3-7

 由意ゆいが予見していて、楽要かなめがその片鱗を桜に教えてくれた玄佳しずかの事実は、一つだけだった。


 死にたい。


 その言葉を聞いた時、はるは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。くしゃくしゃに歪んだ顔は悔しさに押し潰されていた。涙を懸命に堪えているのは、玄佳の心の一番大事な事を聞けても、それが全てではないと分かっているからだ。


 どんな言葉を返せばいいのか、いつも分からないでいる自分が情けない。


「七年前から、私の心は変わってないんだよ」


 玄佳は、開きっぱなしだったテーブルの上の手帳を取った。


「桜の真似してみたけど、駄目っぽい」


 そこに描いてあるのは、花、蝶、天道虫、繊細でいて幻想的なタッチは、玄佳の実父に似ていた。


「僕の、真似……?」


 こんなに潰れた言葉で、どうして玄佳の心を受け止め切れるのか。それでも、逃げ出す事はできなかった。


「桜はいつも心を文章にして吐き出してるでしょ。私も絵にして吐き出そうと思って、描いてみたんだけど、全然形にならない」


 形には、なっていると思う。


 僕にはとても描けないくらいに美しく、玄佳ちゃんは綺麗な絵を描いている。


 嬉しそうに話さないで欲しい。


「玄佳ちゃん……初めて部室にいった時の事、覚えてる?」


「忘れる程、前でもないよ」


「あの時、由意ちゃんが違和感を感じて、玄佳ちゃんに窓拭きを任せなかったって……」


 微笑んでいた玄佳は、ふふっと笑った。


「由意ってたまに怖いよね。あれは私もやられたと思った。部室の窓から飛べば『透明な場所』にいけるのかな、なんてぼんやり考えてたけど――」


 その時、玄佳の顔から笑みが消え、冷酷な表情が浮かんだ。


「――読まれてたなんてね」


 ずっと、そうだったのかな。


 僕のファン一号になりたいって言ってくれた時も、玄佳ちゃんはずっと身近にある『死』だけを見詰めていたのかな。


 だとしたら、僕はとんだ道化だな。


「私が合宿で飛ぼうとしてる事まで由意は見通して、対策する為に桜に頼んだ……どう? そう間違いでもないでしょ」


「それは……」


「後で確認してみなよ。昨日、ホームルームが終わった時、私に写真部の活動かって聞いたの、さりげなく『部室にこさせないように牽制した』って事だろうし」


 桜にはできない読み合いがそこにはあった。


 何故、強く奥歯を食いしばっているのか、桜は自分でもよく分かっていない。


「そこまで……」


 ただ、何かに突き動かされた言葉が出てくる。


「そこまで分かってるのに、どうして『死にたい』なんて言うの!?」


 自分自身、驚く程の大声が桜の口から飛び出した。


 半生を振り返っても、こんなに大声で人に怒鳴った事など桜にはない。それくらい大きな何かが、桜の中から口を通して外に出ている。


「当たらずも遠からずか……桜」


 歪む視界に映る玄佳は、冷淡な顔をしていた。


「大好きな人とずっと一緒にいたい気持ちは、否定されるべきなの?」


 玄佳の言葉が、桜の喉を詰まらせる。


「私はお父さんと一緒にいる幸せがずっと続くんだって思ってた。絵だって、今はこんなだけど、お父さんに習ってもっと上手くなるんだって思ってた。なのにお父さんは病気になって、私はきっと治るって聞かされて、馬鹿みたいにそれを信じて、お見舞いにいく度に『また絵を教えてね』なんて言って、その度に『透明な場所』の事をあれこれ聞いて、それがお父さんの遺言だなんて知らずにお母さんからいきなりお父さんが死んだって聞いて最後に『透明な場所で待ってる』なんて言葉を遺されて、お父さんともっと一緒にいたかったのにお父さんは綺麗な顔でいなくなってて、私が悲しんでる間に時間は流れてお父さんの痕跡を探してもどこにもなくて」


