1-10
ただ、
課題をこなす途中も頭の中に零れる言葉を書き留めていた。課題を終えると原稿用紙に向かってとにかく書く。
それでも土曜の午後から数えて日曜が終わるまで、時間は足りなかった。
つきのひさし『透明な場所』は本棚の中に残っていた。改めて読むと切なく苦しくなるような話で、これを隣の席の麗人の親が描いたのだと思うと、なんだか不可思議な運命じみたものを感じてしまう。
今、
考えた所で本人に軽々しく聞く事のできる問題ではない。玄佳が普段、あまり表情を変えない理由は家庭の中にあるのではないかと思う。ただ、下世話にその中を垣間見る事が桜にはできない。
書きかけの原稿用紙と、過去に書いた原稿用紙の束、そして課題と教科書とノートと筆記用具を鞄に詰めて、桜は登校した。入部届も抜かりなく鞄の中に入っている。
教室に入ると、玄佳がきているのが見えた。同じ班の
まだ、三人の中に入っていくのは躊躇いがある。
それでも。
「おはよう……」
小さな声で、桜は窓際の自分の席に着いた。
「おはよ、
「町田さんおはよう」
「おはよー町田さん」
三者三様に挨拶が返ってきて、桜はほっとした。教室の中はなんだか息苦しいが、ここは少し空気が緩やかになっている。ともするとそれは、由意が放つ穏やかな空気と咲心凪が持つ朗らかな気分を玄佳の美しさが調律した効果であったかも知れない。
「町田さん、文芸部に決めたの?」
由意が桜の方を見て尋ねてくる。
「う、うん……部長に誘われて……書き方を教えて貰える事になって……入部届、書いてきた……」
桜は鞄の中から入部届を取り出して、三人に見せた。
「ぬかった……!」
その瞬間、咲心凪が思い切り頭を抱えた。桜はびくっと肩を震わせた。
「いやこの話先週から私と町田さんはしてたよ。町田さん、土曜に言ってた絵本、見つかった?」
咲心凪は何かあるようだが、玄佳はまるで意に介さずに尋ねてくる。
「う、うん、見つけて、読んだよ……」
もっと何か、言うべき事があると思う。でも、何故だかそれが出てこない。もしかすると、月守さんがその作者の娘さんだから、遠慮してるのかも知れない。遠慮しなくてもいい? 僕一人で決める事じゃない。
「そう……土曜は話しそびれたんだけど、『宝物の在処』っていう絵本は知ってる?」
「え、それは……」
「つきのひさしの作品」
「し、知らない……」
「そっか。うちに誰も読まないのが一冊あったから、あげる」
玄佳は鞄を開けて中から包装された一冊の絵本を取り出し、桜に渡してきた。
「いいの……?」
「うん。この間のお礼」
玄佳は、自分の人差し指と人差し指で唇の端を吊り上げた。無理矢理微笑むような、お道化た悲しさがそこにあった。
「あ、ありがとう……」
お礼を言うのは寧ろ僕の方だ。月守さんが誘ってくれたから、二つの物の発想が生まれた。僕の体験からくる、感情を多く纏ったそれはまだ完全な形にはなっていないけれど、きっと『夢魔』と同じように大切な物になっていくと思う。なのに僕はまた月守さんから貰っている。それはなんだか申し訳なくなる事で……。
「ねえ町田さん……」
物凄く言いづらそうに、声を引き絞って、咲心凪が桜に声をかけた。
「な、何……?」
先程、咲心凪はぬかったと言って頭を抱えていた。一体、どうしたのだろう。桜は遅れて三人の輪に加わったので、話が分からなかった。
「兼部でいいから、天文部、入ってくれない……?」
人語を話す鳥類みたいな声で、咲心凪は実に頼みづらそうに頼んでくる。
「え、っていう事は氷見野さん……」
「部員集めが上手くいかない……」
桜の机に額をつけて、咲心凪は静かに呟いた。天文部を再始動させる為に部員を四人集めるのが、担任から咲心凪が出された条件だ。一人は咲心凪自身として、残り三人の当てがないらしい。
「えっと……」
咲心凪の力になれたらいいと思う。なれる筈がないと思う。自信と呼べない薄弱な意思が揺れる。
「今、その話してたんだよね。咲心凪ちゃん、ビラ配りとかしてたんだけど、先生から許可なくするのはやめなさいって言われちゃったみたいで……」
由意が話を補足してくれた。どうやら天文部復活への道のりは相当に厳しいらしい。文芸部は既にある部活なので、そこに入るのはさしてハードルが高くなかったのだと、桜は今更ながらに気づいた。
「名前を貸すくらいはいいんだけど、実際に活動するのが氷見野さん一人だと先生に言い訳立たないよねって話もしてた」
桜は名前を貸して、天文部が復活するならばいいかと思っていたが、玄佳が言うような問題も存在するのだと気づいた。自分は天文に関する知識は乏しく、また天文部という部活が何をするのかも知らない。そうなると実際の活動に関してはほとんど何もできないだろう。
「むぅむむむ……」
咲心凪は頭に両手を当てて、唸っている。
「氷見野さん……天文部……えっと……」
入ると言うにも、何をするのか知らないのでは上手く言えない。実際に活動に貢献できなければなんの意味もないのだから。
「とりあえず仮に私を含めて四人の名簿を作るそして活動できる時に活動してなんとか通常の部員を確保するそうすれば本格的に」
咲心凪は一人でぶつぶつ念仏を唱えだしたが、桜はその後ろに恐ろしい影を見た。玄佳と由意も気づいた。
「氷見野さん?」
担任の
「普段は幽霊でも宣伝とかする時に」
「氷見野さん」
「咲心凪ちゃん!」
怒り顔で腕を組む西脇の前で、由意が咲心凪の肩を引っ張る。
「あ、西脇先生」
「天文部の部員集めはいいけど、他の人の部活の邪魔はしないっていう約束よね?」
約束という言葉がこんなに卑劣になると、桜は初めて知った。
「いや、邪魔しようというわけじゃなくて……」
「月守さんはさっき写真部への入部届持ってきたし、文芸部の三年生から町田さんの入部届預かるように頼まれてるのよ。玉舘さんも園芸部に入部届出したし」
「あぐぁ……」
妙な唸り声をあげて、咲心凪は自分の机に顔を伏せた。
「あなた達も、名前貸すなんて軽く言うもんじゃないの。やるならしっかりどういう活動するか決めて、その上で入部しなさい。町田さんが持ってるそれは何?」
西脇は目聡く、桜がさっき玄佳から貰った包みを見ていた。
「私から町田さんへの誕生日プレゼントの絵本です」
桜が何を言う間もなく、玄佳が言い訳を立てた。桜は自分の誕生日をクラスの誰にも言っていない。もっとも、四月生まれで既に過ぎているので間違いでもない。
「ふぅん……まあ、絵本くらいなら見逃すけど、あまり大っぴらにやらないように。町田さん、入部届は?」
「あります……」
桜が入部届を渡すと、西脇は教卓に向かった。
「つ、月守さん、ありがとう……」
桜は、玄佳にお礼を言った。
「いいよそれくらい。私があげたいんだし」
パチッと両目を瞬かせる玄佳の動作がウインクだと気づくのに、桜は少しの時間を要した。
新学期が始まって、桜自身も、桜の周りも、変わりつつあった。
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