2-5

 天文部の活動をどうするかについては各々考え、昼休みは咲心凪えみな以外、元の部活の調整に入るか、活動内容を考える事になった。


 由意ゆいは園芸部の先輩の所にいくと言った。玄佳しずかは図書室で調べ物をしたいと言う。咲心凪は活動計画を密かに溜めていたらしく、それを見返し始めた。


 はるはと言えば、文芸部の事は朝に済んでいるのだが、『はだえ』の末尾が気になって凛々子りりこの所に向かった。手にはノートと筆箱を持っている。渡した物は凛々子の事だからもう読み終えていてもおかしくはない。そこに一つの文章をつける事がどういう意味を持つか、桜にはよく分からなかった。ただ、その文章がなければ『膚』は完全な形にならない気がした。


 桜が三年一組の教室にくると、凛々子は教室の中で原稿用紙の束を整理していた。


「失礼します……」


 誰かが不思議そうに桜を見ている。一声かけて中に入る。凛々子は原稿用紙を見るのに夢中で気づかない。桜はどう声をかけようか迷いながら、凛々子の席の前までいった。


「す、鈴見すずみ先輩……」


 か細い声で、桜は凛々子の事を呼んだ。凛々子は剃刀色の瞳に不思議そうな色を浮かべて、桜を見上げた。いつも名前通り凛々しい美貌は、この時、可憐だった。どうしてこんなに表情によって印象が変わるのか、そしてそのどれもが美しくてたまらないのか、桜には分からない。


「どうした?」


 すぐに、凛々子はいつもの鋭利な表情に変わって、尋ねてきた。


「えっと……『膚』って、読まれましたか?」


 桜は、遠慮がちに尋ねた。これから改変を加えたら怒られるかも知れない。誰かに何かを撤回するという事はとても気が引ける。一度やった事は決して消えないと、桜は知っているから。


「読んだ。感想聞きにきたのか?」


「あ、えっと……」


 それはまだにして欲しい。その一言が出てこなかった。


「末尾……これを入れたらいいんじゃないかっていう言葉を思いついて……ご、ごめんなさい! でも、凛々子先輩に渡した後で思いついたんです!」


 言い訳がましいぞ、黙れ、そんな声が耳に直接聞こえるような、恐ろしい脅迫が桜の中に浮かんできた。いつも桜を卑屈にさせる支離滅裂の罵詈雑言は、今日も元気だった。


「そんなに謝らなくてもいいんだよ、桜」


 凛々子は、柔らかく桜を見た。


「文芸とは発見と記録の連続だ。『膚』はまだ私しか見てない。書き換えたいならいくらでもできる」


 いつも、凛々子は救いの言葉をくれる。


「あ、ありがとうございます……でも、それを鈴見先輩に相談したくて……この一文、入れてもいいでしょうか……」


 桜はノートを開いて、朝浮かんだ言葉に線を引いた所を凛々子に見せた。


[膚に包まれた神秘は、瞼の裏に正体を隠して、そっと見つけられる時を待っている]


 凛々子は原稿用紙の束から『膚』の物を取り出し、最後の一枚と桜のノートを見比べた。


 前後の文章との繋がりは大丈夫だと思う。この話の末尾として相応しいかどうか、それが分からない。凛々子先輩なら示してくれるかも知れない。


「挿入する前に考える癖はつけろ」


「は、はい!」


「この場合の『膚』の持ち主は誰だ?」


 持ち主――そこに桜は意識がいっていなかった。ただ、現われる登場人物の中の誰にもそれは存在する。当たり前の事だ。だが、末尾の一文の言葉の持ち主は――桜は、一つの可能性を思いついた。


「あの、ちょっと、原稿を……」


「ああ」


 凛々子は丁寧な手つきで、桜に原稿用紙を渡してきた。


 そこには二人の人間の肌を介しての感情の動きが書かれている。


 肌が心という神秘を隠しているならば、その神秘は勿論、自分自身にも存在するのではないか?