 玄佳は桜の襟元につかみかかっていた。桜は、押し倒されないようにするので精一杯だった。


「ここが透明な場所だと思って飛んで落ちた先で怪我だけして惨めな思いをしながら生きて、今のお父さんが情けなく周りに謝ってるのを見て調子合わせて馬鹿みたいに謝って! 私の幸せはもう今にも未来にもないんだから、ただこの世から消える事しか望みはないんだよ!!」


 この世から消える――その言葉を聞いた瞬間、桜の心は明確に熱度を増した。


 小さな手で、必死に玄佳の左腕をつかむ。


「そんなに死にたいなら、僕は絶対玄佳ちゃんを死なせない……!」


 死に物狂いで、玄佳を睨む自分は、どんなに醜いだろう。


 それでも。


 醜くても。


 今離してはいけないものが、手の中にある。


「じゃあ何を望みにして生きればいいの!? 私はただお父さんの所にいきたいだけ!! 邪魔しないでよ!!」


 もう、玄佳は前後の見境も見失っていた。桜より恵まれた体格で、桜を締め上げてくる。


「じゃあ……あの言葉は嘘だったの……?」


 桜は顔を赤くして、僅かな酸素を元にして言葉を振り絞る。


「僕のファン一号になるって……ファンが死を願っていて、それを後押しする作者なんて、絶対にいない……!」


 僅かに、玄佳の力が緩んだ。桜は両手で玄佳の腕をつかみ、自分の首から離した。そして逆に、玄佳の胸倉をつかむ。


「玄佳ちゃんの悲しみは玄佳ちゃんだけの物だから、僕じゃ気休めみたいな事しかできないよ!! そんな事分かってるけど!!」


 玄佳に怒鳴る勢いで、前のめりになって、桜は玄佳を押し倒した。


「もしも玄佳ちゃんが死んだりしたら、僕は大好きな人を失う事になるんだよ!! こんな……こんな僕の物語を好きって言ってくれた人がいなくなったら……」


 玄佳の上に馬乗りになりながら、桜は泣きじゃくっていた。


 きっとこれが今の、僕の心の全てなんだ。


「僕だってきっと、死にたいくらいに悲しくなる……!!」


 俯いた桜の涙は、眼鏡のレンズに溜まって、その綺麗な曲線を汚していく。涙に目を閉じているから、玄佳がどんな顔をしているのかも、分からない。


「桜……」


 玄佳は、桜の左腕をつかんだ。


 そして、自力で起き上がる。二人は、座ったまま至近距離で向かい合い、密着する形になっていた。


「私は……」


 ぎゅ、桜の胸倉が捕まれる。


「あの時、生きてく意味をなくしたんだよ……!」


 ぐ、桜は玄佳の胸倉をつかみ返す。


「玄佳ちゃんのお父さんは、玄佳ちゃんが死ぬ事なんて望んでないよ……!」


 お互い、鼻の先がくっつく程に密着していた。荒い呼吸に上がった体温、お互いの顔が持った湿度も相手に伝わって誤魔化せないくらいの密着は、本当の事しか話させない。


「じゃあ、私の今まではなんだったの!!」


「間違いだよ!! お父さんが死んだから自分も死ぬって自棄になって、周りの事も見えないで……」


「見たくもない!! 私はただ……」


「玄佳ちゃんのお父さんが!!」


 言葉を詰まらせた玄佳に、桜は叫ぶ。


「透明な場所で玄佳ちゃんを待ってるなら、それは玄佳ちゃんがお婆ちゃんになるまで生きて、色んな事を経験して、沢山幸せを手に入れて、瞼の中の宝物をお父さんに話してくれるのが楽しみだからだよ!! だから『宝物の在処』を遺した!!」


 もう、桜はこれ以上声を出したくなかった。喉が酷く痛む。心はズタボロになっていた。玄佳を傷つける事が、こんなにつらいとは思わなくて、けれど玄佳が傷つく事を言わなければ、彼女はどこか遠くへいってしまう。


 縋りつくように、桜は玄佳に抱き着いていた。


「だから、生きていこうよ……つらくても、悲しくても」


 玄佳は――桜をそっと抱き返して、後ろ向きに倒れた。


 二人は絡まり合って、床の上で抱き合っていた。




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