4-2

 合宿で各々が準備する物、全員共通してやる事はつつがなく決まった。


 はる達四人は金曜日の放課後に生徒会からきた役員の話を聞き、桜が(書記として)それを記録した。西脇にしわきにも報告して、その日は解散となった。


 翌日こそ、桜にとっては憂鬱だった。


 四月二十九日、昭和の日――この日は、鳳天ほうてんで授業参観がある。


 授業は午前中だけで、あとは三者面談が控えている。


 保護者が集まり出す頃、桜は以前会った玄佳しずかの両親に、自分の母がやたらぺこぺこしているのを見つけた。桜の親は外面だけはいい。


 桜は授業中に何度も何かを書きたい衝動に駆られたが、耐えた。西脇は早々に桜を指名したが、その後も桜は暗鬱な気持ちを吐き出す事もできず、ただ真面目な優等生より不真面目に、丁寧なノートを取るだけだった。


 昼休憩の時間、玄佳は帰りに待っているから一緒に帰ろうと言ってくれた。桜にはそれが嬉しかった。だから「うん」と言った。


 三者面談の時間は桜にとって耐えがたい苦痛だった。


 成績の話など、桜にはどうでもよかった。ただ母は将来いい大学にいけるのかを心配していて、西脇も困っているようだった。交友関係に話が及んでも、桜の母は桜が周りに迷惑をかけてばかりいると西脇に謝っていた。


 ボコボコに殴られたパンチドランカーのような状態で、桜は母と一緒に教室を出て、玄関まで歩いた。玄関前に、玄佳がいた。


「桜」


 桜が何を言う間もなく、玄佳は声をかけてきた。文貴ふみたかの姿も、弓佳ゆみかの姿もなかった。


「いこ」


 そして、玄佳は桜の母には目もくれず、桜の手を取った。


「あんまり迷惑かけるなよ」


 桜の母は、じろりと桜を見て、さっさと帰っていった。


 途端に桜は、玄佳の手を握って走り出していた。


「桜?」


 玄佳は驚いたような顔で桜を追いかける。桜は、以前、玄佳と二人で話した、そして楽要かなめと居合わせた喫茶店を見つけて、そこに入った。


 何かを考えると言うより、考える事すら放棄したい気持ちが桜の中にあった。しかし言葉は奔流となって出てきて、桜は店員にオレンジジュースを頼み、ノートを広げた。


[僕の存在はそんなに迷惑なの? 僕はただ誰かと仲よくしたいだけなのに、仲よくなる事も迷惑なら、僕はどうやって生きていけばいいの? 一生一人きりで生きていけば満足されるの? 僕はそんなのは嫌だ。僕の事はいつも置いてけぼりにする癖に、どうして僕の将来ばかり不安に思うの。僕は今ここにいるだけでも必死なのそれはあなたがずっと僕から自信を奪ったからじゃないの僕が全部悪いの僕が消えて僕が消えて僕が消えてそれであなたは何を恵んでくれるの。こんなにつらいなら僕はいっそ]


「桜」


 不意に、意識を現実に引き戻される。


 恐ろしい言葉を書こうとした桜の右手を、玄佳の右手が遮っていた。彼女の前にあるミルクティーのカップは、桜がどれだけ目の前の事を無視していたかを桜自身に知らせた。


「いつもと違うと思ったら、怒ってたんだね」


 怒ってる?


 僕は、怒っていたの?


 誰かに怒るなんて、怖くてできないと思ってた。でも、玄佳ちゃんは僕が怒ってたって言う。玄佳ちゃんから見た僕は、僕は――。


「僕は、何に怒ってるの……?」


 とんでもない阿呆だと思う。自分の感情が、何も分かっていないんだから。


「何って、桜が今日一番気にしてた人」


 玄佳は舐めるようにミルクティーを一口飲んで、桜が書いた文章の[あなた]という所を指でなぞった。玄佳はしっかり読んでいたらしい。


「こんな桜、見た事ない。見た事ないけど――」


 玄佳は、悲しそうな顔をその美貌に浮かべた。


「そんなにつらくなるまで、どうして一人で無理をしてたの……?」


 彼女にしては珍しく、玄佳は聞きづらそうに桜に尋ねた。


「……全部、僕がいけないって思うからだと思う」


 その答えにすら、僕は自信を持てない。自分の感情が不意に溢れ出す事はあるけれど、それは錯乱した心の絶叫に過ぎなくて、意味をなさない。犬が鳴くのにも意味はあるけれど、僕の鳴き声は見苦しいだけだ。