 自分か、相手か、別の誰かか。それを桜は自分の作品から見つけた。


 そして鉛筆を取り出し、凛々子の机の上に置いた原稿用紙に書き加える。


[僕の膚に包まれた神秘は、瞼の裏に正体を隠して、そっと見つけられる時を待っている]


 その次の行に、〈了〉の文字をつける。


 眼前にある原稿用紙が歪む。どうしてか分からない。お腹の中がぐるぐるする。悪い物は食べてないと思う。けれどこんなに視界が歪むのは――。


「どうして泣く?」


 凛々子先輩の言う通り、僕が泣いているからだ。


「なんだか、上手く自分の作品を作れてなくて、もっと書きたい事はあるのに、それをきちんと表現できない事が、悔しくて……」


 悔しい、そう、悔しいんだ。


 もっと、僕自身が見つけた事を、僕が知っている言葉で、僕の心の思う通りに書きたい。けれどそれができない。涙、その一語を入れたかったけれど、そうすると作品は傾くと分かるから、できない。


「その悔しさは、しっかりと覚えておけ。絶対に、お前の糧になる」


 凛々子の言葉はいつも強くて、その言葉に従っていけば大丈夫だという確信が湧いてくる。


「はい……!」


 桜は眼鏡を取って、涙を拭った。


「今は冷静な状態じゃないから、これ以上書き加えるな。ひとまずはこれが『今の全力』としろ。既存作四作、『夢魔』と『白日の鵺と魔笛』と『膚』……合わせて七作品ある」


 鳳天ほうてんに入ってからでも、三作品書いている。その中で上手くできているのはどれだけあるのか、桜はまだ分からない。分かる程、冷静な審美眼を持っていない。


「こっちから教室に出向くかと思ってたんだが、丁度いい。この七つ、桜の第一作品集として印刷して、部室に置こうかと思うんだが、どうだ?」


 凛々子が何を言っているのか、桜は咄嗟に分からなかった。


「僕の、作品集……」


 そんなに大層な物ではないと思う。けれど、作品を集めたものは作品集だ。確かに、凛々子が言うような事も存在する。


「恒例行事だ。毎年、一年生の中からいい物を書いた奴の作品は印刷して保存しておく。読むのは部員の自由。そこからよそに出すかは作者次第。印刷も教えたいが、今は天文部があるだろうから、私が代わりにやるって事だ」


 凛々子と出会ってから、桜は凛々子に頼りっきりな気がする。


 それでも――自分が何かを残せるなら、それは多分、桜自身が望んでいた事だ。


 なのに何故、それを上手く言葉にできないのだろう。


「お願いします……!」


 桜が頷くと、凛々子は慈しむような表情を浮かべた。


「ああ、引き受けた。タイトルはどうする?」


 桜はこの時、何故だかするりと言葉が出てきた。


「『蠢動』でお願いします」


 凛々子は、それを手帳に書き留めた。何か聞くでもなく、ただメモしている。


「天文部でやる事は決まってるのか?」


 凛々子は、今日の桜の事に話を向けた。


「まだです……今日、放課後に部室で決める事になってて、何をするかそれぞれ考える事になってるんですけど……あ、書記になりました」


「そうか……ん?」


 凛々子は頷いて、不審そうに眉を顰めた。


「書記……いや、確か四人丁度って話か」


「は、はい……」


 凛々子はどうしたのだろうか。桜は夢中で頷いたが、何かまずかったのだろうか。


「あー……文芸部の副部長、今年は桜にするかなと思ってたんだが」


「え!?」


 自分が文芸部の副部長になる?


 後継とは聞いたが、役職を伴うとは思わなかった。文芸部には二年生が二人いる。凛々子が部長として、自分はそれこそ書記でもやっていれば済む話だ。


「まあそれはおいおい考える。今は天文部の事に集中しろ。その方がいい体験ができる」


「は、はい……」


 一体、自分はどうなるのか。桜は不安だった。


 それから桜は、帰りに原稿用紙を返して貰う約束をして、凛々子と別れた。


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