。お父さんは絵本には書いてなかったけど、いつか言ってた」


 自分に向けて穏やかな顔を向ける玄佳は、女神か何かのように桜には見えた。以前なら魔性を感じただろうが、今感じるものはもっと身近な、温かいぬくもりだった。


「透明な場所にいくっていう事は、神様の所にいく事と同じ事なんだって」


 不思議な気持ちが、桜の中に湧き上がってきた。


 玄佳は『透明な場所にいきたい』と願って自殺未遂までしていた。なのに、透明な場所が神様のいる所だと知っている。


 だとすれば――。


「玄佳ちゃんは、神様のいる所にいこうとしてたの?」


 そういう事になる。たとい、玄佳の中の『神』が父親の姿をしていたとしても。


「……自覚的に神様の所にいこうとしたってわけじゃないけどね。ただ――」


 昔を懐かしむのか、玄佳は両目を閉じた。反らした胸が、大きく脈打つ。


「神様のバカヤロー!!」


 次の瞬間、いつもの玄佳からは想像もできない大声が放たれて、桜は面食らった。


「そんな風に思ったのは、覚えてる」


 何事もなかったかのように、玄佳は桜に悪戯っぽく微笑みかけた。


「……それは、どうして?」


 桜は玄佳に尋ねた。


 今の叫びは――きっと、玄佳ちゃんの心の叫びなんだ。


 僕の言葉に、玄佳ちゃんは目を伏せた。


「お父さんが死んだ時、お母さんが『お父さんは神様が連れていったの』って言ってね」


 その頃の玄佳はまだ幼稚園の年齢だ。それは、玄佳の母も言葉を濁すだろう。


「でもはっきり分かった。お父さんとは二度と会えないって」


 玄佳が感じたその気持ちは――桜にも、覚えがあるもので。


「僕は、もっと直接だった」


 桜の言葉に、玄佳は不思議そうな顔をした。


「幼稚園の頃、ひいお祖母ちゃんが死んだ時、二度と一緒にいられないって、どういう事だろうって考えて、泣いた事があるの。いつも、笑い話にされたけど……」


 桜は、玄佳の手を握った。


 伝わる体温が無性に恋しくて、倒錯に、あるいは蹉跌の中に陥りそうになる。


「僕はその時、本当に怖かった。いつか終わりがくるって。その時救ってくれたのが、『透明な場所』だった」


 もう、玄佳との距離が近づく事は全然、不自然な事ではなかった。玄佳も分かっているらしく、そっと距離を詰めてくる。


「あの時からかも知れない。『僕の言葉が誰かの力になるなら』って、色んな本を読んで、書いてみるようになったのは」


 桜の中にある初期衝動は、そこが原点だったと彼女は思う。きっと、あの時『透明な場所』に出会っていなければ、自分の今まではもっと暗澹としていただろう。


「桜は、乗り越えられたんだ」


 玄佳は、チャーミングな笑顔で桜を柔く抱く。


「うん……ただ、僕の場合はひいお祖母ちゃんだし、ずっと寝た切りだった人だから、どこかで分かってた所もあったと思う」


「それでも、乗り越えた事に変わりはないよ」


 音が出ない程優しく、玄佳は桜を抱き締めた。頭を撫でる左手のその体温は、少し昂揚しているようだった。


「私は七年もかかった。まだ、乗り越えられてる実感がない。もしかしたら、また繰り返すのかも知れない。でも……」


 玄佳が強く桜を抱くので、桜も玄佳の身長の割に細い体を抱いた。ハグくらいの事はもう、当然の距離感のように思えた。


「前みたいに馬鹿な事はしない。桜がいて、そんな事をするのは、悲しいだけだから」


 優しい微笑に、桜は自分の心をはっきり映し出された気持ちがした。


「玄佳ちゃん」


 桜はその時、自分の頬が紅潮しているのを自覚しなかった。ただ、熱っぽいという気持ちがあった。その熱がどこからくるものなのかは、桜の知らない領域だった。


