4-5

 玄佳しずかが家庭科室から水を持ってきて風邪薬と一緒にはるに飲ませた。風邪でもないのに飲む薬は妙に苦くて、桜は飲み込んだ後で少し噎せた。


「横になってた方がいいよ」玄佳の言葉で桜は敷布団の上に横になった。


 部屋は寝泊まりできるようになっている。床は畳敷きだ。桜が横になると、玄佳はその隣に静かに座った。


 そして、真剣で、慈愛を感じさせる瞳で、桜を見る。


 桜は眼鏡を外して少し目を閉じた。


 母親の顔が浮かぶ。顔は目が口に変わって恐ろしく裂けていく。元々口だった所からは七つの舌がどろりと垂れて涎を垂らし、蝙蝠みたいに醜くなった鼻が臭い息を吐く。


 とても、いたたまれない。


 桜は寝返りを打って、玄佳の太腿に手を置いた。それで、玄佳には伝わった。


 玄佳は桜の手を取ったまま、そっとその小柄な体を座らせ、向かい合いになって桜の手を両手で取った。


「桜……何があったの? さっきの……風邪とかじゃないでしょ」


 心配そうに、玄佳は尋ねてくる。


「……この事、誰にも話さないで」


 きっとずっと、聞いて欲しいと願っていたから。


「うん。秘密にする」


「昨日の話の、続きかも知れない」


 あの頃、古びた家に住んでたから、幼稚園の頃の事だと思う。


 僕と、お母さんと、お父さんの部屋は家の一階の北東の光が射さない所にあった。お母さんはそこで、お仕事にいく為の身支度を整えてた。そこに、三面鏡があった。


 僕はその時、三面鏡に映る自分の顔が不思議で仕方なかった。


 お母さんがお休みの日、僕は部屋で絵本を読んでて、急に三面鏡が気になった。多分、読んでいた絵本に鏡が出てきたんだと思う。


 お母さんはお風呂の支度をしていて、僕はそっと三面鏡を開いた。


 僕がその鏡面に触ろうとすると――。


 桜はそこで、一つ深呼吸して気を落ち着けた。


「お母さんが……『お前の汚い手で触るな!』って言って、僕の頬を打った」


 痛みすら、今の桜には思い出せる。思わず、打たれた右の頬を押さえる。


「僕が泣いたら、お母さんは何か、出来損ないを見るような目をして、無理矢理お風呂に連れていった……」


 桜は玄佳の顔を見られなかった。あまりにもつらい事を次々に思い出して言葉にする作業は酷く人間への信頼を失わせる。


 ただ、玄佳は心配を顔に浮かべて桜を見ていた。いつもポーカーフェイスな彼女にしては珍しく、分かりやすい表情の変化だった。


「それ以来、僕は心のどこかで『僕の手は汚い』って思うようになってた」


 それから――桜は語り出す。


 勉強しなさいって僕のお母さんもお父さんも僕に言うけど、勉強を教えてくれた事は一度もない。他の事も、何も教えてくれなかった。


 ううん、聞けば分かるくらいの事は教えて貰えた。それでも、僕は『こんな事も分からないのか』って言われて、その度に馬鹿にされた。


 料理のやり方も、覚えたかった。


 でも、小学校の三年生か四年生の頃、お母さんに料理を習ってる時、野菜を切るのが怖くて手間取っていると、お母さんは『もういい! お前に料理は無理だ!』って言って、乱暴に僕の手から包丁を取り上げた。


