4-9
天体観測を主とした合宿は終わり、その終わりに
だが、結局断る口実もなく、桜は受け入れた。
帰ってその事を母に告げると、母は「へえ」と興味なさそうに答えただけだった。桜がこの日に母とした会話はこれだけだった。
合宿の夜の浮かれた気持ちは消滅し、桜は悄然と『球根』の原稿用紙をこねくり回していた。あれこれと考える事はあって、別の原稿用紙にも手が伸びる。そこには《
どこか落ち着かない心で桜は夜を終え、翌日、午前中にくるという玄佳を待った。
玄佳から着いた旨の連絡があると、桜は家の前まで玄佳を迎えにいき、一緒に部屋に入った。
玄佳はバルーンスリーブのブラウスに黒いズボン、大きな肩掛け鞄を下げていた。カメラも持っている。桜の母に何か言うかと桜は思ったが、玄佳は礼儀正しく挨拶して、桜の母は気色の悪い猫なで声で歓迎しただけだった。
二人は桜の部屋に入った。桜の部屋には一応、来客用の座椅子がある。玄佳をそこに座らせて、桜は麦茶とお茶菓子を少し用意して持ってきた。
玄佳はただ、桜の部屋の真ん中で目を閉じていた。
「……玄佳ちゃん? どうしたの……?」
その前に麦茶とお茶菓子を置いて、桜は向かいにかけた。玄佳は目を開け、パチッと両目を閉じて開いた。桜は以前見た、玄佳の下手なウインクを思い出した。
「他人の家って、なんか慣れない匂いするなって思って」
「そう……」
以前ほど暗い事は言わなくなったが、考えが読めないのは相変わらずだった。
「でも、どうしたの? 僕の家にって……」
玄佳はいつも急だが、この時も変わらない。
「簡単に言うとお願いがあってきたんだけど……まあ、見て貰った方が早いか」
玄佳ちゃんはどうしたんだろう。
鞄を開けた玄佳を見て、桜は戸惑った。中から出てきた物を見た時は、なおさら。
玄佳の手にあるのは『透明な場所』と題された絵本――彼女の父、つきのひさしが描いた、玄佳にとってはとても大切な物だった。
「人間の脳って、自分に都合のいい事だけ覚えていたがるのかも知れない」
玄佳は桜に絵本を手渡してくる。桜は受け取った。
「最後のページ、開いてみて」
魔法にかかったように、言われるがまま、桜は玄佳の絵本を開いた。最後のページを見ると――。
真っ黒な絵の具で、塗り潰されていた。
本能的な恐怖が桜の背筋から脳天を突き抜けた。もしや、玄佳はこれを見せにきたのではないか。否、それはそうであるに違いない。ただ、病的なまでに塗り潰されているページは玄佳の膚の裏に潜む病理を見せているようで、桜にはとても恐ろしい物のように思えた。
「これ……どうしたの?」
「ずっと、開いてなかったんだけどね。聞いて」
その絵本は何度も何度も読んだ。
でもそれは、お父さんが死んで少しの頃までの話。
多分、私にとっては一番初めに体験した『身近な人の死』がお父さんだったから、すぐ後は現実味を持てなかったんだと思う。
お父さんが描き遺した物を見ていれば、お父さんの居場所のヒントが見つかるかも……そんな気持ちで読んでたけど、段々、お父さんがここじゃないどこかにいったんだって言う実感が湧いてきた。
そう思ったら、何も教えてくれない絵本が憎らしくなって、黒い絵の具でそこを塗り潰して……それきり、開いてもいなかった。
玄佳は渇いた口を潤すように麦茶を飲んだ。
「そこに何が書いてあったのか、思い出そうとしても思い出せない。桜は同じ絵本を持ってるって言ってたから、正解を知りたくて」
脚を崩して、玄佳は上目遣いに桜を見ている。ねだるように。
「待って」
桜は立ち上がり、本棚の中から自分が持っている『透明な場所』を探した。すぐに見つかり、桜はそれを持ってテーブルに戻った。
