1-7

 鳳天ほうてん学園中等部の一年生が部活動を決めるには四月から五月の連休後までの猶予がある。


 はる凛々子りりこに『夢魔』を渡したこの日も、その猶予の中にあった。


 部室棟の位置は咲心凪えみなに聞いて、一階西側に教室からいくなら、道筋まで聞いた。桜は咲心凪にぺこぺこお辞儀して、目的の文芸部部室まで歩き出した。


 文芸部に誘われた事に加えて、玄佳しずかとの約束ができた。


 玄佳は週末に会おうと言ってきた。桜は玄佳程、街を知っているわけではないから、その事を拙く伝えた。すると玄佳は自分が電車に乗る駅の、西口にと指定してきた。それくらいならば、桜にも分かる。


 そちらは楽しみにしながら、桜は咲心凪に教わった通りの道順で部室棟に向かい、文芸部の表示がある部屋を見つけた。


 ノックする前に、深呼吸して息を落ち着ける。


 凛々子先輩にこいと言われたんだから、何も怖くない筈なのに、怖いのはどうして?


 ううん、分かってる。


 またあの時みたいに、書いたものを『下手糞』と怒られるんじゃないか。


 そんな気分があって、心は卒然と沈んだ。


 コツ……コツ……ノックの音は、中の人に聞こえるか分からないくらいに、小さかった。


 それでも、桜が必死に発信した彼女の存在は、気づいて貰えた。


 ガラッと扉が開き、美しさに一切の影が差さない顔が桜を見下ろす。


「きたか。入れ」


「はい……」


 原稿を渡した時とは裏腹に、今は不安で自信がなくて仕方ない。


 部屋の中には机が幾つか合体して置かれ、椅子が用意されているスペースがあり、入って右手には本棚が幾つも並んでいる。一番奥の上座に《部長席》と表示があり、凛々子は躊躇う事なくそこに座った。その左右に、二年生のリボンタイを結んだ人物が二人いる。他には誰もいないようだった。


 凛々子から見て左にいる人物が、原稿用紙を部長席に置く。


 あれは――自分が凛々子に渡した物だ。


 文芸部の話題になってるのかな……見た感じ、僕以外に一年生がいない。という事は、当然、一年生の作品は注目される。


 早まった事をした……凛々子先輩に見せた事はいいけれど、そこでどうして『他の人には見せないでください』と言えなかったのか。


 桜は泣きそうな顔で俯いた。


「今年文芸部にきた一年は、桜で最初だ。悪かったな、勝手にこいつらに見せて。多門寺たもんじ、桜に飲み物」


「はい」


 眼鏡をかけた二年生が、桜に飲み物が入った袋を持ってくる。


「えっと……」


「二年の多門寺冬音ふゆね。好きなの選んで」


「あ、ありがとうございます……」


 アップルティーを、桜は選んだ。なんだか申し訳なくて、貰ってもストローをさせない。凛々子は緑茶のボトルを傾けている。


「あ、私はもんちゃんと一緒で二年の寒原かんばら紗雪さゆき。凛々子さまから町田まちださんの事は聞いてるよ。作品読んだ方がいいって言うから読んだけど……」


 もう一人、頭の後ろに白いリボンを結んだ二年生が困惑したように桜を見る。多門寺も席に戻って、愛想笑いを浮かべている。


「難しい物書くんだね。でも大丈夫、私達も凛々子さまのご指導で勉強中だから」


「うん、最初はみんな素人だから。やり方ゆっくり覚えればいいよ」


 はっきり言わないだけで、不評。桜は眦が湿気っていくのを感じた。


「私達も? 素人?」


 凛々子の言葉で、桜達三人の視線が彼女に向く。凛々子は扇子を畳んだ。


「軽佻! 不遜!」


 扇子を手に叩きつけ、凛々子は二年生二人を睨みつけた。


「てめえらと桜を同列に扱うな。糞も味噌も一緒にするたぁこの事だ。桜が城の奥に住まうお姫様だとしたら、てめえらは精々が門衛程度の物だ。桜の作品には明確な世界がある。の感情がある。粗削りではあるが小説の基礎もできている。何より読んだもの、体験した事を嚙み砕いて己の世界に入れる事ができている。誰かの真似に収まっているてめえらなんぞ、桜に比べればゴミ滓だ。いいか」


