2-11

 天文部でプラネタリウムにいく話が出た時、はるは自分が小学校の頃、一度だけプラネタリウムにいった事があると咲心凪えみなに言った。


 ただ、その時の記憶はとても断片的で、上手く思い出せない。


 従弟と、遠縁の親戚の子どもが多く桜の実家に集まった夏休みで、近く(というには少々遠いのだが)の鍾乳洞にいこうという話を誰かが始めた。鍾乳洞近くにプラネタリウムがあった。帰り、大分の人数で食堂に入って、めいめいラーメンだのカレーだのを食べていた記憶があった。


 その時の会話を何一つ思い出せないまま、桜は咲心凪達とはぐれないように気をつけて、プラネタリウムがある建物に入った。咲心凪は慣れた様子でチケットを買い、桜達はそれに倣った。


 上映中は出入りできなくなると聞いたので、桜は先にお手洗いを済ませた。


 みんなと合流して中に入る。玄佳しずかはプラネタリウムにくるのが初めてで、由意ゆいは二度目だった。咲心凪に関しては、ここにきた回数が少ないだけで、都内の有名なプラネタリウムに何度も通っている。


 桜は玄佳の隣だった。


 天文学の歴史のようなプログラムだった。その中で、新しい星座の話になった時、玄佳がそっと桜の耳元に口を寄せてきた。


 玄佳の長い黒髪が、桜の耳介に触れる。恐ろしかった。その髪の毛が自分の体に絡みついて血を吸って、薔薇の花を咲かせる様子すら目に見えるようだった。


「凍てつく星座は、ふうちょう座」


 玄佳は自分のもう片隣の西脇にしわきに聞こえないくらいの声で、小さく桜に囁いた。もしもその声を同年代の男子が、桜と同じ距離で聞いたなら、何か情動的な勘違いをしたに違いなかった。しかし桜は、透明な場所への興味が勝った。


 ふうちょう座に関する説明が流れ、その形がプラネタリウムに浮かぶ。煌めいて見えるそれは、出来損ないの槍のようにも、折れた矢のようにも見える。何故つきのひさしはそこを凍てつく星座としたのか、ふうちょう座は日本から見えない星座で、南の温暖な国から見える。凍てつくようには思えない。


 ただ、玄佳がそれを教えてくれた事が、桜には嬉しかった。


 玄佳はその後、何を言うでもなく、ただプラネタリウムのプログラムを聞いて、浮かぶ星を眺めていた。


 一通りプログラムが終わると、桜達は建物を出た。咲心凪は抜かりなく、近くで美味しそうなお店を調べてきたと言う。彼女が辛いの大丈夫? と聞くのでそれぞれ頷くと、評判がいいというカレー店へ入る事になった。


 五人が入って注文すると、咲心凪はうっとりした顔をした。


「第一の活動が無事に済んだね!」


「済んでません家に帰るまでが活動です」


 元気よく言う咲心凪に西脇が頭を痛めている。


「でも、きた甲斐あったと思う。知りたかった事も知れたし」


 お冷を飲みながら、玄佳が言う。


「ピンポイントに何かあったの?」


 由意が穏やかな顔で玄佳に尋ねる。


「そんなに大した事じゃないけどね。ふうちょう座って、お父さんが好きだった星座」


 自分が飲んだお冷の水面に視線を落とす玄佳は、そのコップの中の水溜りに自分の涙をぽろりと零して混ぜようとしているように、桜には見えた。


「玄佳ちゃんのお父さんが言ってた事って気になるんだよね……〝氷のように青い月〟を見た人の証言なわけだし」


 咲心凪は天文部を立ち上げた本題に帰った。


 結局、天文部ができてからまだ、天体観測はしていない。というか、桜は初日を除いて不在にしていたし、西脇もそんなに簡単に許可を出すわけがないので、すぐにできる事ではない。


