3-11
翌日の朝は慌ただしかった。
玄佳の母・
玄佳が何時に家を出るのか桜はよく知らないが、急いで支度を済ませたお蔭でいつも通りに出られたらしい。
二人一緒に外に出ると、玄佳がぽつりと言った。
「ゆっくりいこうよ。焦る時間じゃないし」
何故だか、穏やかに照らす春の朝日の中、その言葉は悪い物ではないように思えた。
歩調を落として、二人、春日のもたらす木陰の中をゆっくりと歩く。
「本当の事を言うとさ」
雑踏も、ここら辺では静かだった。彼女の声は、くっきりと形を持って美しく桜の耳朶を打つ。
「私も透明な場所に連れていって欲しかった」
やっぱり、玄佳ちゃんにとって、つきのひさし先生の事は大きな出来事で、簡単にどうこうできる事じゃないのかな。
昨日、僕があれこれ言ったけど、でも、玄佳ちゃんにとっては一時の気休めでしかないのかな。
不安を消す方法は、いつも分からなくて、ただ暗い顔になるしかできない。
「それくらい、お父さんの事が好きだっていう気持ちは、誰にも否定させない」
強く、玄佳は言った。
歩みを止めて、玄佳は桜を見た。
桜の視線は透明で、その視線が玄佳とぶつかる。
「でも」
柔らかい微笑は、以前の不自然に唇の端を吊り上げる表情とは違った。
「今は違う。いっぱい生きて、いっぱい宝物を手に入れて、いつか透明な場所に辿り着けた時、沢山、お父さんに自慢話ができるように、精一杯生きていきたい」
不意に、玄佳は桜の手を取った。
「桜との時間は、私にとって、何よりかけがえのない宝物になっていくよ」
透明だった桜の視線が、熱を帯びていく。それは頬の紅潮を伴い、桜に未知の感覚をもたらした。
もしも。
もしも玄佳ちゃんが考えてる事が僕の想像通りなら、僕はどうすればいいの?
とても大きな感情が向けられていると分かるけれど、その気持ちに答えるものを僕は何か持っているの?
でも、答えなきゃいけないと思う。
だって僕は、玄佳ちゃんに言葉を投げた。その言葉が返ってきたら、受け止める。言葉を使うって、そういう事だから。
「だから桜」
桜が何を言うより早く、玄佳は口を開く。
「私と一緒に、宝物、作ってくれる?」
とても明るい顔で、玄佳は桜に笑いかけていた。
断る事なんて、思いつかなくて。
「幾らでも、作れるよ」
桜は、優しい顔で頷いた。
「玄佳ちゃん」
二人、手を取り合って歩いていく。
「透明な場所にいくのが間違いでも、どこかでそれを見たいと思う事は、間違いじゃないと思う」
いつもなら言葉を遮る頭の中の雑音も、この時は静かにしてくれていて、言葉は綺麗に選び出せた。
「もしも玄佳ちゃんがまだそこを見つけたいなら――」
ドキドキするのは、緊張しているからじゃない。
「探しにいこう、透明な場所」
自分の変化に、戸惑っているからだ。
玄佳は、にこりと笑った。
「どこかにあるって、お父さんは言ってた気がするんだけど、記憶って、怖いね。もう、忘れてる」
繋いだ手を大きく前に振って、玄佳は言った。
「でも、どこかでお父さんの気配を感じられたら、それは凄く素敵な事だと思う」
自分を見る玄佳の視線がくすぐったくて、桜は何故だか照れ臭くなった。
二人で一人。
少しずつでも前に進んで、一人と一人になって、それでも離れずにいられたらいいなって、思う。
「うん。僕も、気になる」
ずっと、玄佳の心を覆っていた黒い雲は、消えている。
今なら――きっと。
「ねえ玄佳ちゃん」
「ん?」
「天文部の合宿、ちゃんと出れそう?」
昨日、スマホを見ると
「天体観測か……」
少し前の玄佳が出ていれば、とんでもない事になっていたと思う。今の玄佳は、どうなのだろうと思う。
「いいと思う。私も、早まる気持ちはなくなったし」
大丈夫、という事らしい。
「信じてる」
桜は、小さく囁いた。
「信じられる事って、重たいな」
玄佳は不意に、口にした。
「だから文貴さんは、あんなに慎重なのかな」
それは、桜に分かる事ではなくて。けれど気づいて。
「どうすれば、玄佳ちゃんが信じてくれるのか考えてるように、僕には見えたよ」
玄佳が、真面目な顔で桜を見る。
何かに気づいたような視線だった。
「……私が、か」
笑みを浮かべるその笑みに、浮かぶミステリアスはまだ桜には分からない。
「まだかかるなー」
玄佳が桜の手を放す。もう、駅が近い。
「でも、玄佳ちゃんなら大丈夫だよ」
桜はスマホを取って、咲心凪と
「言っとくけどね、桜」
「何?」
「私、この先しんどい時はずっと桜に寄っかかるよ」
それをここまで堂々と宣言するのもどうなんだろう……けれど、玄佳ちゃんらしい。
僕は……どうすればいいんだろう。
答えの形はその時々で変わると思う。言いたい事もやりたい事も、変わっていく僕達だから、願う事は未来で笑っていられる事だけだ。
「……僕はただ、受け止めるよ」
それしか、できる事はないんだから。
「桜も、私に寄っかかればいいよ」
ふわりと、玄佳は桜の髪の毛を撫でる。
「うん、そうする」
できるかは、分からない。
ただ、人間不信と支離滅裂の中で育ってなんとか自分を保ってきた桜にできる事は、信じると言うとても難しい事だけだった。
二人で改札を潜って、ホームに立つ。
「無惨な場所でも、好きな人と一緒ならちょっといいね」
雑踏と駅のアナウンスに紛れて聞き逃しそうになる言葉は、重たくて照れ臭くて、聞こえないふりをしたかった。
『好きな人』って言った?
どういう意味での『好き』なのか。
桜が玄佳を見ると、その美貌は静かに微笑んでいた。
とても満足げにすましている美貌に何か問いかける言葉を桜は持たなくて、ただ黙って同じホームに立つ。玄佳は、そっと桜の手を握ってきた。
「お父さんはいつも、私に絵を教える時、手を重ねてくれて、その温度が好きだったんだよね」
玄佳は、なんでもない事のように言った。
「いいのかな……」
悄然として心に虚ろが広がる。
お前の汚い手で触るな!
心の中の罵声は今も鮮明に思い出せる。
「桜ってさ」
玄佳は、桜の手をくいと上げた。
「色んなトラウマを抱えてるんだと思う」
言い返す事などできないくらい、正確な言葉だった。
「どうして、分かるの」
ただ静かに、尋ねる。
「何かある度、つらそうにしてるからさ。でも、もう大丈夫だよ」
電車がきて、桜が呟いた「どうして」は掻き消され、二人は車内に入った。
満員の車内で吊り革もつかまず、玄佳は桜を抱き締めた。
「桜は私のヒーローだから、私が桜のヒーローになる」
低い体温が伝わるのが心地よくて、桜はずっとこのままでいたいとすら考えた。
「ありがとう、玄佳ちゃん」
玄佳にだけ聞こえるように声を絞って、桜はそっと囁いた。
鳳天近くの駅まで、静かに抱き合っていた。
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