3-6
帰りのホームルームの時、
合宿の事は
玄佳の家はマンションの一室だった。
桜は表札に《
相手が出てくるまでの沈黙が、とても痛い。都会の音の隙間にあるそのしじまは、どうにも居心地が悪かった。ここの造りはしっかりしていて、中の音は聞こえない。
静かに、扉が開く。三十代くらいの、黒髪をさっぱり纏めた、眼鏡をかけた男性が不思議そうに桜を見下ろしていた。
「君は……ああ、その制服。
桜がたじろいでいる間に、玄佳の今の父らしき男性は納得した。
「は、はい……玄佳ちゃんの友達で、
初対面の人間は無条件に苦手な桜は、口ごもりながら用件を言った。
「ああ、君が町田さん。玄佳がよく話すから、名前は聞いてるよ。初めまして。僕は玄佳の父の月守
文貴は玄関を示す。
「し、失礼します……」
桜はおずおずと靴を脱いで、中に上がった。全体的に綺麗に、清潔に整っていて、置いてある小物も洒落ていて、玄佳の家と言われるとそんな気がしてくる。桜は文貴の後ろから中を歩いていた。
「玄佳は部屋にいるから。飲み物、持ってくるね」
穏やかに微笑んで、文貴は玄佳の部屋の前で桜を置いて去っていった。
何も言わなかった。
玄佳ちゃんのお父さんは、玄佳ちゃんの体調について何も言わなかった。
風邪って口実が嘘なのを僕が知ってるみたいに。そんな事は一言も言ってないのに。
なんだろう、この、歪な感じは。
確かめるには――このドアをノックするしかない。
桜がドアをノックすると、すぐに中から扉が開いた。
「……入って」
白いシャツに黒いパンツルックの玄佳が、桜を迎えた。
いつも通りにポーカーフェイスを浮かべた玄佳の顔、その肌は、何か大きな感情が溢れるのを必死に抑えているように見えて、桜にはその肌の裏にある恐ろしく過大な感情に飲み込まれそうな気分になってしまった。
「……うん」
それでも、桜は今しかないと思いながら、中に入った。
玄佳の部屋の中は本人の美貌とは裏腹に、乱雑だった。部屋の中央にテーブルがあり、入って右側に本棚と机がある。机の脇にクローゼットがあった。ドアから左側にベッドがあり、ベッドと窓の間に本棚と箪笥があった。そして、本棚から出たか、納まりきらなかった本が雑に積まれている。
テーブルの上に絵を描いた手帳があるのを、桜は見つけた。
「座って……って言っても、クッションも何もないか」
玄佳は自分の机に向かって、その椅子に座った。桜は入り口で立ち尽くしている。
「ベッドでよければ。ごめん、部屋に友達きた事ないから」
「う、ううん……」
謝らないで欲しい。
玄佳の本心を聞こうとして、聞くべきでない事まで聞いているのは、自分なんだから。
桜がベッドに座って、鞄を開くと、部屋のドアがノックされた。玄佳が立ち上がり、ドアを開ける。
「文貴さん、座布団かクッションない? 桜の」
「ああ、それならあるよ。少し待っていて」
桜は(血が繋がっていないとは言え)自分の父を呼ぶ時に名前で呼ぶ人間を初めて見た。玄佳は無表情にお盆をテーブルの上に置いた。
「文貴さん、私の体調について何か言ってた?」
玄佳は、その黒曜石の瞳を桜の瞳に合わせて、尋ねてきた。桜は何故だか視線を逸らせなかった。
「……何も言ってなかった……玄佳ちゃん、見た感じ……」
「仮病」
桜に一言答えて、玄佳は扉の方を見た。そして扉を開け、クッションを持ってきたらしい父からそれを受け取って桜の前に置いた。玄佳自身は、元々あった座布団に座った。
「ごめん、ちょっと……今日学校いって、桜となんの話すればいいんだろって考えたら、いけなかった」
玄佳が座布団に座るので、桜も玄佳のベッドから降りて、クッションに座った。
玄佳が仮病を使っていた事など、予見していた。
その理由がとても悲しくて、桜は鞄を開いて、渡すべきものを渡した。
「授業参観前のプリント、例年より遅れたって西脇先生が……あと、由意ちゃんが玄佳ちゃんの分までノート取ってくれてたみたいで、渡すように頼まれた……」
桜がプリントとノートを渡すと、玄佳はプリントを置いて、ノートに目を通した。
「由意ノート取るの上手いな……ねえ桜」
びくっ、桜の体は叱責されたように縮まった。
「昨日、楽要から私の事、どんな風に聞いた?」
やっぱり、宝泉さんと会ってて『何も聞いてません』はなしだよね。
正直に話すしか、それしかできない。
「玄佳ちゃんが小学校二年、三年、五年の頃の事……」
桜は楽要から聞いた話の中で、重要な所を話した。二度の行方不明事件、自殺未遂の件で周りから奇異な目で見られていた所まで。
玄佳は黙って聞いていた。
「……勝手に聞いちゃって、ごめんなさい」
最後まで話すと、桜は謝った。
「それ、由意とか咲心凪には言った? 先生はまあ知ってるからいいけど」
表情一つ変えずに、玄佳は尋ねてくる。
「話そうと思ったけど、ただ『友達から玄佳ちゃんの事を聞いた』って以上の事は話せなかった……二人で話した事も、話してない。まだ……」
桜は、視線に険しさが宿るのを自覚した。
その視線で、玄佳の黒曜石型の瞳を見る。
この歪んだ家にきて確信した事は、一つだけある。
「玄佳ちゃんの心がどこにあるのか、答えは何も出てないから」
きっと『今』の玄佳は『未来』を見ていない。ただ『過去』に囚われていて、『心』がどこにあるのかも分からない。
解き明かさなければならない、大いなる謎がそこにあった。
「……私の心か」
玄佳は、儚い表情を浮かべた。
「由意ちゃんは、違和感を持ってたよ。玄佳ちゃんがずっと『透明な場所にいきたい』って思いながら……生き急いでるんじゃないかって」
借り物の言葉である事は承知している。言葉を生み出せない事は、知っている。
「由意は案外鋭いね。そんな気はしてたよ」
静かに、玄佳は目を伏せた。
「……教えて、玄佳ちゃん」
桜は、言葉を振り絞る。
「玄佳ちゃんが言ってた『透明な場所にいくのが楽しみ』っていう言葉の、本当の意味」
以前なら、聞くのを躊躇していただろう。それくらい桜には自信と呼べるものがない。
それでも今は、少しの勇気があった。
できると信じる事と、未来の予定に失敗を書き込んだりしない事。そして悲しみには一つとして同じものがないという示唆に気をつけながら、言葉を紡ぐ。
「聞いたら桜はどんな顔するかな」
それは、桜自身にも分からない。
玄佳から出てくる言葉はきっと不吉だろう。それでもここまできた以上、桜はどんな言葉でも受け止めなければならない。
「聞きたいよ、今の、玄佳ちゃんの心」
桜は、胸が引き締められる気持ちがした。
「私の心なんて、何年も前から変わらずに一つだけしかないんだよ」
玄佳は、初めて笑った。
「死にたい」
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