1-5
現実で打ちのめされて傷ついて転んで擦り剝いて泣きながら砂を噛んで赤い手で立ち上がってカンカン照りの日差しの中を歩いていく……そしてそれを何度も何度も繰り返して、疲れ果てて行き倒れて、眠るように泥のように魘されながら気を失ってそのまま二度と目覚める事はない。
近頃、春になったばかりでも随分暑い季節が続く。
物凄い汗だ。今日は……学校がある。新学期は始まったばかり。休むわけにも遅刻するわけにもいかない。
時間はまだ余裕があった。本音を言えば冷たいシャワーを浴びたかったが、そこまでする余裕はない。発汗で手触りが気持ち悪いパジャマを脱いで、下着も外して、タオルで体を拭く。
新しい下着をつけて、そのまま制服に袖を通す。
学校の準備――考えて、桜は机の上に視線を送った。
書き上げた『夢魔』の原稿用紙がある。ほんの二十枚の短編だが、これを書いたから魘されたのか。
桜はまだ使っていないクリアファイルにその原稿用紙の束を入れた。ステープラーで綴じられるか分からない。思い直して一度外に出して、パンチで穴を開けて、軽く紐を通す。そしてクリアファイルに戻して、鞄に入れた。
誰かが僕の作品を読みたいと思うわけがないと思う。僕なんて路傍の石で、意志薄弱な豆もやしだ。しかも、栄養価もなければ味も悪い。
それでも――あの人は『形になったなら』と言ってくれた。
正直、怖いけど、形になっているのかも分からないけれど、でも、でも……?
桜の脳は急速に糖分を欲した。昨日は夕飯を早めに切り上げて『夢魔』を書いていた。追い打ちのコーヒーも効いた。
寝不足に空腹、どちらも堪える。喉も乾いている。桜は鞄の中を確認して、ダイニングにいった。昨日の夕飯の残りと、白米と味噌汁があった。親はいない。コップを取り出して、冷蔵庫の中にあった麦茶を飲んだ。
母親は家の中にいないではない。何かしている。父は家を離れて仕事している。母も働いているから、桜に構っている暇はないのだろう。
桜は空腹に任せてガツガツと食事を終えて、少し落ち着いた気持ちで洗い物を済ませた。洗濯物を出して、歯を磨いて、顔を洗って、ようやく、家を出る。
左手首に巻いた腕時計は間に合う時間だと示していた。
人並みの中を歩く事は、いつも桜に苦痛をもたらす。
鞄を背負って、少し急ぎ足で駅までの道のりを歩く。その間にすれ違う、追い抜かれる、人の群れは無口で、不愛想で、無関心で、その癖邪魔そうな視線を向けてくる。中には話をしている人もいる。よく聞き取れない声はいつも通り魔のように怖い。
日差しがナイフのように桜の小さな背中を切り裂く。足音の鞭で体中を叩かれても、可愛くない桜に玉は吐けない。人を恐れない鴉が雑踏の中にいるのをそっと避ける。
きっと、あの鴉は日に当たるのに疲れた、老いた鴉で、巣に帰る途中で力尽きて落ちるんだ。
何故だか空想が空回りする。ICカードをタッチしてホームに立つと折よく電車がきて、窮屈な車内に立ち尽くす作業が始まる。
誰かと誰かの呼吸が混じりあった空間は、とても人間的で、社会の臭いがする。生臭い。
桜は今でも子どもだが、もっと幼かった頃は自分が電車で中学校に通うなど想像もしていなかった。もっと田舎で、一クラス五人程度の小さな学校で育った。家も今とは比べられないみすぼらしい一軒家で、台風の度に桜は家が崩れないか怯えていた。
幼少期に田舎を体験すると強い子に育つ――何か、そんな事を言っていた人が身近にいた気がする。けれど、桜が体験したのはトラウマの原体験でしかなかった。
三年一組の、
それが今日の目標だ。他の事を考えられる余裕は桜にない。
鳳天近くの駅で桜が電車を降りた時、同じホームで視線を感じた。
「
声をかけられて、気づく。
隙のない美貌がそこにクッキリと立っていた。長い黒髪はホームの風に乱れる事もなく美しく流れている。
「お、おはよう、月守さん……」
相手はメデューサではないというのに、視線を合わせるのが恐ろしい。それでも桜が玄佳の視線に自分の視線を合わせられたのは、物語を紡ぐ者が一つの仕事を終えた後に感じる静かな昂揚感の助けがあったからだろう。
「電車同じだったんだね。いこう」
「う、うん……」
麗人の横で縮こまりながら歩いているとつらい言葉を思い出す。
「町田さん、部活見学どこかいった?」
声をかけられると、咄嗟に切り返せない自分が情けなくなる。
「えっと……いってない……」
「帰宅部にするの?」
「……分からない。文芸部、いってみたいけど、それより大事な事があるから、いってなかった」
「大事な事? 聞いてもいい?」
表情の変化に乏しい玄佳にしては珍しく分かりやすく、不思議そうな顔をした。
「……小説なのか、なんなのか、分からないけど、物語を書いてた……」
隠す事でもない。読ませて、と言われると話は変わるが、書いている事自体を隠すつもりは桜にない。
「それって文芸部でする事じゃないの?」
どう返せばいいのか、桜は見当もつかなかった。
確かに、小説を書いているならばそれは文芸部の活動と言える。なのに桜は文芸部の部室がどこにあるのかも知らない。
入りたいとは思う。誰からも望まれないと思う。逡巡する心をどうすればいいのか分からない。
「課題テストの日……」
中庭でノートを書いてたら、知らない人に声をかけられたの。
三年生の人だった。
書いていたものはただ僕が思ってる事の書き散らしだった。
心の声を書いているような物だって言ったら、先輩が『お前の心の声が形になったら』って、自分の名前とクラスを教えてくれた。
「形にしなきゃと思って、その先輩と会ってから、思った事、沢山書き留めて、とにかく話になるように切り貼りして、なんとか短編になった……」
「ひょっとして、それ書いてたから目の下に隈できてるの?」
校門の前まで続く話の終わりで、桜は自分の目元に手をやった。
目立つだろうな、いや誰も自分の些細な変化には気づかないか、軽く考えていた。改めて指摘されると、とても恥ずかしい。
「……寝る時間削ってたから」
凡そ『汚れ』に属す何も存在しない清潔さの中に身を置く玄佳の隣にいる事がとんでもない大罪に思えてくる。
「羨ましいな」
月守さんから出てきた言葉を、僕は咄嗟に理解できなかった。
無理して背伸びして夜更かしして、最後なんかふらふらで、なんとかベッドに入っておねしょでもしたみたいに汗まみれになるような思いをして何かを作る事が、羨ましいの?
情けないと、僕は思っているのに。
「それだけ熱中できるって、一つの才能だと思う」
靴を履き替える途中で、月守さんは僕の顔を覗き込んだ。
「私にはそういうものがないから、羨ましい。これ本心ね。顔に出ない質だけど」
そんな風に言って貰えた事は初めてで、嬉しいのか、申し訳ないのか、照れ臭いのか、恥ずかしいのか、僕は自分の感情を一つに選べなくなった。
でも――クマを目の下に二匹飼う甲斐はあったのかな。
「ありがとう……」
玄佳にお礼を言って、桜は一緒に教室まで歩いていった。
張り詰めていた物が解けて、眠気がどっと襲ってくる。玄佳がそれを早めに見抜いてくれて、桜は一時間目を保健室で過ごした。
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