 二人共、凛々子の強烈な視線に慄いて、震え上がった。


 褒められている……? 桜は、目の前で圧倒的に強い言葉を使う凛々子を見ながら、何が起きているのかを審議していた。


「鳳天文芸部中等部の神が私としたならば桜はその御遣いたる最上位の天使、てめえらは地獄の底で誰かの糞を舐めて糊口を凌いでいる亡者その一その二だ」


 一体、どれだけの経験を積めばこれだけ強い言葉が出てくるのだろう。


 桜は、凛々子が自分に抱いている印象や、作品に対する評価よりも、糞だの門衛だのゴミ滓だの亡者その一その二だの言われて泣きそうになっている二人への心配の方が前に出た。


「これから一年がくるかも知れんが、恐らく桜に匹敵する実力の持ち主は現れない。桜、お前の作品は幻想的で粗削りだが、それは気にする事じゃない。お前の作品はたまらなく人を惹きつける世界がある。天地あめつちの匂いをお前は作品に纏わせられる。それは他の誰も、生み出せないお前だけの物だ。お前が言う『心の声』を形にしたものがこれならば、お前の心は小説という世界でとんでもなく強烈で、凶悪な武器になる。桜」


 凛々子は立ち上がり、ゆっくり桜の座っている下座にきた。


「技法は幾らでも教えてやれる。そうやってお前だけの物語を紡いでいけば、お前はきっと自分の心が何を叫んでいるのかをしっかり聞き取れる。私の後継になるなら、この手を取れ」


 差し出された右手には何も乗っていなかったが、そこには強い確信があった。


 どうして確信がなければ世界が存在しないと言われるのか、桜にはその手がかりがつかめるような気がした。


 何もかも分かるなんて大言壮語は、吐けない。


 でも、凛々子先輩の手を取れば、今の僕の心、そこに付きまとう影も、正体が分かるんじゃないか。


 今まで、こんなに誰かから信頼された事があったか?


 不意に心に楔を打つ、自分の中にいる黒い何かの声が聞こえる。


 安易に人を信じて裏切られて、騙され罵られ打たれて泣いて。


 そんな過去を幾つも持っているから、手は震えた。


 けれど、この人なら――。


 桜は思い切って、凛々子の手を取った。


 騙されてもいい。罵られるのにはもう慣れた。凛々子に打たれるなら本望だ。涙は、きっと甘やかな味がする。


「町田桜、文芸部入部おめでとう」


 凛々子は桜を立たせ、思い切りその細く小さい体を抱き締めた。


 桜はその胸の中で、ポロポロ涙を零していた。自分が迷っていた事が阿呆らしくなってくる。文芸部は、こんなにも暖かく自分を迎えてくれた。


 きっと、魘されながら汗をかいて、進み続ける事が約束された。


 楽になる日はこないんだろうな。


 でも、ここに少しでもいられたら、僕はもっと僕になれる。


 だから。


「ありがとうございます……」


 お礼を言った。


 凛々子は桜から体を離し、さっき多門寺が渡したアップルティーのストローをさした。


「飲みな」


「はい」


 桜は受け取って、少し飲む。凛々子は自分の席に戻っていく。


「多門寺、寒原、私の隣に桜の席を作る。お前らはその次だ」


「え、はい」


「は、はい……」


「桜、他に何か、自分で書いた纏まった物はあるか?」


 凛々子は二年生二人を御しつつ、桜に尋ねる。


「……小学校の頃と、春休みに書いた、自信がない物なら少し……」


「来週持ってこい。私はお前の物語が読みたくて仕方ない」


 ここまで強く自分を欲してくれる存在が身近になった事が嬉しくて、桜は涙を禁じえなかった。


「はい……!」


 桜は、文芸部に居場所を作る事を決めた。


 帰ったら、机にしまってある原稿用紙の束を整理しようと決めた。



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