4-10
「テレビどこ?」
「リビング……」
「いこう」
玄佳は、桜の小さな手を引いて歩き出す。
もしかすると、こっちが玄佳ちゃんの本当の用件かも知れない。
ううん、玄佳ちゃんの気持ちが分かるなんて無責任な事は言えない。ただ想像するだけだ。
でも――僕の手を離して、お母さんを見ている玄佳ちゃんの背中が、妙に大きく見えるのはどうしてだろう。
「おばさん」
玄佳はいつもの落ち着いた声で、リビングでテレビを見ていた桜の母親に声をかけた。
桜の母は、首を曲げて二人の方を見た。長い懶惰と倦怠の末に丸々と肥えた体に、少し色を入れた髪の毛は桜が普段見ている醜い姿と変わらなかった。
「何?」
桜とは似ていない、もっと人を憎む狷介な表情がそこに浮かんでいる。
「昨日一昨日、私と桜が合宿で一緒だったのは御存じですか」
玄佳の言葉は平板だが、そこには恐ろしい感情が隠れているようだった。ほんの少しの手違いで爆発するような、火薬のような空気があった。
「ああ、うちの子が天文部でお世話になってる……
桜の母は、そこで初めて、玄佳が桜の友達の誰なのかを認識したらしかった。
悲しい気持ちが、桜の中に湧き上がってきた。
どれだけ仲がよくても、後で玄佳が家にきた事を桜は母に叱られる。なのに母は桜の友達の名前を覚える気もない。玄佳の事は以前、話した筈なのだが。
「なら、そこで桜が倒れたのは御存じですか」
桜の母は怪訝そうな顔をした。
「聞いてないけれど……何かあったの? 桜」
母の言葉に、桜はなんと答えようか迷った。まさか『あなたから言われた事を思い出して倒れました』とも言えない。
「えっと……」
桜が話そうとした瞬間、玄佳は桜は手で桜を制した。
「今のあなたの話し相手は私です。桜を巻き込まないでください」
母の怪訝そうな色が、より深くなる。
「桜がどんな風に育ったかはそこで聞きました。あなたはずっと、言葉で桜を傷つけ続けてきた。違いないですね」
桜の母の顔に、不快そうな光が灯った。
邪悪! その顔は邪悪ですらあった。人間の表情がこんなに醜悪に感じた事は、桜にはない。
「なんの話か分かんないね。大方うちの子がホラでも吹いたんだろ。ホラ吹きだけは上手いからね」
玄佳の言葉が届かない事は、桜には当然のように予期できた。水を入れたコップを逆さにすれば水が零れ落ちるように、当然の事として理解できる。
悲しくなって、桜は目を伏せた。
「よく、自分の娘の特技をホラ吹きだなんて言えますね」
玄佳はどんな顔をしているのか、桜には確かめる事もできなかった。ただ、必死に母から自分を守ろうとしてくれている玄佳の厚意がつらかった。
そんな事をしても、お母さんはなんともないって、分かるから。
「うちの事をある事ない事言って人を怒らせてばかりだからね。ごめんねぇ、もうこんなのにつきあわなくていいよ」
桜の母は、ひらひらと手を振った。醜い蛾が光にたかる様を、桜は幻視した。
「謝るのはこっちですよ」
不思議と、玄佳の声はにこやかだった。
「……玄佳ちゃん……?」
桜が視線を上げると、玄佳はリビングからそのままいけるキッチンの方に歩いていった。何をするのか――不意の行動に、桜も、その母も不意を突かれて、何もできず、何も言えなかった。
玄佳は、冷蔵庫を開けて、中を見た。
「ちょっと、あなた――」
「うるせえ」
立ち上がった桜の母に短く言って、玄佳は何かを手に握って歩いてくる。
「桜を――私のヒーローをこれ以上傷つけるなら、その桜を生んだ人でも許さない」
リビングの入り口に立ち、玄佳は腕を振り被った。
桜の母は、咄嗟に腕で顔を覆った。
同時に――玄佳は握っていた卵を桜の母に投げつけ、腕と腕の合間から顔に着弾させる事に成功した。
「うわっ、ちょっ、何すんの!?」
卵で汚れた顔で、母親は咄嗟に汚れを拭い、それが卵の黄身を広げるだけの結果になって、醜い顔を更に顰めた。
「うるさいっつってんだろうが」
玄佳は桜の方にきて、その手を取った。
「桜の綺麗な手を『汚い』って言った以上、お前は私の敵だ。いこう、桜」
桜は目の前で何が起きているのか分からなかった。
玄佳ちゃんは何をしているの? そんな事をして、自分が怒られるとか、先生や、ご両親に何か言われる事が怖くないの? お母さんは卑劣だから、きっと何か言ってくる。今は世間体を気にして放っているけれど、後からどんな怖い事になるか分からない。
それでも、玄佳ちゃんはいいの?
