3-8

 二人、ばったりと部屋の中央で重なり合って倒れて、はる玄佳しずかの胸で静かに泣いていた。


 どちらも、何も言わなかった。桜は心の中にあった全ての言葉を吐き出した気持ちがして、それでも心の中に何か残っている気持ちがして、出てくるものは嗚咽だけだった。


 玄佳は柔く桜の頭を抱いて、静かに天井を眺めていた。


 時間の流れから断絶されたように、二人には二人の時間があるだけだった。


「あー……疲れた」


 先に口を開いたのは、玄佳だった。


「玄佳ちゃん……!」


 桜はただ、玄佳の声が聞けただけで安心してしまって、名前を呼ぶだけで精一杯だった。自分の声がいつもより濁っていて、上手く玄佳の耳に届くか不安だった。


 涙を零しながら、桜は眼鏡を取って起き上がった。


 玄佳も、後ろ手をついて起き上がった。


「……誰かと喧嘩するのって、こんなに疲れるんだ」


 玄佳は立ち上がり、箪笥を開けて桜の所に戻ってきた。


「顔拭いて。凄い涙塗れだから」


 玄佳はハンカチを差し出してきた。


 入学式の日にも、玄佳にハンカチを差し出された事を思い出した。そっと、受け取る。そのまま涙を拭う。


 僕の心は、玄佳ちゃんに届いたのかな。


 なんだか、玄佳ちゃんはいつも通りになっている気がする。僕だけが、引きずってるような、そんな気持ち。


 もしも、届いていなかったら、どうすればいいんだろう。


「ティッシュ使う?」


「うん……」


 玄佳ちゃんの心を聞きにきて、こんなにお世話になってどうするんだろう。


 桜がなんとか涙を拭って、鼻をかむと、玄佳は落ち着いた顔で桜を見ていた。


 さっきまでその顔容に浮かんでいた恐ろしい感情は迫力を失い、いつもの超然とした玄佳のポーカーフェイスがあるだけだった。


「……お父さんがどうして『宝物の在処』を描いたのか、桜は分かってたんだ」


 玄佳は、さっき桜が言った言葉を拾って、呟いた。


「分かるわけじゃないよ……ただ、玄佳ちゃんがお父さんの事を大好きなくらい、お父さんも玄佳ちゃんの事が大好きだったって思うから……」


 玄佳ちゃんがどうして『宝物の在処』を僕にくれたのかは分からない。


 でも、玄佳ちゃんのお父さんは、きっと最後の最後に、玄佳ちゃんに言えなかった事を詰め込んだ物語を遺していたんだと思う。


 玄佳ちゃんは、それをどう思うんだろう。


 僕なんかが――不意にくる、心臓を締め付けてくる恫喝がある。


 息が詰まる。玄佳の方を見れなくなる。


「桜?」


 不思議そうに、玄佳が桜の顔を覗き込む。


「ごめんなさい……生意気な事、いっぱい言ったよね……」


 一端に人間面するなと、恫喝する者の顔はよく知っていて、けれど思い出したくはなくて、桜は玄佳を見ずに彼女に謝った。


「何言ってるの」


 玄佳は、桜の両肩に手を置いた。


「ずっと……ずっと私は『透明な場所』に縛られてた。『宝物』はそこにしかないんだって、勘違いしてた」


 優しく、玄佳は桜を抱き締めた。


「宝物って呼べるものが今の私にどれだけあるのか分からない。でも」


 零距離で、玄佳の綺麗な音が、桜の耳に入り込む。


「これから増やしていこうって、思った」


 雲で閉ざされた空から、一条の光が射しこむなら、こんな風に何気なく優しく射すのだろうか。


「じゃあ、玄佳ちゃんは……」


 桜が尋ねると、玄佳はより強く、桜の細い体を抱いた。二人の顔がすれ違う。


「今までの私が馬鹿だとは思わない。けど、透明な場所にいくっていうのは、いつか私が何か、自然に死ぬまでずっと心に取っておく。だって」


 玄佳の体温は低く、桜は寧ろ自分が熱病に罹ったかのような錯覚に陥る。


「死んだら桜の作品読めなくなるし。とりあえず、それだけでも生きてく理由にはなるよ」


 重たいな――桜は自分が何かを書いていて、初めて肩に重責がかかるのを感じた。


「じゃあ、もっと文章上手くならなきゃね」