「玄佳ちゃん……一緒に読もう」
「ありがと」
桜が誘うと、玄佳は座椅子から立ち上がって、桜の隣にきた。桜は絵本を開いて、一ページ目からゆっくりページをめくっていった。
玄佳は穏やかにそれを見ている。
ページは最後に移る。
[光の向こう側、打ち上げ花火の先に、透明な場所はあるのです。今までに旅立った人達はみんな、その場所で穏やかに暮らしています。その時まで、人は懸命に生きるしかありません。大切に出会って、大事に見送って、生き抜いてください]
その文章の先に、一文が添えてあるのを、桜は見落とさなかった。
そっと、指さす。
[今は無理でも、いつか透明な場所で会えるでしょう。その時まで、お元気で]
最後に、つきのひさし、の署名があった。
「……なんだ」
玄佳の声は、濡れていた。
「答え、すぐ近くにあったんだ……」
桜が見ると、玄佳はぽろぽろと泣いていた。
きっと、ずっと、玄佳ちゃんも、傷つき続けていたんだ。
堪らなく優しく凶悪な衝動が桜の中に湧いた。自分より背の高い玄佳の体を、膝立ちになって抱き締める。
「玄佳ちゃん……」
「馬鹿だよね……自分から、答えを塗り潰して、何年もふらふらして、死にたいって思いながら生きてきて、今はこんなに情けない気持ちなのに、生きていたくて堪らない」
自分の胸が玄佳の涙に濡れていくのが、桜には分かった。
傷ついた人になんと声をかければいいか、すぐに分かる程、桜は経験がない。模範解答を用意している薄情者でもない。
「生きていこうよ」
だから、
「情けなくても、生きていたいなら生きていこう。僕と玄佳ちゃんが二人で一人なら、こうやって支え合える。だから、だから……」
泣かないで、なんて無責任な言葉は言えなかった。桜は言葉を失って、ただ玄佳の体を抱き締めていた。
「……うん」
それでも、玄佳は泣き止んで、そっと桜の体から離れた。
何かを言おうとするように開いた唇が艶めかしくて、桜は倒錯的な気持ちが起こるのを抑えるのが大変だった。
「桜だけは――」
僕だけは?
その先を言わず、玄佳はそっと桜から離れて、脚を崩して視線を背けた。
「玄佳ちゃん……最後まで言って」
玄佳の肩に手を置いて、桜はその顔に自分の顔を近づける。
「鬱陶しいとか、思わないでね」
一言前置きをして、玄佳は桜の目をまっすぐに見た。
「桜の事だけは、何があっても絶対に離さない」
玄佳の右手が、桜の左手を取っていた。
それは、そういう事なの?
潤んだ瞳に浮かぶ欲求は、僕の錯覚じゃないの?
僕の心に浮かぶ倒錯的で凶悪な衝動を抑えられなかったら、どうすればいいの?
「玄佳ちゃん……」
桜が玄佳の名前を呼ぶと、彼女は珍しく――否、初めて顔を真っ赤にして、桜の手を離した。
「ごめん……でも、気持ちは本当だから」
気まずそうに目を逸らして、玄佳は口にした。
どうすればいいのかなど、桜には分からない。これ程強く優しい感情を人から向けられた事など、今までになくて、ただ戸惑っていた。
「ごめん。でも――今はまだ早いって思う」
桜が戸惑っている内に、玄佳は自分の鞄に絵本を詰めた。
「やらなきゃいけない事もあるし、一緒にきて」
立ち上がった玄佳は、強気な微笑みを浮かべていた。
桜が何も考えずに立ち上がった理由はきっと、その美貌に浮かぶ全てのものを惹きつける支配力の為……そして、桜自身が心の奥で望んでいた事を、実現したいからかも知れない。
二人は、部屋を出た。
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