1-9

 神社がある路地を住宅街と逆方向にいって少しの所に、《あぷす》という看板がある喫茶店と甘味処が一緒になったような所があった。


 玄佳しずかは慣れているらしく中に入って声をかけて、テーブル席についた。はるは小さくなりながらその対面に座った。


 注文は、白玉餡蜜とコーヒーを一つずつ。


 霊感なるものが存在するならば、それは恐らく通り魔のように予期せぬタイミングで現われるのだろう。桜は玄佳に一言ことわって、リュックに入れていたノートを開いて、鉛筆を走らせた。


[白日。魔笛と鵺の声。口笛と竹笛が混じりあって聞こえるのは神社の境内で、その音の正体を探っても何もない。不安だけがじりじりと心を掻き毟ってその度に産毛がなくなる心は皮膚を裂いて血を滲ませた。何もない場所に何かがあるとしたらそれはきっともういなくなってしまった何かの痕跡、もしくは記号。凍てつく星座の名前を僕は知らない。氷のように青い月も、あるいはそこにあるのかも知れない。きっと、魔笛を吹く何者かと鵺が雲で隠しているから月は見つからない]


 言葉の奔流を書き留める。玄佳は届いた餡蜜に手をつけるでもなく、コーヒーを一口、舐めるように飲んで、桜の手の動きを見ている。


 物語と呼ぶにはなんだか心許ない。小説なんて花やかな言葉は当てはまらない。もっとドロドロしていて、爛れた言葉の群れを吐き出して、ジグソーパズルを埋めるように当てはめていく。それでいいのか分からない。けれどそれしかできない。


[鵺の魔笛は誰かを連れていった]そこまで書いた所で、桜の頭の中に流れ続けていた奇妙な言葉の奔流は止まった。


「コーヒー冷めちゃうよ」


「あ……」


 玄佳に声をかけられて、桜はカップを両手で持った。


「頂きます」


 その間に、玄佳は手を合わせて言って、餡蜜に手を伸ばした。


「頂きます……ごめんなさい……」


「ん? 何が?」


 餡蜜を一匙掬って口に運んだ玄佳は、何を謝られているのか分からないような顔で尋ねた。


「せっかく誘ってくれたのに、ずっとノートに齧りついて……」


「別に気にしないよ。教室でもそうしてるけど、私、町田まちださんが何か書いてるの見るの好きだし」


「え……」


 桜は、自分の頬が僅かに紅潮している事を自覚しなかった。頬を赤くする経験はいつも息苦しかったが、今日はとても心地よくて、顔に感じる熱をぬくもりと解釈してしまった。


「何かに熱中するのって羨ましいって、前言った通り」


 確かに、玄佳にそんな事を言われた。


 もっとも、桜が熱中するのはそうしていないとむずがゆくてたまらないからであって、決して何か、明確な目的があってしているわけではない。だから、玄佳の評価を素直に受け取る事を躊躇ってしまう。


「……こんな風に言葉ばっかり溜めていって、それが何になるのかも分からないけれど……でも、そうしないと落ち着かないから、書いてる」


 桜は、正直に打ち明けた。


 いつも僕は何かに追われている。後ろをついてくるそれは巨大で恐ろしく、怖い。捕まったら僕はそいつに食べられて、何もなくなって消えてしまうんだ。


「でも、町田さんの作品を褒めてくれる人が文芸部にはいるんでしょ?」


「う、うん……」


「なら、形にしていけばいいんじゃないかな。って、無責任に言うのはなしか。ごめん、ちょっと書いた物が見えたんだけど、町田さんって――」


 何か、否定的な言葉が出てくる?


