2-8

 お昼の給食時間が近くなるにつれて、はるは頭の中で何かが動くのを感じ始めた。


 むくむくと、立ち上る煙のように頭の中に湧き上がる物が出てくる。それは給食の準備をしている間も桜を包み込み、彼女を寡黙にさせた。


 咲心凪えみな玄佳しずか由意ゆいの三人は、プラネタリウムにいくのに必要な事を考えている。


「どこかいい所はあるの?」


「うーん……池袋いきたいけど、結構値段張るしなあ……」


「最初は分かりやすい所にしてよ。私天文学とか分からないし」


「それなら……品川の方かなあ」


 咲心凪は机からノートを取り出して品定めしている。桜こそノートを取り出して頭の中に湧いている虫を吐き出してしまいたくて仕方なかった。


「桜ちゃんはどんな所がいいの?」


 由意に尋ねられて、桜はご飯のお椀を落としそうになった。


「僕……僕もあんまりよく分かってないから、初心者向けの所がいい……」


 酷く自信が出ない。いや、そんな物、最初からないに等しいんだ。誰かが、根こそぎ奪い取ってしまった。


 僕の心は何かを叫ぼうとしているの?


 違うの? ただ呻き散らしているだけなの?


 そんなに小さな声じゃ、聞こえない。


「ならやっぱり学習向けのプログラムがある所で絞った方がいいかな。アクセスよくて料金安いのもポイントだよね」


「まあ、お金と移動時間はかからないに越した事はないかな」


「ねえ咲心凪。プラネタリウムって日本から見えない星座も見れるの?」


「見れるよ?」


「そう……」


 玄佳ちゃんはどうしたんだろう。ただ気になったんだろうか。


 妙に喉が渇いて、桜は牛乳を一気に飲み干した。


「桜ちゃん?」


「う、ううん、なんでもない……」


 何か恐ろしい気持ちがある。桜は先に食器を返して、机に戻るとノートを開いた。由意と咲心凪が不思議そうに見ている。


 ただ、この時の桜は春の魔物に囚われていた。


 周りからどう見えるか、という事をその魔物は忘れさせるらしい。


 桜は夢中でノートにとりとめもない思考を書き出した。


[春は魔物が住む。球根に宿ったそれは、地上に顔を出す時を窺いながら土の中で胎動している。ドクンドクンという音が聞こえなくても、その波動は柔らかい土を伝って固めていく。『咲く』その一念だけで燃え上がる執念はとても力に溢れている。その力はどこから出てくるの? 生まれたい、違う、生きていたい、近い、空を見たい。それもある。もっと違う力はきっと『花になりたい』という事で、それは人間の子どもが自分の地下にいる事を自覚した時『人間になりたい』と思うのに似ている。僕は地下にいるような暗さを知っている。幼い頃に寝ていたあの薄暗い寝室……]


 桜は自分自身の深い経験の中に何か、重大な事が隠れているような気がしていた。


 そこに、今書こうとしている『球根』の手がかりがある。それを見つけ出さなければ、これは作品にならない気がした。


「桜」


 ビクッ、桜は肩を震わせた。


「机戻そう?」


 見ると、玄佳が芍薬のように立っていた。窓からの光が逆光になって玄佳の美しい顔立ちを艶やかな淫魔の肌のように艶めかせている。


 もう給食の時間は終わり、みんな机を戻している。


「う、うん……!」


 桜は慌てて、机を元に戻した。


「なんか夢中になってたね桜ちゃん……週末、品川までいこうって話になったんだけど、大丈夫?」


 咲心凪が心配そうに声をかけてくる。


「えっと……」


 どうやら話は桜が没頭している間に過ぎ去ったらしい。しかし、今の桜には邪魔して欲しくなかった。邪魔という言い方も不適切だが、自分の世界に没入していたかった。


「ごめん……後で、詳しい事メールして貰えれば……予定は空いてるから」


 弱弱しく、桜は答えた。今は、それだけで精一杯だった。


「分かった。今日は部活これそう?」


 咲心凪は桜を労わるような色を童顔に湛えて、尋ねてくる。


「今日は……ちょっと、文芸部にいきたい」


「分かった。いいよ」


 特に引き留めるでもなく、咲心凪は頷いてくれた。


 無性に情けなくなるのは、どうして?


