3-10

 夕食が済み、はるがお風呂に入る段になると、玄佳しずかは自分も一緒に入ると言い出した。二人で入ると言うと、文貴ふみたかは「ごゆっくり」と言って止めなかった。


 桜はどうして玄佳がそんな事を言うのか分からなかった。お泊まりってそういうものなのだろうかと不思議に思っていた。


 玄佳は手早く部屋の中から自分が何年か前に使っていた下着とパジャマ、自分の分の着替えを用意して、桜の手を引いた。


 桜はなんだか申し訳ない気持ちがあって、玄佳の後から脱衣所に入った。


 人前で服を脱ぐのは、桜にとってはかなり羞恥心を刺激される事だった。


 玄佳はどうなのだろう……桜がブラウスのボタンを外していくと、玄佳は着ていた白いシャツを思い切り脱いだ。ブラをつけた胸が露わになって、桜は思わず目を逸らして、ブラウスを洗濯籠に入れた。


「ごめんね。なんだか、私の事に気を遣わせて」


 一枚一枚服を脱ぎながら、玄佳は何気なく話しかけてくる。月がいつの間にか空に上がっているように、何気なく。玄佳こそ月からきた人なのではないか、桜はそんな事を考えた。


「ううん……その為にきたんだし」


 桜はおずおずと着ている物全てを脱いで、洗濯籠に入れて、タオルで貧相な体を隠した。玄佳は意外と着痩せする。


「でも、大分無理してたでしょ。入ろ」


「うん……」


 玄佳もタオルで前を隠している。友達同士であっても、ここまで開放的になられた事がなくて、桜は戸惑いがちに玄佳の後に続いた。


 広い、清潔な浴室に入ると、玄佳はすぐにシャワーを出した。二人、熱いシャワーを浴びる。


「桜、座って」


「う、うん……」


 玄佳が勧めるので、桜はバススツールに座った。


「頭洗うから、目を閉じて」


 言われる通りにすると、玄佳は美容師みたいに丁寧な手つきで桜の頭を洗った。髪の毛を流すと、背中にお湯をかけて、桜の背中を洗い出す。


「ずっと思ってた」


 桜の小さな背中を洗いながら、玄佳は言う。


「私が傷つき続けてたみたいに、桜も傷つき続けてたんじゃないかって」


 ずっと、傷ついていた――それは紛れもなく、桜の『本当』だった。


 小学校、それ以前から、桜はずっとつらい事ばかりだった。それでも現実に自分の居場所を作りたくて、言葉を弄してどうにもならなくて、ただ『ここから逃げ出したい』一心で鳳天に受かっても逃げられないものはあって。