「……玄佳ちゃんのお父さんと、咲心凪ちゃんのお祖父ちゃんの言葉」


 桜はぽつりと呟いた。


 その時、五人の所にカレーが届いた。


「うん、共通するのはIBM。どういう条件で見られるのかとか、どこで見られるのかとか、そういう所が全然不明なのが困るんだよこれ」


「咲心凪ちゃんのお祖父さんはどういう状況で見たの?」


 カレーに手を合わせながら、由意が尋ねる。


「お祖父ちゃんの話を繋ぎ合わせる感じになるけど……」


 咲心凪はスプーンを取って、話し出した。


 お祖父ちゃんの前の奥さんが仲がよかった頃の事だったと思う。


 その頃のお祖父ちゃんは友達の何人かと一緒に、定期的に天体観測をする同好会みたいな物を持っていたの。


 月に一度、もしくは何かの天体ショーがある時、その集まりは夜中のキャンプ場に集まって、お酒なんか吞みながら空を眺めてたらしい。


 お祖父ちゃんの話には思い出話が多くて、その集まりに出ていた人の名前まで私は知ってる。前の奥さんが嫉妬する程、仲がよかったみたい。


 ただ、記録をつけるのは定例になっていたみたい。


 その時は海から離れた山の中のキャンプ場で、季節は真冬だったみたい。


 空が妙に霞んで見えた、ってお祖父ちゃんは言ってた。曇ってるんじゃなくて、空がヴェールを纏うみたいにはっきりしないんだって。


 その中で、朧気に見えた満月が段々はっきりしてきて、晴れると氷のように青い月だったって聞いた。


 その時の事をお祖父ちゃんは書き留めたけど、ノートは同好会の誰かの手に渡って、今どこにあるのかも分からない。


 咲心凪は合間合間にカレーを食べつつ、話を結んだ。


「……その頃、天体? 天文? に何かあったのか調べられないかな……」


 桜はカレールウがついた口元をテーブルナプキンで拭きながら尋ねた。店の中に漂う食欲を誘う香りが、今は貪婪な悪獣の涎のように思えた。


「うーん……お祖父ちゃんがそれを見たのがいつなのか、辿るのがね……本人もお祖母ちゃんの手前話しづらいみたいだったし」


 咲心凪の祖父はIBMに夢中になるあまり、前妻に三行半を叩きつけられている。それを咲心凪の祖母の前で話す事は気が引けたのだろう。桜にはまだ理屈としてしか理解できない深い大人の世界がそこに厳然と横たわっていた。


「条件が分からない物を当てずっぽうに探すのは無謀だよ」


 綺麗にカレーを食べ終えている由意が言った。


「まあそうなんだけど。なんにせよ一度は天体観測して、観測ってどういう物かそれぞれ体験するのが大事かなって」


 咲心凪はもう『次』を見据えている。


 確かに、基本的な事を学んだなら、実践的な事もする必要がある。天体観測。僕はした事がない。天体望遠鏡なんて覗いた事もない。僕が育った田舎の空は酷く狭かった。


 澄んでいて高くて、井の中の蛙が空の青みを知った所で届きはしないように、いつでも届かない物のように思えて、暗くなった空に輝く無数の星はプラネタリウムよりも乱雑で、どこか歪んで見えてしまう。


 今なら、違うのかな。


 桜は(一人で眺める空じゃなくて、みんなで眺める空なら、少しは見え方も変わるのかな)なんて考えていた。


「天体観測そのものはいいと思う。桜ちゃんと玄佳ちゃんはどう?」


 由意は、二人に尋ねた。


「ぼ、僕もやってみたい……!」


「いいと思う。天体観測ってしっかりした事ないし。もしかすると――」


 玄佳の言葉に、桜も、咲心凪も、由意も、西脇まで、彼女を見た。


「そこに『透明な場所』があるのかも知れないし」


 その言葉の真意が分からなくて、桜は少々困惑した。ただ、不意に目に入った由意の悲し気な顔に何かが見えて、困惑だけが深まった。


「ま、しっかり計画立てるなら顧問としてつきあうわ」


 西脇は、静かに頷いた。


「よしっ! ゴールデンウィークにできるようにあれこれ準備しよう!」


 咲心凪が手を叩く。


 どうして。


 どうして悲しみを悲しみと捉えられないまま、世界は回転するんだろう。


 そんな事を考えながら、桜は四人と一緒に帰り道に入った。



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