 桜は、心臓がバクンと強く脈打つのを感じた。


「お父さんの絵本を読んだ事ある?」


 けれど、玄佳から出てきたのは全然違う言葉だった。


「え……絵本?」


「つきのひさしの『透明な場所』っていう絵本。そこに『凍てつく星座』っていう言葉が出てくるの」


「あっ……」


 不意に、記憶の扉が開く。


 幼い頃に好きだった絵本作家『つきのひさし』が描いた絵本『透明な場所』に、桜が思い浮かべた言葉が出てくる。そこには、玄佳が言っていたような『透明な場所はどんな所か』も、書いてあった。桜にとってはとてもお気に入りの絵本で、何度も読み返した。


 ピンクのワニ、エメラルドのブローチ、白いシーツ、そんな言葉も思い返せば書いてあった物に思う。


「あの絵本、月守つきもりさんのお父さんが描いたの?」


 知っている――そして、目の前の人の父がそれを描いた?


 だとしたら、一度会ってみたい。そんな気持ちが湧いてくる。


「うん。『透明な場所』を描き終わった後、お父さんは病気で死んだ」


「え……」


 幼気は呆気なく大人気に踏み躙られて、桜は言葉を失った。


「透明な場所は、お父さんが一生をかけて見つけた物だって聞いた事がある。みんながそこにいくんだって。そこではみんなが待っているって。私は、その場所を見つけてみたい」


 コーヒーに角砂糖を入れてかき混ぜる玄佳の所作は手慣れていて、何度もここでコーヒーを飲んでいる事を窺わせた。


 悲しいようではなかった。玄佳の顔には憂いが浮かんでいる。物思いに沈む人間が、どうしてここまで美しさを保てるのか桜には分からない。ただ、そこには何か、桜が安易に触れてはならない大切な感情が潜んでいるように思えて、桜は蛇の前の蛙になっていた。


「きっと私もそこにいくんだって思う」


 出てきた言葉は、咄嗟に噛み砕けもしなければ飲み込めもしなかった。


「だから、どんな場所で今、お父さんが生きているのか知りたい」


 透明な場所で、生きている。


 不思議な言い回しだけれど、確かにそうなのかも知れない。


「……ごめんなさい」


「謝らないでよ。私が虐めてるみたいじゃん」


 すげなくされると、ますます情けなくなる。言い訳なんてできない。ただ、月守さんの中にある大きな感情に初めて触れて、僕はどうすればいいのか分からないなりに、どうにかしたいと感じた。


 また、言葉が頭の中に湧き上がってくる。今日は二度も間欠泉が湧いた。


 物憂げに窓の外を見るその窓に薄く映った月守さんの顔の皮膚、はだえ、魔笛、鵺、断片的な言葉は僕を混迷に落とし込んでいく。


「……月守さん」


「ん?」


 どうして月守さんは、そんなに優しい顔ができるの?


 とても痛ましい穏やかさを浮かべて。


「帰ったら、絵本、探してみる……もう一度読んで、僕も『透明な場所』探してみたいから」


 慰めなんかじゃない。ただ、野放図に生きている僕がどうしたいかの我儘の表明でしかない。それでも優しく僕を見ている月守さんのその膚の裏にどんな心があるの?


「うん、ありがとう。一人でずっと考えるには、ちょっと重くて」


 玄佳は伸びをして、餡蜜を食べた。


 桜はテーブルの隅に置いていたノートを取って、以下のように書いた。


『一、白日の鵺と魔笛

 二、膚』


 短い覚書だけだった。大きく書いたので玄佳にも見える。


「町田さん……何か思いついたの?」


 いつも表情の動きに乏しい玄佳は珍しく目を丸くして、桜に尋ねた。


「思いついた……違う。僕が知ってる言葉の中から、僕が書きたい物を見つけた……上手く言えないけど、この二つは書くと思う」


 桜が不器用に答えると、玄佳は静かに唇の端を上げた。


「着想を得るのに手伝ったって事で、私も読ませて貰えない?」


 それはきっと、いつかは聞かれる事なんだと思う。


 その時にどう答えようかは考えていたけれど、僕が出せる答えなんて最初から一つしかなくて。


「うん、いいよ」


 不器用に、唇の端を吊り上げながら、精一杯無理をする。


 どこか悲しそうな月守さんの慰みになれば、どんなに報われるか知れない。


 二人は少し世間話をしてから、別れた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る