 今も、きっと傷ついている。


「入学式の日の事、桜は分からないと思うけど、先生がホームルーム締める時、桜の事呼んで、すぐに諦めた」


 あの時、桜はノートに自分の気持ちを吐き出す事で精一杯になっていて、周りの声など聞こえていなかった。玄佳は桜の様子を見ながら、西脇にしわきの話も聞いていたらしい。


「凄く焦ったみたいに何か書いてる桜の姿が、羨ましかった」


「羨ましい……?」


 桜の背中を流しながら、玄佳は桜にタオルを渡してくる。桜は手を拭いた。


「私には熱中できる何かなんてないからさ。傷ついていても、それを糧にして何かを生み出せるなら、それはきっと素敵な事だから」


 素敵な事――桜は、自虐的な笑みが顔に浮かぶのを感じた。


 その笑みは、曇り止めがしっかりしている鏡越しに、玄佳にも伝わった。彼女は自分の背中を洗っている。


「素敵な事は、きっとあると思う。でもその一瞬の為に、どれだけ傷つくのか分からないし、続けている限り楽になる日はこない。やめれば、一生消えない傷を負う」


 言葉が、やけにすらすら出てくる。体を隠しもせずに洗う玄佳は、意外そうな顔だ。


「何かに打ち込むって、きっとそういう事なんだって、文芸部に入る時に思った。言葉にできたのは、今だけど」


 桜は体を洗い終え、念入りに手を洗ってシャワーを浴びた。


「楽になる日はこない、か……桜、湯舟使って」


「ありがとう」


 桜の小柄な体が湯舟に入ると、お湯がざぶと外に出た。


 今日は色々な事が起き過ぎた。桜は全身から張り詰めていた気合が疲労となって出ていくのを感じて、はあと息を吐いた。


「桜は、それでも続けるの?」


 玄佳は、自分の長い髪の毛にシャンプーを馴染ませながら尋ねてくる。


「続けるよ。僕の作る物は、僕の為の物だった。けれど、今は違うから」


 玄佳を見て、自分は上手く笑えているだろうか。


「玄佳ちゃんが読むのを楽しみにできるような作品を作るって、目標ができた」


 それはきっと、些細な目標なんだと思う。


 だって、凛々子りりこ先輩みたいに大勢の人に認められるのと違って、ただ玄佳ちゃんが満足してくれればいいんだから。


 たったそれだけでも、僕にとっては全然、今までとは違う事なんだ。


「だから、ありがとう、玄佳ちゃん」


 桜が笑顔でお礼を言うと、玄佳は少し、泣きそうな顔になって、無理に笑みを作った。


「だったら私と桜、二人で一つなのかもね」


 二人で一つ――それは、一昨日桜が言った『人間になりたい』という言葉へのアンサーであるように思えた。


「玄佳ちゃんと、二人で一つ……」


「あー」


 玄佳は、髪の毛を放ったらかして、天を仰いだ。見えてはいけない物まで見えそうになって、桜は視線を背けた。


「もっと絵が上手かったら、桜の作品の挿絵とか描きたいんだけどな……」


 玄佳が、自分の作品に挿絵をつけてくれる――それは、とても素敵な思いつきのように思えた。


「玄佳ちゃん……それ、凄くいいよ」


「でしょ?」


 どこか不敵な笑みを、玄佳は浮かべた。


「私は桜みたいになんでも形にはできないけどね。お父さんが描いていた物の真似っこだけで。虎鶫とか、描けるかなって思う」


 以前、桜が書いた物に、という事だ。その時は虎鶫が一つのキーワードだった。


「これから、玄佳ちゃんの絵が見られるって思ったら、止まってたものが、動きそう」


「止まってたもの?」


「最近、ずっと進めてたもの。球根っていうタイトルの作品」


「ふーん……由意ゆいに聞けば球根持ってるかな」


「園芸部だからって持ってるとは限らないよ……」


「冗談。でも、それに表紙絵つけてみるのも面白そう」


 玄佳は髪の毛を洗い終えて、桜がいる浴槽に入ろうとした。


「し、玄佳ちゃん!?」


「ん?」


「二人は狭いよ! それに……」


 密着してしまう。


「意外と恥ずかしがり屋だよね。ごめん、全然意外じゃなかった」


「しずっ」


 桜が先に出ようとするのを無視して、玄佳は浴槽に入ってきた。お湯が大きく溢れる。


 玄佳のすべすべしたきめ細かい肌が桜の体に密着する。玄佳は浴槽の中を泳ぐようにして、桜と向かい合う。


「きっと、傷つくんだろうね、この先もずっと」


 不意に真顔になって、玄佳は桜に言った。


「でも、二人なら生きていけると思ってる」


 にこ、と玄佳は笑った。


 その笑みはどこか不敵で、桜はその中に玄佳が隠している強さを見つけたような気がした。


「うん……今はまだ、頼りないと思うけど、僕……」


 桜が俯くと、ぷにと玄佳の人差し指が桜の頬を突いた。


「謙遜しないで。今日一日で確信した」


 桜が湯煙の中で玄佳を見ると、玄佳は両手で桜の顔を押さえた。キスでもするのかと思う程、二人の顔が近づいて、桜は湯舟の所為ではなく体温が上がるのを感じた。


「桜は私のヒーローだよ」


 静かに囁くその言葉が、桜には信じられなくて、けれど信じるしかなくて、不可思議な気持ちのまま、のぼせそうになる。


「ありがとう……」


 今は。


 心の声も何も関係なしに、これだけの言葉しか、出てこないから。


 それでもヒーローと呼んでくれた事を忘れない。


 二人はその後、浴室を出て部屋に戻って、一緒に眠った。




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