1-4
スポーツテストに自信がある
翌日に行なわれた、
テストは一日かける。
給食の後の昼休みは、みんな机に齧りついて復習に励んでいる。
まるで受験会場のような胃の痛くなる光景から逃げる為に、桜はノートを持って教室を出て、よく晴れた外に出た。広い校舎の中はまだ分からない所ばかりで、桜は中庭(と呼べば間違ってはいない)に出て、ベンチに腰掛けてノートを開いた。
テストが終わった後は、部活の勧誘が始まる。それは多くの生徒にとって喜ばしい物であるだろうに、桜にとってはとても憂鬱な事に思えた。かなしい気持ちが湧いてくるのはどうしてか。桜前線が去ってしまったからと言うには少々醜い感情だった。
[テスト用紙を白紙のまま紙飛行機の形に折って、教室の窓から外に飛ばす。悪戯か、先生への反抗か、そんな物には見られたくない。薊の花の花弁を全部千切って惨めに残った茎を捨てるように意味のない事で、反抗よりも野放図で、叛逆よりも切ないものがそこにある。好き、嫌い、好き、嫌い、花弁をむしりながら自分の恋を占うのに、どうしてうつくしさをその汚い手で蹂躙できるのか。幼気な残虐はまだ鏡に映るのか? 無花果の香りは覚えているけれど、どうしてそんな事も思い出せないでいるんだろう]
とめどない思考回路をひたすら文字に起こしていく事は、趣味と呼ぶには歪すぎる桜の日課だった。
春は、どこか魔物の気配を感じさせる。
だからきっと、桜は自分の真後ろからノートを覗く影に気づかなかったのだろう。
「パンクロック……とも違うな」
聞こえたのは、少し硬い、凛々しい声だった。
びくりと肩を弾ませて、桜はノートを閉じて縮こまった。
「ごめんなさい……!」
テストの合間にこんな事をしている僕を叱りにきた誰かだ。その文字の通り、七つの口から十二の赤い舌を出した恐ろしい姿が幻でも、恐怖は魔物のように僕を飲み込んでいく。
「何を謝る。謝るのはこっちだ」
誰だろう。目を閉じていては分からない。ううん、目を開いても分からないと思う。聞いた事のない声で、大人っぽい。クラスの中で聞いた事のない声だ。先生? 先輩? でも、誰もいないと思ってここにきたのに……。
「悪いね、ノート勝手に見ちまって」
恐怖は常に桜の小さい体を針の筵のように包んでいる。
日光が眩しくて目を閉じるのか、それとも暗闇に身を委ねたくて目を閉じるのか、そこに共通する事は『目を開いて見えるものを消し去りたい』幼稚な願望に過ぎない。
泣きそうな心を抱えて、桜は目を開いた。
目立つのは、細長い体を包む制服の着こなしだった。
身長は恐らく一六〇を大きく超え、四捨五入すれば一七〇に届くくらいある。脚が長いが、下半身は制服の規定を超えて長いスカートに包まっていて見えない。ブレザーは着ておらず、ブラウスの上にカーディガンを羽織っていた。袖は通していない。
春だというのに扇子を持っている彼女の顔立ちは大人っぽく、だらしなく結んだリボンタイの色は三年生である事を示している。
顔立ちは整っていて、目つきが鋭い。剃刀色の瞳は迫力があり、臆病な桜はそれだけで竦んでしまいそうになる。唇の形、鼻の高さ、頬のシュッとした線、全てが持てる者だった。
亜麻色の長い髪の毛を中央で綺麗に分けて額を見せている。お下げにした髪の毛は左肩から垂れていた。
美の暴力が眼前に現れた――こんなにも鋭利で、恐ろしく、同じ空間に存在する全てを隷属させる暴力的美が存在していいのか?
桜は考えるだけで泣きそうになった。
「そのノートは書き散らしの為の物か?」
名も知らない麗人は、扇子を向けて尋ねてくる。
「これは……ただ、頭の中にある物を吐き出す為の物で、書き散らしかも知れないけれど、なんにもならない、僕がただそうしないと落ち着かないからつけているものです……」
例えば殷王朝の妲己はこのような美であったかも知れない。目の前の現実から逃げる思考が突拍子もない事を考え始める。
揺らぐ、揺らぐ気持ちは頼りなくふらついて、けれど何故か倒れもしないし、吹き飛ばされもしない。
「その中に自分を閉じ込めていくだけでいいのか?」
「僕は……分からないんです」
「分からないのはどうしてだ?」
「自分の心に聞いても、自分の心の声が小さ過ぎて、僕の所まで届かないんです」
「ほう……」
麗人は脚を開いて、桜の隣に座った。扇子を開いて、考えるように口元を隠す。
桜は今すぐ教室に帰りたかった。圧倒される程の美は不吉を運ぶと言うが、この麗人はそんな怖さを伴って見えた。まさか月から下りてきた人だとは思わない。それにしては妙にどっしり構えている。
「お前、名前は?」
びくり、桜の肩が揺れる。
「
どうしてそんなに自信がないの。
不機嫌そうな声が記憶の中で反響する。通り魔に遭ったように脈絡がないトラウマの強襲は、白日に照らされる体に焦燥感をもたらした。喉がガラガラに乾いていく。唾を飲み込もうとして窒息しそうになる。鼓動が早鐘に鳴る。
心の声を掻き消すよく知っている誰かの罵声が、カンカンと踏切の音のように絶え間なく続く。電車が通り過ぎないと、音は鳴りやまない。
「桜」
凛、鈴が鳴ったのが合図であるかのように、声が、踏切の音がやむ。
「お前の心の声はきっと物凄いものを生み出せる」
桜が恐怖の蜘蛛の巣でもがいている間に、麗人は立ち上がって、ニッカリ笑っていた。
何も怖い物などない。その人は体全体で叫んでいるみたいに見えた。
僕の心が何かを生み出す? 絵空事で騙さないで欲しい。僕自身に聞こえもしないもので何かを生み出せるなら、それは多分、出鱈目に色を塗ったカンバス、色彩だけは豊かで形が整っていない毛糸の玉、壁に投げつけたトマトの残骸だろう。
でも。
その言葉を信じる事は、どうしてこんなに魅力的なんだろう?
「今はきっと、上手く心の声を聞けないんだろうな」
そう……なのかな?
心が小さく呻いているから分からないんじゃないの?
耳を澄ませば、聞こえる事もあるの?
聞きたい、けれど、僕の心は僕の物で、この人の物じゃない。
「その声が形になったなら、三年一組、
どうして、背中を向けるの?
置いていかないで欲しいと感じて差し伸べた桜の腕は短すぎて届かず、声はどうしても形にならなかった。
あの背中を追いかけたい。細いけれど、大きな背中。
「どんなに醜くとも儚くとも、私は桜の声を聞いてみたい。そこにあるものが音だろうがインクの染みだろうが液晶の表示だろうが構わん」
待って、反響したのは、口の中なのか、頭の中なのか。
「近い内に、聞けるだろうけどな。もう教室戻りな。一年でテストサボりはまずいぞ」
警告だけ残して、彼女は去っていった。
三年一組、鈴見凛々子――桜は、しっかりその名前を記憶した。
きっとあの人は、肉体を持って悪夢より凄惨で、幻想よりも甘美な非現実を運びにきた夢魔の化身なんだ。
桜はノートのページをめくって、大きく『夢魔』と書いた。
きっとずっと、魘されていく。
楽になる日なんてこない。
それでも夢魔に抱かれる。
三行書いて、桜は駆け足で教室に戻った。
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