聞きたい事を何一つ聞けないまま、桜は玄佳と一緒に自分の部屋に戻った。
「……ちょっとは溜飲下がると思ったけど、駄目だな」
玄佳は何を考えているのか、元きた通りに荷物をまとめ始めた。
「……玄佳ちゃん、どうしてあんな……」
「桜の事を傷つけるなら、それが誰でも許さない。それだけだよ。桜、外いこう」
「え?」
いきなり提案されて、桜は面食らった。
「このまま私一人が帰ったんじゃ、桜はどんなに酷い事言われるか分からないでしょ。だから、一時撤退」
まるで戦場にいるかのような言いぶりだったが、桜にはあながち間違いとも思えなかった。
だって、僕はいつ殺されるかびくびくしながら、毎日を過ごしているんだから。
それは実際の生命の話じゃなくて、もっと違う、精神的な所の話だ。球根を植えた花壇は、焼き払わられたらそこまでなんだ。
「……少し、待って」
「うん」
桜は、リュックサックに財布と、パスケースと、原稿用紙やノート、筆記用具を詰めた。それだけで、準備はできる。
「いこう」
心は自然と、玄佳に傾いていた。
平気で人を傷つける母親より、守ってくれる玄佳と一緒にいる時間の方が、桜には大事だった。
「うん」
二人は身支度を整え、桜の部屋を出た。
桜の母は後片付けに奔走しているらしく、二人に恨めしそうな一瞥をくれただけだった。
目が合った瞬間、玄佳は桜の母に向けてアッカンベーと舌を出した。
「何が楽しいの……」
僅かに、そんな声が聞こえた。
「楽しくなんかないよ。命懸けだからね」
それだけ答えて、玄佳はさっさと玄関で靴を履き替えた。桜は慌てて続く。
後でどんな事を言われるだろう――考えると、恐ろしい気持ちが桜に湧いてきた。それに、玄佳もどんな目に遭うか分からない。
玄関を出ると、桜は玄佳の袖を引いた。
「……玄佳ちゃん」
玄佳は、優しい顔で桜を見た。
「いいの? 玄佳ちゃんだって、後で困るし……」
「いいよ」
玄佳は照れっぽい笑顔を浮かべて、桜の頭を撫でた。
「何を言われたって、桜をあれだけ追い詰めた奴なんて好きになれないから。何を言われたって、気にしないし」
本当に、玄佳は怖い物を知らない――桜は、自然に笑顔になっている自分を発見して、少し意外に思った。
けれど。
「どこにいくの?」
本当は、こんな日がくるのを望んでいたんだ。
「どこいこっか。前二人でいった所いってみる?」
だからきっと、僕にとってのヒーローは、玄佳ちゃんに違いないんだ。
「うん、いこう」
「うん」
手と手を取り合って、一緒に歩く。その一歩一歩が五月の日差しに包まれて心地よい。この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。
ずっと、この先一生、玄佳と一緒に……そんな気持ちが起こるのを、桜は心の中で感じていた。
自惚れでも錯覚でもない心が、そこにあった――温い鼓動と共に。
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