 ううん、分かってる。


 みんなが一つの目標に向けて頑張っている中で、自分の事だけ手一杯な自分が恥ずかしくて、やり切れなくて、悲しくて切ないんだ。


 一度言ってしまった以上は、しっかり文芸部の事を考えよう。


 それしかできないんだから。


 桜はノートを開いた。


[球根期。人間にはそんな時代が確かにある。そこで咲くなら人になれる。けれど咲かなければどうなるか、人間になりたいと思いながら土の中で腐るのか、遅い我が身の春を待って咲くのか、そのどちらかなんだろうか。球根は遅く咲く事もあるの? ……]


 言葉が出てこなくなって、桜は右前の席で桜が渡した原稿用紙の束を読んでいる由意の話を聞きたくなった。由意は園芸部員だ。


「ゆ、由意ちゃん……」


 か細い声は、確かに形のいい耳に届いた。


「どうしたの?」


 由意は優しい顔で振り向いて、尋ねてきた。


「きゅ、球根って、もしも咲かなくても、遅れて咲く事はあるの……?」


 まったく不意の質問で、ただ園芸部の由意ならば分かるかと思って尋ねた程度の質問だったが、由意は特に怪訝に思うでもなく、考えるように顎に指を当てた。


「そうだなー……花が咲いても生育不良とかはあるけど、咲くには咲くよ。ちゃんとした土があって、病気になったりしなければ。ただ、根がしっかり張ってないと風に弱い茎になっちゃったりもする」


 由意は知っている事を教えてくれた。


 桜はノートの隅にそれをメモした。根。それは桜にはない視点だった。


「じゃあ、すぐに花が咲かなくても、諦めないの?」


「諦めちゃう人はいるよ。でも、花が咲こうとしてるなら、それを助けたいと思うのも人だから。私なら、根気よく粘ると思う」


 いかにも優しい由意らしい発言だった。


 なんだか、由意の言葉に救われるような心地がするのは何故だろう。


 桜は、温かい木漏れ日の中にいるような錯覚を覚えた。


 それは恐らく、平和な垂れ目で桜を見詰める由意のその瞳のもたらす一種の効果であるのかも知れなかった。


 あの目は昔お世話になった校長先生に似ている。


 桜は不意にそんな事を思った。


「あ、ありがとう……」


 言葉を忘れるような温かさに、桜の気持ちは少し落ち着いていた。魔物はどこかに消えて、桜は冷静に言葉を紡ぐ事ができそうな気になっていた。


「どういたしまして。桜ちゃんの作品、読んだら感想送るね」


「あ、ありがとう……」


 由意が自分の作品を読んでいるという事が、なんだか絵本の中に存在する架空の国の出来事のように思えて、桜は不思議な安堵感に囚われていた。


 全てを任せてしまいたくなるような暖かさが、由意にはある。凛々子りりこのように一本の大樹ではなく、衣のような柔らかさを持ったそれは、絹糸のような手触りで桜を包み込むだろう。


 絹、繭、蚕、春蚕はるご……桜はまた取り留めもない思考が湧いてくるのを感じた。一見美しく見える物の中にも、それはおぞましい何かを潜めているのかも知れないと思う。


 いや――考えてみれば、多門寺たもんじ寒原かんばらに曰く『花やか』な凛々子の作品にもどこか泥臭く、痛ましい部分は存在した。


 きっと、そこをしっかりつかみ取る事も、自分にとって大事な事なのだろう。


 桜は昔見た養蚕場の蚕のおぞましさ、桑の葉を食む無数の虫のうじゃめいている姿をノートの上に現出させた。


 そうして、桜は昼休みの間『球根』と『春蚕』という二つの構想を纏めていた。


 この二つが重要な物になる、確信があった。

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