 その時、僕はお母さんに殺されるかと思った。包丁を持ったお母さんが僕を刺し殺そうとしてるみたいで、僕は逃げ出したと思う。


「僕がもう少し器用で、賢かったら、こんな風に蔑まれずに生きてこれたのかな……」


 トラウマを語るのにも疲れた桜は、またパンチドランカーのような状態に陥っていた。


 思い出す事全てがつら過ぎて、忘れたい忘れようと努めても絡まってくる。


 虚ろな目でぼんやり玄佳の鳩尾辺りを見る桜は、不意に玄佳の体が近づいてくるのを感じて戸惑いが戸惑いにならない内に、低い体温に包まれた。


「ずっと、傷ついてたんだね……」


 玄佳の顔は見えなかったが、声はとても悲しそうだった。


「桜は悪くない。桜が悪いなんて、誰にも言わせない」


 悲しみの中に、悔しさがある。もっと醜くて、純粋な感情も玄佳の中には垣間見えた。


「桜をこんなに苦しませた奴なんて……」


 ぎゅ、桜の体が強く抱かれる。


「……いいの」


 玄佳のぬいぐるみになったまま、桜は力なく声を出した。


「何を言っても、お母さんにもお父さんにも届かないって、分かるから」


 桜は知っている。


 いつか母が自分に零した、とても惨酷な真実を。


「でも、桜の家の糞婆は一応血が繋がってるんでしょ? だったら届かないなんて事……」


「玄佳ちゃん」


 桜は、玄佳の体に腕を回して、強く抱いた。驚いたように、玄佳の体温が脈打つ。


「僕はまだ、玄佳ちゃんの家の事をよく知らない。けど、多分、僕の家とは一つだけ、決定的に違うの」


「違う?」


 涙というには乾燥していて、笑うと言うには爛れた感情が桜の中にある。


「お父さんとお母さんは、お父さんが昔お仕事でお世話になった人に紹介されて出会ったって、お母さんが言ってた」


 その事を話す事は、遠い昔に起こった事を回顧するようで、まるで無味の感情があるだけだった。


「お互い、相手の顔を立てる為だけに結婚して、そしたらお祖母ちゃんが本気にして、子どもを生めって無理な事を言って、生まれたのが僕」


 どうして。


って言うのは、お母さんから聞いた言葉だよ」


 こんな今更分かり切った話をしているのに、僕は泣いているんだろう。


「桜」


 柔らかい手が、桜の頭を撫でる。


「桜の家族の誰が桜にどんな酷い事をしても、私は桜を愛し続けるよ」


 とても優しい玄佳の笑顔が目の前に歪んでいて、桜はどうすればいいのか分からなくなった。


 愛にすら怯える臆病者は、誰かと交われるのか?


 自分の血を愛せない者が、人の事を愛する事ができるのか?


 けれど、愛なく生きているだけのゾンビは嫌だ――。


「しっ、玄佳ちゃん……」


 桜は、涙で声が濁るのを感じた。


「もう『お父さんの所にいきたい』なんて言わない」


 体を離して、玄佳は桜の両手に自分の両手を重ねた。


「ただ、桜がちゃんと自分を愛せるようになるまで、桜と一緒に生きるよ。生きていこうって、桜は私に言ってくれたから」


 桜の眦に伝う涙を、玄佳は指で拭う。そっと、その雫を唇で吸う。


「私もね、自分の事、全部が解決したわけじゃないって分かってる。だからって、桜の事を放っておける程、私は悲しくない」


 悲しくない――それはとても優しい言葉だった。


「玄佳ちゃん……でも、僕は……きっと、人間の出来損ないで……」


 自虐的な言葉を吐いた桜の口を、玄佳の柔らかい手が覆って、その続きを言わせない。


「桜が人間の出来損ないなら、私は人間の欠陥品って所じゃない?」


 桜の言葉を否定せず、玄佳は笑った。


「二人共人間未満なら、になろうよ」


 玄佳は、桜の頬を両手で抱いて、まっすぐにチャーミングな笑みを向けてくる。


「桜がどんなに自分を悪く言っても、桜が私のヒーローなのは変わらない」


 その笑顔に全て任せてしまいたくなって、桜は心が倒錯に、あるいは自惚れの錯覚に陥るのを感じた。


「だから、私が桜のヒーローになる」


 以前の儚げな玄佳が嘘だったように、とても力強い心がそこにあった。


「ヒーローが二人いれば、お互いくらいは救えるでしょ」


 顔と顔が、接近する――桜は、思わず目を閉じた。


 想像した倒錯は起きず、顔と顔がすれ違って、桜は、玄佳に抱かれていた。


「忘れないで。桜は私に前を向かせてくれた、たった一人の人なんだって」


 少し、もう少しでいいから、このままでいたい。


「うん――」


 桜は、玄佳の体温の低い体を思い切り抱き締めて、その温度に酔った。






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