2-12
桜はプラネタリウムで得た物を書き留めながら課題を解いて、明日一日は『球根』を形にする作業か、『
玄佳にどうしたのか聞いても、詳しいわけは聞けなかった。ただ、明日の開店時間に合わせて、以前に二人でいった『あぷす』という喫茶店まできて欲しいと言われた。
いつもクールな玄佳の様子からは想像もできない勢いでメッセージが送られてくるので、桜は不思議に思いながら(玄佳ちゃんは何か、切羽詰まった用事があるんだ)と頷いた。
翌日、桜は玄佳から送られてきた地図を元に、一度だけ入った喫茶店に向かった。
《あぷす》看板が目に入ると、桜はスマホを取り出して、玄佳に〈着いたよ〉と送った。玄佳は〈なか〉と返してきた。
桜は一人できちんとした喫茶店に入った事がない。緊張しながらドアを開けると、ベルが鳴る。上品で、店内の調和を崩さずに規則正しく鳴るその音が綺麗だった。
桜が戸惑う様子に、店員が不思議そうな顔をする。なんと声をかけたらいいのか、桜には分からない。
「桜」
最早聞き慣れた声がする方を見ると、玄佳の長い髪の毛と、美しい顔容が見えた。白いバルーンスリーブのブラウスに、黒いパンツルックの玄佳は、どうしてそんなに表情がないのか。悲しい気持ちが桜に飛来した。
「お連れ様ですか?」
店員が戸惑いがちに尋ねる。
「はい。こっち」
「う、うん……」
玄佳は遠慮なく、桜の手を取って奥に連れていく。その手は生きている人間にしては随分冷たくて、桜は自分が熱病に罹っているような心地になった。天使が人を連れていくのだとすれば、こんな冷たいのじゃないか。
桜が幻想的な気分になっていると、するり、玄佳の手が桜から離れる。玄佳は元々座っていた席に着いて、桜にメニューを渡してきた。玄佳の前には何もない。
「私はもう決めたから、注文決めて」
桜が何を言う間もなく、玄佳は要求してきた。その美貌はどこか有無を言わせぬ物がある。桜は
桜はメニューを開いた。以前は決めかねて、玄佳と同じ物を頼んだ。今日は自分で頼むしかない。とは言え、桜は先週もここにきている。中学生の身分で気軽にこられる店ではない。
「ちょ、ちょっとごめん……」
桜は財布を取り出して、中身を確認した。
「あ、お金気にしなくていいよ。奢るし」
「え」
すぐに玄佳に声をかけられて、桜は開きかけていた財布を落とすかと思った。
「急に呼び出したお詫び。昨日も出費あったし、ここ先週もきたしね」
「あ、ありがとう……」
どうしてこんなに気まずいのか、いや、惨めなのか、桜にはまだ分かっていない。彼女は白玉餡蜜とコーヒーを頼んだ。玄佳はパンケーキとミルクティーを頼んでいた。
「ごめんね、急に」
注文が済むと、玄佳は謝ってきた。
「う、ううん……どうしたの?」
言葉はいつも上手く出てこなくて、無性に情けなくて、悲しくて、そして何故か怖い。
玄佳は、いつもならばはっきり用件を言うのに、この時は妙にだんまりして、お冷に視線を落として、口を少しだけ開いて、美しい歯列を覗かせた。恐ろしく美しい歯並びは、凶悪ですらあった。
「……用事を作る必要があったの」
「え?」
玄佳が何を言いたいのか、桜にはよく分からなかった。
桜は自分に用事があるのだと思ったのだが、玄佳の言いぶりだと、寧ろ何かから逃げる口実に桜との予定を作ったようだった。
「わけ分かんないよね。私も分かんないし」
どうして笑うのか、その笑顔はどうして窓から差し込む春日の一閃で消えてしまいそうなのか。
「玄佳ちゃん……どうしたの? 今日、いつもと違う……」
桜の前にいるのはいつも通り、美しくて、お洒落で、少し儚げな玄佳だ。けれど、静謐ではあるが、その様子はいつもと違う。露骨に違うのではない。風船が不意に割れる事を知っている人でも、今持っている風船が破裂するとは思わない。破裂を予知するような感覚が、桜の中にあった。
「逃げてきたの。家から」
家から逃げる?
玄佳の家庭環境は、彼女の父が亡くなっている事から聞きづらくて聞いていないが、何かあったのだろうか。
「家族で仲よくするより、桜が今何をしてるのかの方が気になるんだ」
どうしてそんなに悲しそうなの?
僕の事なんてどうだっていい。話が必要なら幾らでもする。それより、玄佳ちゃんの、今にも内に溜まった涙で破裂しそうなその水分を、綿になって吸い取りたい。
けど……僕自身も涙に湿気っていて、そんな事はできそうにないな。
桜が逡巡する間に、店員は桜と玄佳の前に注文の品を置いた。
「二つ、桜の作品読んだけどさ、今は何を書いてるか、聞いてもいい?」
明らかに様子がおかしい玄佳に、桜は何も聞けなかった。
ただ――。
「今……書いてるっていうか、悩んでる。次に書く物……『球根』『春蚕』っていう言葉だけ僕の心の中から出てきて、記憶を辿って、どういう物語にすればいいのか探ってる」
桜の話を、玄佳は楽しそうに聞いている。嬉しそうですらあった。目の前の現実から逃げて耽楽に身を任すような放埓さが、そこに座っていた。
「ただ、形にならなくて……もう少し、深く考えないといけないと思う。僕にとっては、とても大切な物っていう感覚があるの……」
段々、不安が桜を包んでいく。
こんな話をしていていいの?
玄佳ちゃんの心の中には何か、とんでもない一大事が起きているんじゃないの?
涙が零れそうなのは僕だけじゃなくて、玄佳ちゃんもじゃないの?
聞きたい事が溢れては零れる事なく沈み、積もっていく。
「先輩に相談したら、記憶の中にヒントがあるんじゃないかって言われて、小学校と、もっと昔の事を考えてた」
「桜はさ」
不意に、玄佳は桜の話を遮った。ミルクティーに角砂糖を入れる所作は、いかにも慣れていると言った所。
「昔の幸せがずっと続くと思ってる?」
カップの中をかき混ぜながら発された尋ねは、きっと本心からの物だろう。
「僕は早く一人の人間になって、幸せな場所へいきたいと思ってるよ」
するりと出てきた言葉を、桜はそっと指文字でテーブルの上に書いた。人間になって、幸せな場所へ。
「一人の人間、か……」
玄佳はミルクティーを一口飲んで「甘過ぎるな」と呟いた。
「今の気分に合わないや。ね、コーヒー一口頂戴」
「う、うん……」
桜がコーヒーを差し出すと、玄佳は受け取って、舐めるように一口飲んだ。
「きっと、桜なら幸せをつかめるよ」
その儚い笑顔は、きっと魔性か、死の気配を纏っている。
そうでなければ、こんなに無力な虚しさを相手に感じさせる事はできないだろう。
「玄佳ちゃんは、違うの」
なんだろう、この感覚は。
きっと、答えを予期しているから、疑問符がつかないんだ。
けれど。
「春と思えば春になり、冬と思えば冬になる。そんな場所なんだって、『透明な場所』は」
まだいった事のない観光地に今度いく事になって、それを楽しみにしている幼子――今の玄佳の表情はそれだ。
「だから、いくのが楽しみなの」
言葉の意味を考える事は容易くて。
玄佳の内心が零れた事は怖くって。
「見つけられるといいね」
莫迦みたいに、桜は話を合わせた。
二人は昼前まで他愛もない話をして、別れた。
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