 言葉は、自然に出てきた。


「いいんじゃない、そのまま貫いても。ねえ桜」


「何?」


「今日、泊まってかない?」


 玄佳の低い体温に酔いしれていた桜は、驚いて玄佳から体を離した。


 玄佳は唇の端を吊り上げて、桜を見ている。


「む、無理だよ……泊まる準備何もしてないし……」


 どこかからかうような目で、玄佳は桜を見ている。


「さっきのあれこれ、文貴ふみたかさんに聞こえてないと思う?」


「あっ……」


 無我夢中で叫んでいたが、幾ら造りがしっかりしていても部屋の外に聞こえていて不思議ではない。少なくとも、言い争いは察せられている筈だ。


 帰り際に何か言い訳を……考えても、桜はそれこそ玄佳に入れ知恵して貰えないとあった事をそのまま説明するしかできない。


「私の心の問題、一度手をつけたんだから、どうせならもっとつきあってよ」


 桜には返す言葉もなかった。


 確かに、玄佳ちゃんの『死にたい』っていう気持ちがなくなっても、今のお父さん……文貴さんの事をどう思ってるのかとか、お母さんはどうしてるのかとか、そういう事は全然未解決だ。


 僕が口を出していい事でもないと思うけど、でも玄佳ちゃんはまだ今のお父さんの事を名前で呼んでる。それは多分、受け入れきれていないからだと思う。


 できるなら、寄り添いたい。


「……あの、一つだけお願い……」


「何?」


 玄佳は不思議そうに脚を崩して、桜に尋ねてきた。


「お母さんになんて言い訳すればいいか分からなくて……」


「桜の家って厳しいの?」


「小学校の頃は、友達の家にいくってだけで怒られた……」


「ふぅん……とりあえず、電話かな。って、今の時間いる?」


 玄佳が壁の時計を示す。母は恐らくまだ帰っていない。


「まだだと思う……」


「じゃ、考える時間はあるね。文貴さんにも協力して貰うか」


 玄佳は、立ち上がった。


「あ、待って……玄佳ちゃんのお父さん、今は何をしてるの?」


「編集者だよ。書肆浮舟堂しょしうきふねどうって所。今日はリモートで済むから家にいる」


 玄佳は桜を迂回して扉の方に向かう。桜はその後を慌てて追いかける。


 扉を開ける前、玄佳が急に立ち止まったので、桜はぶつかりそうになる一歩前でたたらを踏んだ。


「いてくれなくていいのにと思ってたけど、いい方に転んだかな。うちの親も巻き込んじゃえば文句出せないっしょ」


 どこか儚く、玄佳は振り返って、桜を見た。


「いいのかな……」


「いいんだよ」


「あ、待って、着替えとか……」


「私の古いのあるから大丈夫」


 桜の心配はことごとく玄佳に薙ぎ払われていく。どうやら、玄佳の持つ静かな暴威に任せるしかないらしかった。


「う、うん……あれ、書肆浮舟堂……」


 玄佳の口から出た言葉に、桜は遅れて思い当たった。


「お父さんが本出してたとこだけど……桜はそれ以外で知ってるの?」


 扉を開けながら、玄佳は尋ねてくる。


「そこだと思う……先輩が新人賞取ったの……」


「先輩って、文芸部の?」


「うん……」


 パッと明るい顔になって、玄佳は桜の両手を握った。


 玄佳ちゃんが本当の意味で笑った所を、初めて見たかも知れない――桜は思う。


 今まで見ていた玄佳の笑みは、笑みと呼ぶにはどこか歪で、不自然だった。


 だが今は、とても自然で、いつも大人びている玄佳の表情が子どもっぽく、実年齢よりも子どもっぽく、花やいでいた。


「だったら色々話も聞けるし、丁度いいじゃん! それも理由の一つにすればいいし!」


 感情を思い切り出しても、しっかり頭で考えながらという所は、いかにも玄佳らしかった。


「……うん」


 この笑顔になら、任せられる。


 桜は、玄佳の案内で文貴の仕事部屋に向かった。


 その後、お泊りが確定した。




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