3-9
桜は例えば親戚の家などにも泊まった事がない。外泊自体、小学校の頃のイベントでしたくらいで、個人の家に泊まるのは初めてだ。
文貴が支度を整えるまで、桜は玄佳と一緒に今日の課題を解いていた。玄佳は
酷く控え目に部屋のドアがノックされて、文貴が食事の時間を告げる。
桜は玄佳の後からダイニングに入った。四人がかけられるテーブルに、二人分の食事が並んでいる。
「文貴さんはいいの?」
玄佳は自分の席に着きながら尋ねる。文貴の前にはホットミルクが一つあるだけだ。
「
文貴は穏やかな顔に微笑みを浮かべて桜に勧めてくる。
「あ、ありがとうございます……」
玄佳ちゃんの家は全員名前の最後が『か』で終わるな……桜は妙な事を考えていた。
「頂きます」
「い、頂きます!」
白米、味噌汁、ベーコン入りのポテトサラダ、鶏肉のトマト煮にデザートのヨーグルトと、綺麗に纏まった食事は、桜の家の料理より見栄えがよかった。
桜はポテトサラダを一口食べた。お店で出るような美味しさがあって、家庭でこれが作れる文貴は料理人か何かを目指していたのかとすら思う。
「お口に合ったかな」
桜は不意に尋ねられて、口を押さえた。ポテトサラダを飲み込む。
「お、美味しいです! うちのお母さんよりも!」
思わず、本音が出てしまった。
「そんなに褒めなくても。お母さんの味には敵わないと思うよ」
文貴は謙遜しているが、お世辞ではなく桜の母親よりも料理に関しては上手い。
「文貴さんさ」
ただ――玄佳の事になると、どうなのだろうか。
「何かな」
「ほんと、情けないよね」
桜は思わず玄佳の顔を見た。冷淡な色を瞳に宿し、文貴を見ている。
情けない――さっきも、玄佳ちゃんはそんな事を言ってた。それは昔の話で、確か玄佳ちゃんが自殺未遂した後の話で、文貴さんが情けないっていう事を言ってたと思う。物凄い勢いで話していたし、僕もつらかったから、完全には覚えていない。
「玄佳ちゃん……」
「まさか私と桜の喧嘩が聞こえなかったわけじゃないでしょ。なのに何も言わないって、私が友達とどういう関係になっても関係ないっていう事?」
さっき。
さっき玄佳ちゃんは僕に本心を爆発させてたけど、もしかしてその勢いで文貴さんにも本当の心を見せているの?
だとしたら、とんでもない事をしているんじゃ?
玄佳ちゃんの家庭を脅かすような、とんでもない事を。
「……
文貴は、気まずそうに玄佳から視線を落とした。
玄恒先生……つきのひさし先生の事? 文貴さんは……でも、玄佳ちゃんのお父さんが本を出していた会社に勤めているなら、知っていても変じゃない。
どういう経緯で玄佳ちゃんのお母さんと一緒になったのか分からないけれど、つきのひさし先生は共通して、肉親か、お仕事仲間かで知っているのかな。
「お父さんならなんて、考えるだけ無意味だよ」
玄佳は支配力を持つ美貌に迫力を浮かべて、その威力を文貴に向けている。年齢で言えば文貴は玄佳よりずっと高い筈なのに、何も言い返せないでいる。
そして、桜には一つ分かった。
恐らく玄佳は――。
「お父さんはお父さんで、文貴さんじゃないんだから」
――文貴の事を、義理でも父と認めていない。文貴も恐らく、それは理解して振舞っている。
「そんなんじゃ将来私がどうなっても、何も言えないね」
落胆したように、玄佳は味噌汁を飲んだ。
「……ここで叱るのも違うな」
文貴は、眼鏡を外して、テーブルの上に置いて、目を閉じた。
「すまないね、町田さん。せっかくきてくれたのに」
桜は声をかけられて、なんと返すべきなのか迷った。
ただ――。
「どうしてですか?」
桜の口からは、自然に言葉が出ていた。
文貴も、玄佳も、不思議そうに桜を見ている。
「どうしてつきのひさし先生の代わりになろうとするんですか?」
意外な程するすると、言葉が出てくる。
「見てきた物も聞いてきた物も違うんだから、人が誰かの真似をしても、それらしくなるかも知れません。でも、その人になる事はできない」
言葉が綺麗に出てくるのに、心は悲しみに溢れていた。
「文貴さんは文貴さんの方法で、玄佳ちゃんの『お父さん』になる事は、できないんですか?」
桜は、まっすぐに文貴を見ているから気づかない。
意外そうな顔をしている玄佳が、僅かに涙を零している事に。
文貴は、その様子に気づいたようだ。
「……町田さん」
「はい」
「玄佳が君の事を話すから、どんな子なのか気になっていた。きっと凄い子なんだと思っていたけど、予想の上をいく」
文貴は、眉間に手を当て、やるせない顔をした。
「どこかで分かっていても、頷けないものだな」
独り言のように言って、文貴はホットミルクを少し飲んだ。
僕の言葉は――恐ろしい影が、頭の中で騒ぎ出す。
「ごめんなさい……! 生意気な事を言って……!」
途端に押し寄せる七つの舌を口から垂れ下げた魔物に、桜は目を閉じた。
「桜……」
玄佳が、食器を置いて桜を抱く。
「ごめんなさい……出過ぎました……忘れてください……」
心臓がバクンバクンと破裂しそうな程に鳴っている。汗が体を伝う嫌な感触を感じる。
「桜!」
玄佳に揺さぶられて、桜はなんとか彼女の顔を見れた。
「ごめんを言うのは、私だよ……私の我儘にずっとつきあわせて、桜が抱えてる物は置き去りで……ごめん」
玄佳は、少しの涙と一緒に、桜の頭を撫でてくれた。それで桜も少し落ち着いた。
「ううん……僕の意見なんて……」
「町田さん」
自虐的になる桜を、文貴が優しく見詰める。彼はもう眼鏡をかけ直していた。桜はそれに気づく余裕すらなかった。
「君は多分、周りの影響で自信がなくなっているんだろうけれど、そんなに卑屈にならなくていいんだよ」
大人からそんな言葉をかけられるのは初めてで、桜は奇妙な心地になった。それは混乱に似ている。
「事実、君の言ってる事は正しい。きっと、君は大器になる。少しずつでも、自分に自信と確信を持てるようになればなるほど、器は大きくなっていくよ」
優しい笑顔に、桜は自分の父親とは違う、温かい物を感じた。
「ありがとう、ございます」
文貴の言葉は、そんなに簡単に噛み砕けるものではなかった。
ただ、いつもであれば別の人物に感じるものを、この時の桜は文貴に見出していた。
「はあ……」
玄佳が溜息を吐いた。
桜は思わず、彼女の方を見る。
「娘の父親は上手くできないのに、大人はきちんとできるんだから、義理の娘は複雑です」
どこか不貞腐れたように玄佳は呟く。だが、先程までの冷淡な彼女はそこにはいなかった。
「もう少ししっかりしたら、『お父さん』って呼んであげる」
もっと強くて、前向きな彼女がそこにいた。
「玄佳ちゃん……」
「桜を落ち着かせてくれたし、それくらいはね」
どこか冗談めかして、玄佳は大人っぽい微笑みを浮かべた。
変幻自在な美の秘儀に魅入られて、桜はどうしてだか「ありがとう」と呟いた。
「桜の事じゃないんだからさ」
それでも、玄佳が笑ってくれたのならば、桜はそれでいい。
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