「僕、自分の気持ちがはっきり分かった……いつも、自分の心の声が小さ過ぎて、聞こえないけど、今日は、きちんと分かった――ん」


 玄佳は、至近距離で人差し指を立て、桜の唇に当てた。桜はいよいよ赤くなっているのを自覚した。玄佳は何を考えているのか、桜に妖しげな微笑を送っている。


「私、思ったんだ」


 玄佳は桜の唇を塞いだまま、話す。


「桜は心の声が小さいんじゃなくて、大き過ぎて自分でも聞こえないんじゃないかって」


 心の声が、大き過ぎる――それは、思っていなかった。


「本当は、どうしたい?」


 玄佳の人差し指が、桜の唇から離れる。


「僕は……前にここにきた時、言えなかった事があって……」


 心を正確に捉えられても、言葉にするのはまだ慣れていない。


「言ってごらん。おっきな声で!」


 玄佳は桜から体を離し、大の字を作って微笑む。


 玄佳に向けて、桜は――。


「もっと、玄佳ちゃんと仲よくなりたい!!」


 ――叫んだ。


「ずっとずっと、一緒にいたい!!」


 言葉は、こんなに自然に出てくるものだったんだ――桜の中には、冷静な驚きがあった。


「私も!!」


 玄佳が両手を口にやって、叫び返す。


「一生桜と一緒にいたい!!」


 その叫びに、桜は涙が溢れるのを禁じ得なかった。


 自分の心が誰かに届いた事は今までになくて、初めて届いた相手が一生を一緒にいたいと思う人だという事が嬉しくて、桜は玄佳に思い切り駆け寄って、その体を抱き締めた。


「ずっと!! いつまでも一緒にいようよ!! 僕はもっと玄佳ちゃんと仲よくなりたいし、どこにいても一緒にいたいよ!! だから玄佳ちゃん……」


 桜は、玄佳を見上げた。玄佳も、泣きながら笑っている。


 熱に浮かされたたみたいに、桜と玄佳は抱き合って、二人の密着する距離だけが世界の直径であるかのように、確かめている。


「これからも、一緒にいて……!!」


 玄佳に泣きつく自分を、情けなくは思わない。どんなに情けなくとも、惨めでも、二人で一緒に生きていけるなら、それだけが全てだから。


「うん……! 何があっても、絶対に離れないよ」


 強く自分を抱き返す玄佳の声が湿気っているのは、きっと玄佳も同じ顔をしているからだろう。


 二人、涙が溢れるのに任せて、抱き合っていた。お互いの体温が湿度を帯びていく感覚があって、蒸し暑いのにずっとそこにいたい不可思議な気持ちが存在していた。


「きっと」


 玄佳が、桜の頤を取る。


「透明な場所まで、ずっと一緒だよ」


 その言葉は、誓いの言葉に違いなかった。


「うん……約束だね」


 桜はそっと、背伸びをした。


 二つの唇が、柔らかく触れ合う。甘やかな感触は中毒性を帯びて二人の脳を支配し、その魔力によって呼吸すら忘れさせた。息が苦しくなる度に美しさからかけ離れた声を出して息を継いで、また求め合う。


 どれだけそうしていたか分からない。


 ただ、運動したわけでもないのにお腹が空いているのを、桜は自覚した。


 唇が濡れている。玄佳の味は、桜の中に残っている。唾液と一緒に飲み込むと、玄佳は照れ臭そうに唇を拭った。


「いこうか。神様にいつまでも見せつけてるわけにもいかないし」


 玄佳は桜の手を取る。その体温はいつもより高く、桜は溶けるような気持ちを味わった。


「うん」


 桜は短く答えて、二人で境内を出た。


 その後、玄佳は「うちにいこう」と桜を誘い、二人で玄佳の家に向かった。


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