「やっぱり」


 玄佳は、桜の所に届いていたオレンジジュースを示した。既に影を見せている五月の温度で、汗をかいている。


「私が言えたもんでもないけど、桜も家の事何かあるよね」


 何も言い返せないくらいに、玄佳の言う事は正論だった。


「ごめん……」


 玄佳を巻き込むような事ではないと思うから、謝るのだろう。


「桜がいつも自信なさそうにしてたり、申し訳なさそうにしてる原因って、あのお母さん?」


 それでも、玄佳は話を始める。


「お母さん……でもあるし、お父さんでもあるし、お祖母ちゃんでもお祖父ちゃんでもあると思う……」


 話していいのか、話せば玄佳は首を突っ込んできそうで怖い。


「教えてよ」


 やはり、玄佳は要求してきて。


「もしかしたら、桜を傷つけた奴をやっつけられるかも知れないし」


 出てきた言葉はよく分からなくても、惹かれる物で。


「……うん」


 桜は、頷くしかなかった。


「実は……」


 話すと長くなるんだけど、僕は昔から東京に住んでたわけじゃなかった。


 福島の田舎の方にお父さんの実家があって、そこでお祖父ちゃんお祖母ちゃん、お父さんお母さんと一緒に暮らしてた。


 幼稚園に入る前まで、僕は一人きりで遊んでた。


 寧ろ、友達と遊んじゃいけなかったんだと思う。


 小学校に入ったばかりの頃、僕の家は古いからって、歩いて十分くらいの所に新居を立てた。


 そこから小学校に通って、友達もできたけど、家に誰かを呼んだり、誰かの家に遊びにいく度、家族からは怒られた。


 どうしてそうなのか分からなかった。


 ただ、僕はずっと僕自身を否定されてきた。


 だから――。


 桜の言葉は、自然に止まった。


 心が死んでしまったように、寧ろ致命傷を負った時を走馬灯のように回顧して、虚ろに玄佳の手元を見る。


「僕は、誰かといるべきじゃないんだと思う」


 やっと出てきた言葉はとても自虐的で、玄佳がどんな顔をしているのか、桜は見る気にもなれなかった。


「その話――」


 玄佳は一言言って、ミルクティーを少しだけ飲んだ。


「もっと早く聞いておけばよかったな」


 外を見る玄佳の目は、物憂げで、桜はなんだか申し訳ない気持ちになった。


「あの婆をぶん殴る口実になったのに」


 続いて出てきた言葉に、桜は驚いた。


「し、玄佳ちゃん……? 何言ってるの……?」


 桜は玄佳が何を言っているのか、よく分からなかった。物騒な言葉は、誰に向いているのか。


「親子で並んでるのに、お母さんと一緒にいる時の桜は何かに怯えてる顔をしてた」


 玄佳はその恐ろしい支配力を持つ美貌を桜に向けた。


「どうしてか分からなかったから、桜の事をさらうみたいに逃げようとして、桜の方が先にあの婆から逃げた」


 玄佳は恐らく、桜の母親の事を言っている。


「玄佳ちゃん、それは――」


「桜に酷いことする奴なんて、それが桜の親であっても私は許さない」


 きっと本当に、今目の前に母親が現われれば、玄佳はその顔を殴るだろう。


 それくらい、玄佳の顔には決然とした意思が見えた。


「……ううん、悪いのは、僕だから」


 す、玄佳が桜に手を伸ばした。


 ぶたれる――桜は、目を強く閉じた。


 けれど、実際には柔らかい手が桜の頬を撫でただけだった。


「そんな風に思えなくなるまで、私が桜の味方でいるよ」


 優しい目で見られて、桜は落涙を抑えられなかった。


 泣き出す桜をなだめて、玄佳は会計を二人分済ませた。


 二人、ゆっくり歩いて駅に向かい、いつも別れる駅で別れた。



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