4-4
寝泊まりする部屋に荷物を置いて、
結局、カレーだけではとてもではないが食材を消費できないという話になり、野菜炒めも作る事になった。それでも余る公算になったので、残りの食材は西脇に寄付する事になった。
カレー作りは
お米の研ぎ方くらいならば知っている――桜は、玄佳が持ってきた米の袋を開けて、内釜に人数分のお米を入れた。
家庭科室を四人で使うので、広く場所を取れる。桜は玄佳達と離れた所で炊飯器に水を入れた。
研いだら玄佳と由意の手伝い――水を止めた瞬間、桜の頭の中に声が響いた。
《お前の汚い手で触るな!》
明確に思い出せる、トラウマの中でも一番桜の心を蝕んでいる物。
じっと、両手を見詰める。
そこにあるのは桜の、まだ苦しみを知らない綺麗な手だけだったが、本人に見える物はそうではなかった。
絵具に塗れた汚い手、汗に塗れた不快な手、墨に塗れた汚れた手、鉛筆の黒が移った不気味な手、泥に塗れた不潔な手がそこに見えた。
立ったまま、桜は目の前が回転する感覚を味わった。立ち眩みすら起きない、微細で露骨な変化が起きていた。
綺麗だった手の中に汗が滲んでくる。汗が滲むのは体も同じで、額にも頬にも汗の雫が溜まり始めた。全身の肌だけが雨に濡れたように汗で濡れていくのが分かる。
顔が熱い。同時に背筋が酷く冷える。立っているのがつらくなる。
こんな物、忘れてしまえば――醜い顔を思い出した瞬間、桜はかろうじて流し台に倒れ込むのを避けて、後ろに尻もちを突いた。
「
「桜!?」
その瞬間、西脇と玄佳が反応する。野菜を洗っていた由意と咲心凪も桜の方に駆け寄ってきた。
息が荒くなる。背筋が凍ったように冷たいのに汗はとめどなく流れる。桜がへたり込んでいるそこに、水溜りができそうなくらいに酷い汗だった。それでいて唇は冷えていて、心臓の鼓動は酷く不規則に早い。
「ちょっと、町田さん大丈夫!? 唇まで真っ青じゃない!」
西脇の声を認識できても、桜はその声に答える事ができなかった。息を整えようとするだけで窒息しそうな程に喉が詰まる。ほんの僅かな時間で体内から水分が飛んだように、喉はガラガラになっている。
床についている手が震えている。今すぐ逃げ出してしまいたくて堪らない。けれど足にも腰にも力が入らない。足に力を入れようとするだけでそこが震える。視界が滲んでいるのはなんなのかも分からないくらいだった。
「桜」
不意に、低い体温が桜の頬に密着する。
これは――玄佳ちゃんに抱き締められている? 僕は……。
一体自分がどうなっているのか、桜にはまるで分からない。
「
西脇は桜と玄佳の隣で指示を飛ばしている。
息が酷く苦しい。桜の心はぼんやりと自分がどんな風になっているのかを受け入れていた。見た目の割に力がある玄佳は桜を立たせ、西脇もそれを手伝って家庭科室から運び出そうとしている。咲心凪と由意は急いで家庭科室から一階の保健室に向かった。
「ごめんなさい……」
荒い呼吸で、桜はなんとか言葉を紡ぐ。
「大丈夫だよ。大丈夫だからね、桜……」
玄佳が、焦っている自分を収めるように桜に言い聞かせる。それは、自分に言い聞かせているようでもあった。
「ごめんなさい……汚い手で料理なんてしようとしてごめんなさい……」
桜は、既に誰に謝っているのかも分からなかった。実際にそんな事を言われた記憶すらない。もっと接続がバラバラな記憶が桜の中にあって、その出鱈目な配線の接続が桜の心を蝕んでいた。
「無理しなくていいわよ、町田さん。吐き気とかない?」
西脇が尋ねてくる。玄佳に比べると、彼女は大分冷静だった。
「ありません……ごめんなさい……」
桜は謝りながら、やっと腰に力が入るのを感じた。二人に支えられながら、なんとか歩き出す。
「熱は……」
西脇は桜の額に手を当てる。まるで養護教諭のように、手慣れた所作だった。
「……ないか。でも、少し休んでた方がいいわね」
「でも……」
みんなと一緒に――言いかけて桜を見る、恐ろしい
お前は人に迷惑をかけてばかりいるんだから、一人でいなさい。
そんな風に偉そうな言葉を吐く何者か分からない獣は、いつからかずっと桜の中にいて、今初めてその恐ろしい牙を剥き、涎を垂らして桜を見ている。貪婪な目つきは今にも桜を取って喰おうとしているようだった。
「いいからしばらく寝てなさい。どう見ても料理できる状態じゃないから」
西脇の言葉に、桜は何も言い返せなかった。料理に自分が加わる事は大罪である事のように思えた。それでも一人でいるのが嫌だと言う気持ちがあって、けれど獣はお前には一人が似合うと囁く。
やかましい声が桜の頭の中に幾つも反響している。
玄佳と西脇に支えられて、桜は
「先生。桜を家に帰したりしませんよね」
その中に桜を座らせて、玄佳は美貌に恐ろしい迫力を浮かべて西脇に声をかける。
「あー……」
西脇は、その一言で何かを察したらしかった。
「昨日、町田さんの家族と何かあった?」
「桜の家の糞婆の
「幾ら私だからって教師に向かってそういう事言わないの。まあ……」
床に寝かされながら、桜はぼんやり視界に霞がかかるのを感じた。短時間の間にとても疲れていて、体を動かす力を例の獣に奪われていた。
「熱があるとかなら帰さないといけないけど、この状態で帰させるわけにもいかないでしょ」
いつの間にか――否、恐らく、三者面談での僅かなやり取りで、西脇は桜の家のおかしな所に気づいたらしかった。
「じゃあ先生、私の代わりに料理お願いします。私は桜と一緒にいるので」
すぐに、玄佳は桜につきそう事を決めた。
「……そうね。何かあったらすぐに私の所にきなさい」
「はい」
恐ろしい気持ちが、桜の中にある。ただ、その正体がよく分からなくて、大きな物が喉まで出かかって出ず、ただ体を内側から圧迫するそれに、桜は目を閉じるしかなかった。
「先生! 保健室から薬と体温計持ってきました!」
「桜ちゃん大丈夫!?」
由意と咲心凪の声が聞こえる。
「とりあえず様子見。体温計貸して。それと月守さん、町田さんが落ち着いたら一応薬飲ませて。水は家庭科室から」
「はい!」
「はい」
咲心凪が西脇に体温計を渡し、西脇はそれを桜の額にかざした。すぐに音が鳴る。
「六度三分か。熱さましはいらないわね。月守さん、お願いね」
「はい。何もない所に寝させるの悪いし、布団出しちゃっていいですか? 全員分出すので」
「いいわよ」
そんなやり取りが聞こえて、桜は罪悪感に殺されそうになった。みんなが、自分の為に時間を使ってくれているのが分かる。それがとても申し訳なくて、消えてなくなってしまいたかった。
「少し待ってね、桜」
玄佳の声が聞こえて、桜は自分の右手が少しだけ動くのが分かった。
どうして動くのか、分からない。
ただ、その手が玄佳に触れればいいのにと、どこか非現実的に考えていた。
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