2-7

 はるにとっては、文芸部と天文部の二足の草鞋が始まった日、一昨日の火曜日、ノートに書いた物を読み返した。大きく『球根』と書いた取り留めもない思考回路は、何かとても大切な事のように思えた。


 課題を解いている間、桜の中にもどかしいような気持ちが湧いてきて、課題が終わるとすぐにノートを開いて言葉を書いた。


[球根。地中にありながら地上に向かって茎を伸ばす物。一体、どれだけの力がそこに必要なんだろう。人間はただ漠然と過ごしていっても、命を絶たれない限り大人にはなる。花は、死んでしまう事もあるんじゃないか。人間の手で地の中に埋められて、水を浴びせられながら咲こうと藻掻いて、地中で朽ちる。あんまり悲しい。咲かせる事の難しさは僕にはまだ分からない。それはつらいの、苦しいの? それとも喜ばしいの? 土の中に声をかける僕はきっと阿呆だ]


 不思議と、自己否定感が湧かない、純粋で剽軽な皮肉が出てきた。


 桜は、それが今の自分に必要な事のように思えて、小学校の頃の記憶を元に、少しのメモ書きを作った。作品の萌芽がそこにあった。


 それから桜は文芸部の部誌を読んで、凛々子りりこの華麗なる文体に陶酔して、一日を済ませて眠った。


 翌日の木曜日、桜はいつも通りに通学した。メモ書きもノートも鞄に入れている。まだ天文部に入ったという実感が薄いからか、文芸の気分だった。


「桜」


 玄関に入る時、不意に声をかけられて、桜はびくん、肩を震わせた。


「あ……玄佳しずかちゃん……おはよう」


「おはよ。後ろつけても全然気づかなくてびっくりした」


 どうやら、駅からずっと玄佳は桜の跡をつけてきたらしい。桜は頭の中がふんわりと『球根』という物を考えるムードになっていて、気づかなかった。


「ご、ごめん……」


「ううん。つけてたの私だし。いこう」


「うん……」


 二人、一緒に靴を履き替えて校舎に上がる。


はだえに隠された感情が表に出る時は、涙なの?」


 不意に、玄佳は桜の作品を読んだような事を言った。


 いや、確かに玄佳ちゃんは僕の作品を読んでくれたんだ。僕が書いたぐちゃぐちゃの、凛々子先輩の文章に比べたら全然汚い文章でも、玄佳ちゃんはしっかりと。


 膚が隠す感情は色々だと思う。でも、肌から読み取れない感情がもしも何かの形象を伴って現れるなら……それはやっぱり、涙だと思う。


「本当は、『涙』っていう言葉を入れたかった。でも、結末に上手く入れられなかった」


 桜は、本当の事を話した。


 玄佳が立ち止まるので、桜も立ち止まる。玄佳は鞄から昨日、桜が渡した原稿用紙の束を出して、渡してきた。


「ねえ、今からなれると思う?」


「え……?」


 原稿用紙の束を両手で小さな胸に抱えて、桜は目を丸くした。


「桜のファン一号」


 ファン――自分の?


 まだ文芸部と、玄佳にしか作品を見せていない自分の、ファン一号?


