1-6
三年一組……教室の配置を考えて、昼休みに、
迷っているのは、僕だけ?
廊下の隅を目立たないように歩く僕の姿は鼠のようで、お尻から尻尾が生えていてもおかしくない。きっと不潔に見えるだろう。今朝はシャワーを浴びる間もなく、汗まみれの体を拭いただけだったから。
とめどない自己否定は、いつしか桜の日課になっていた。いつからかは分からない。ただ、自分は人より劣っているから、一端に人間面するなと、誰かの顔をした閻魔様が怒る。
この心の声はなんだろう。
分からない……ただ、とんでもなく大事な事のような気がする。
桜は鬱屈する心を抱えながら、三年一組の教室の前にきた。
扉は開いている。こっそりと中を覗く。
その姿はまるで彫像のようで、ページを繰る手がどうして動いているのか不思議なくらいだった。
「うちのクラスに用事?」
不意に、先輩から声をかけられて、桜はびくっと肩を震わせた。
「あの……鈴見凛々子先輩に、会いたくて……」
呼吸が詰まる。ほんの一言の用件がとんでもなく言いづらい。自分と言う鼠が美の暴力的化身に声をかけるなど、下働きの老爺が姫様に恋するように、重荷を背負う事だ。
「あー、それなら自分でいって。入っていいよ」
「あ、ありがとうございます……」
名前も知らない先輩にぺこり、お辞儀して、桜は中に入った。
凛々子先輩の事をなんて呼べばいいんだろう? いきなり名前で呼ぶのは馴れ馴れしい。鈴見先輩だろうか。鈴見先輩。口馴染みがないけど、鈴見先輩って呼ぼう。
言葉が出るのは、いつも遅くて。
「桜か」
桜が声をかける前に、凛々子は声をかけてきた。美貌が持つ鋭い視線は、桜が持っている原稿用紙の束を見ている。
「あの……僕なりに、物語? 小説? とにかく、心の声を書いて、形にしてきました……」
丁寧に、赤い糸を信じて恋文でも渡すかのように、桜は凛々子に原稿用紙の束を渡す。凛々子は両手でそれを受け取った。彼女は手までもが美しい。
「早かったな。無理もさせたみたいだ」
「え……」
「目の下の隈」
「あ……」
やっぱり、すぐに分かるのだ。桜は目元を手で隠して、赤くなった。
クラスにいても感じていた。みんな綺麗なのに、僕は目の下に隈なんて作っている。綺麗になりたい。でも、僕には無理だろう。どうやっても、この手は汚れているから。
「ふぅん……『夢魔』か」
凛々子はタイトルを読んで、面白そうな顔をした。
「読んでたら昼休み終わっちまうな。悪い、桜。放課後って時間あるか?」
「あ、あります!」
自分でも驚く程、大きな声が出た。三年一組の視線が、桜に集まる。
あの一年生誰? 鈴見さんの知り合い? そんな囁きが聞こえて、桜は心臓を貫かれるような恐ろしい感覚に襲われた。
「騒ぎ立てる有象無象を相手にするな」
凛、鈴が鳴るように、凛々子の声が桜の思考を止める。
「時間あるなら文芸部の部室にこい。それまでには読んでおく」
「え……」
凛々子先輩が文芸部なの? 三年生っていう事は、部長だったり……?
聞きたい事が色々出てきた。けれど、言葉はいつも出てこなくて、できる事はただ頷く事だけだった。
「場所、分かるか?」
首を横に振る。
今の桜には、それだけでも随分力を使う作業だった。
「部室棟一階に表示がある。入って西側から回ればすぐだから、分かるだろ。他の部員もいるだろうが、お前は私が歓待する」
歓待する――そんな言葉をかけて貰って、いいんだろうか。
自分みたいなちっぽけな存在に。
でも。きっと。
「ありがとうございます」
お辞儀したその心が、本心という物なんだろう。
涙が滲みそうになって、僕は慌てて顔を上げた。お辞儀したままだと、万有引力に任せて、僕の目から涙が溢れそて、教室の床に汚い染みを作るだろう。
凛々子先輩は、にこりと笑っていた。
「そんなに悲しい顔をするな。お前の心が少しでも吐き出されたなら、それは喜ばしい事だ」
本当に、凛々子先輩は出会った事がないタイプ――ううん、
不安はどこかに消えた。
ううん、凛々子先輩の笑顔が綿のように吸い取ってくれた。
「じゃ、もういきな。また放課後にな」
「はい!」
大きな声を出しても、許されるような気がした。
母親の前にいても感じない安らぎに包まれて、桜は三年一組の教室を出た。
きた時よりも足取りが軽く、一年五組の教室に戻る。
次の授業は体育だ。桜は運動着を取り出して、着替えだした。
「……町田さん、何かいい事あった?」
隣の席で本を読んでいた玄佳が、声をかけてきた。
「あ……うん。この前声をかけてくれた人、文芸部の人で、会いにいったら、文芸部の部室にこいって……」
玄佳のポーカーフェイスが、にこりと、まるで慣れ親しんだ所作であるように細められた。形のいい唇の端が上を向き、とても美しい表情を作った。
「よかったね。これで、文芸部にいく口実はできたでしょ」
何故だろう、文芸部の事は僕の問題なのに、月守さんはまるで自分の事のように喜んでくれている。
でも、それは嫌な気分を呼ぶ物では全然なくて、寧ろ頼もしい気持ちになるものだった。
「ありがとう……」
声は小さかったが、確かに桜は笑っていた。
「町田さんが笑ってるの、初めて見た。ねえ」
玄佳は本を閉じて、机の中にしまって、立ち上がって体操着を取った。
「ちょっと、週末出かけたいんだけど、一緒にいかない?」
「え……」
面食らう話だった。
玄佳と一緒に出掛ける? そんな事をしていいんだろうか。まだそんなに話している方でもないのに。
ううん、友達でも――揺らぐ、トラウマが疼く。
「町田さん、家の方向は一緒だし、そんなに時間かからないかなって」
トラウマが、屍の臭いを伴って桜の足をつかむ。記憶の中に存在する、自分を突き飛ばした屍の記憶がある。
もう自分は中学生で、友達と遊ぶ事くらい、誰かに何か言われる事じゃない。まして、月守さんは、しっかりした人なんだから。
「町田さん?」
心配させてしまっただろうか。
「ううん、なんでもない。どこにいくの?」
「透明な場所を探しに」
小説のタイトルのような事を言われた。
「透明な場所……」
「うん」
薄く目を細めて、唇の端が上がる表情。笑顔と呼ぶには儚過ぎるそれは、何故だか桜を惹きつけてやまなかった。
「あるの?」
「あるかないか、探しにいくんだよ」
黒いブレザーを脱いで、玄佳は綺麗に畳んだ。
凄く、気になる。
透明な場所――どこかで聞いた事がある。一種、楽園の幻想のような物を伴って記憶の砂漠に点在している。散らばった言葉が流れていく。
ピンクのワニ、陽だまりの中の泉、白いシーツ、エメラルドのブローチ、小鳥の尾羽、かたつむりとアンブレラ、凍てつく星座……不思議な言葉が桜の心に飛来した。
「うん……いく」
「じゃあ、後で連絡先教えるね」
「ありがとう」
自分でも、穏やかな顔はできるんだ。
入学式の失敗も、文芸部に入るかどうかの懊悩も消え去りつつある。前が眩しい。眩しさは――不意にくる、暗い夜の記憶。
忘れられたらいいのに。
桜は体操服に着替えて、玄佳と一緒に校庭に移動した。
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