 それがどういう事なのか、桜は咄嗟に理解できなかった。


 けれど、ファンなら――僕の作品が好きっていう事かな。


 それは途轍もなく嬉しくて、嬉しくて、肌が瞼が眦が、溢れる物を止められない。


 優しく、桜の左の眦に、玄佳は指を当てる。


「零れちゃったね、感情」


 嬉しくても涙が出る事を桜は知っている。けれど、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。


「うん……! ありがとう……!」


 桜は涙を拭って、玄佳にお礼を言った。


「同じ作家の作品二作読んで、二作ともドストライクって、なかなかないと思う。いこう」


「うん……」


 ドストライクって、玄佳ちゃんに言って貰えるのは、とても嬉しい。


「書くのやめないでね、桜」


「え?」


 急に、玄佳は少し表情を変えた。


 いつもの綺麗なポーカーフェイスの中に、儚さが一匙滲んでいる。その表情が何を意味するのか、桜にはよく分からない。


 ただ――とても大切な事に思えた。


 心の中で、シャッターを切る。そうすると瞼は、自然と玄佳の儚げな顔を記憶した。


 周りをいく生徒の波は早く遅く波が打つようで、その中でいつまでも立ち止まって玄佳の顔を見ているわけにはいかない。


 うっかりすると、忘れそうになる。


 だけど覚えていないと。


「あれ、どうしたの二人共」


 不意に、安らぐような声が聞こえる。二人が立ち止まっている所に、由意ゆいがきていた。


「おはよ、由意。今、私が桜のファン一号になったって話してたの」


「あー、玄佳ちゃん桜ちゃんの作品受け取ってたもんね。私も気になるなー」


 由意がきた事で、三人は自然に歩き出した。


「読んだ作品二つだけど、私はその二つの着想が生まれる瞬間に立ち会ってるからね」


「急に謎のマウント取ってくるね……桜ちゃん、私にも読ませて貰える?」


 玄佳にファンと言って貰えた事からくる酩酊に似た作用かも知れないが、この時の桜は、由意の言葉を否定する術を持たなかった。寧ろ、自分の作品を読んで欲しいと柄にもなく思っていた。


「いいよ……教室いったら渡すね」


「ありがとー」


 昨日凛々子から受け取った『白日の鵺と魔笛』も鞄の中に入っている。見せるには丁度いいかも知れない。


 桜が弾む気持ちで教室に入ると、視線を感じた。


 教室の窓側一番前の席――咲心凪えみなからだ。


 咲心凪は縞瑪瑙の瞳にとても複雑な感情を乗せて、三人を見ていた。玄佳と由意はそれに気づいているのかいないのか、ごく自然に挨拶してそれぞれ自分の席に着く。


「おはよう……」


 桜は咲心凪に挨拶して、自分の席に座って鞄から原稿用紙の束二つを取り出して、由意の方を向いた。


「由意ちゃん、これ……」


「あ、早速? ありがとね」


「ねえ。三人で一緒に登校したの? ねえ?」


 そこで、咲心凪が急に話に入ってきた。何か、差し迫った危急の問題でもあるかのような顔をしている。


「玄佳ちゃんと桜ちゃんが一緒にいて、私が合流した感じ。どうしたの?」


「天文部の活動!! 朝一で部室開けて貰ってこれ発見したんだよ!!」


 咲心凪は由意がびっくりしているのにも構わず、机から一つのノートを取り出した。桜にもその表紙の文字は見えた。


「え……『都内プラネタリウム一覧』……?」


「そうだよ桜ちゃん! 去年先輩方が都内のプラネタリウム回って纏めたノート! これはもうプラネタリウムにいけって言われてるようなもの!! 桜ちゃんプラネタリウムいった事ある!?」


 酷く興奮した様子で、咲心凪は桜に尋ねてくる。


「小学校の頃、一回だけ……でも、よく覚えてない……」


「勿体ない!!」


「咲心凪ちゃん」


 叫ぶ咲心凪の肩をつかんで、由意が窘める。どうしてか、桜にはすぐに分かった。


氷見野ひみのさん?」


「あ、西脇にしわき先生」


 担任が怒った顔で立っているからだ。


「プラネタリウムいきたいんですけど、部費から予算出ません?」


「出ませんそれより活動実績作る方を考えなさい」


「天文部がプラネタリウムいったら活動ですよ!!」


「休日の活動は顧問の同行が必要なんだけど?」


「だから西脇先生が一緒なら大丈夫って事ですよね!!」


 あまりにも強気な咲心凪の言葉に、西脇は頭を抱えた。


「急に予定作れって言われても……どこいくのか予定しっかり立ててもう一度きなさい」


「はい!! 四人で考えます!!」


 どうやら、今日の天文部の活動は決定らしい。


 桜は昔、田舎に住んでいた頃にいったプラネタリウムの暗い雰囲気を思い出していた。


 どこか楽しく、物憂い記憶を掘り返してみれば、なんだか綺麗ではない店でラーメンを食べた余録まで浮かんでくる。


 昼に計画を立てようという咲心凪の言葉に頷いて、桜は一時間目の準備を始めた。


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