1-3

 身体測定での話の後、咲心凪えみなはるが部活を決めあぐねている事に触れなかった。


 ただ、他愛のない話をしていた。


 午前の日程が終わり、クラスは初めての給食の時間になる。


 桜には、まだ話していないクラスメイトとも同じ班になるので、緊張する事だった。鳳天ほうてんの中等部では十六の机を十字に区切った四つの机で一つの班を作る。何をするにも、この四人は一緒だ。


 窓際二列の前に、担任の机がある。その前にいる桜達はクラス担任の視界に入る。


 桜の隣の席の月守つきもり玄佳しずかは名前の通り静かに机を移動させた。美しい黒髪が机に垂れていて、それは地獄の中で輝く照魔鏡が映し出す現世の幻のように、桜には見えた。


 前の席の氷見野ひみの咲心凪は愛らしい童顔に朗らかを浮かべて机を移動させている。四人の中で一番小柄だが、その割に力持ちで、桜が押している机を軽々持っている。


 斜め前の席になる玉舘たまだて由意ゆいの名前は覚えている。聞いているとリラックスするような特徴的な声も、分かっている。


 ボブカットにした内巻きの黒髪は映画にでも出てきそうなくらい整っている。体つきは平均的な身長に比べて痩せ型で、スリムだ。制服に着られている。


 顔立ちがとても優しくて、垂れ目がちな目には穏やかな色が灯っている。薄墨色の瞳を持つ左目の目尻に泣きぼくろがある。年相応だが、どこか艶めいているのはその泣きぼくろが見せる効果に思えた。


 四人、机を合わせると、給食当番が用意した給食を取りにいく。お味噌汁、白米、鮭の塩焼き、小松菜とシラスの和え物、牛乳と並んだトレイを持って、桜は静かに席に着いた。


 四つの席が合体した中にいる事は、桜にとって無性にむずがゆく、悲しく、惨めな気持ちになる事だった。


 向かいの玄佳の顔立ちは彫刻家が一生の傑作を生みだし、神が生命の息吹を吹き込んだと言われても信じられる。咲心凪は童顔だと思うが、見た目に明るく、愛嬌がある。由意は清楚で、玄佳とは別の、もっと惹きつけられるような気品を持っている。


 月守さんも、氷見野さんも、玉舘さんも美しいのに、僕はちっぽけな虫みたいじゃないか。


 桜はそんな事を考えながら、いただきます、クラスの声に合わせて唱和した。


 揺らいでいる中でも、時間は進む。もしも眩暈を覚えるような現実の中で時間を止めて、少し息を整える時間が作られたらどんなに楽か知らない。


「ねえ、玉舘さんは部活どうするの?」


 咲心凪は由意に話しかけている。気にしないようにする事など桜にはできなくて、こっそりそちらを見た。


「んー……鳳天は色々あるけど、興味があるのは園芸部、華道部、茶道部、飼育部、乗馬部もちょっと気になってるかな」


 のんびりと、独特のリズムで由意は気になる部活を列挙した。合計五つ。鳳天は兼部可能だが、そんなに入っては日替わりで別の部にいく事になる。


「多くない? ねえ多くない?」


 咲心凪は一度、由意に尋ねて、桜の方を見て尋ねた。


 桜は何か、言葉が喉まで出かかって、上手くそれを言葉にできずに、こくりと頷いた。


「ほら多いって。兼部可能って言っても限度あるでしょ」


 それだけで咲心凪は桜の言いたい事の大意を察してくれた。対面の玄佳は不思議そうにやり取りを見ている。


「あくまで気になってる部だから……明日の課題テスト終わったら勧誘始まるんだよね」


 にこやかに、由意は微笑む。


「あー、この後スポーツテストやって明日は課題範囲のテストってきついよね。まあそれが終わればすぐだけど」


「氷見野さんは部活、決めたの?」


「天文部に入るって決めてる」


「え?」


 疑問符を打ったのは、由意ではない。桜でもない。黙って食べていた玄佳だ。


「あ、ひょっとして月守さんも天文部気になってるの?」


 同好の士が欲しいのか、咲心凪は玄佳を見て尋ねた。


「違う。部活一覧に天文部なんてなかったから」


 すぐに、違うと分かる。


 どういう事だろう。氷見野さんは自信満々に天文部に入るって言ってた。部活動の一覧は見たけど、天文部があったか分からない。文芸部があるのを確認すると僕はそれで二の足を踏んで、いこうか迷っていた。氷見野さんみたいにまっすぐになれない。


「え、天文部ないの? 嘘でしょ?」


「部活一覧には乗ってなかったよ氷見野さん……」


 玉舘さんが補足してくれた。氷見野さんは部活一覧を見てないのかな。よく見ていない僕が言えた事じゃない。どういう事か、先生に聞いてみる事はできると思う。けれど、僕が入りたいわけじゃないから口を出すのも違う気がする。けれど氷見野さんは困った顔をしている。


 声が、音が? 言葉は出てこなくて、僕は給食を食べている先生を見た。


 先生は、氷見野さん達のやり取りを聞いていたらしい。僕の縮んでいく視線と目が合った。


「天文部、去年で廃部になったわよ」


 担任の西脇にしわきは、咲心凪に助言するように会話に混ざってきた。


「え……」


 西脇の方を見て、咲心凪は顔を強張らせた。


「まあ部員全員高等部に上がっちゃったからで、部活一覧にも三月までは載ってたから勘違いするのも無理ないけど……」


「待ってください。天文部、再始動の目はないんですか?」


 桜が知らないトーンになって、咲心凪は西脇に尋ねた。


 本当に天文部に入りたかったんだ……氷見野さんはしたい事が明確になっていて凄い。僕は願い事も上手くできないくらいなのに。玉舘さんも色んな事に興味を持っていて、一つの事すら満足にできない僕とは違う。


 月守さんはどうなんだろう。


 気になったけど、月守さんは黙って彫刻のような顔を先生と氷見野さんに向けているだけだった。


「設備はそのまま残ってるけど、部員がいないとねえ」


「部員! 集めます!」


 咲心凪は立ち上がって、自分の席から西脇の席までいった。ほんの二歩が、力強く踏み出されて、教室の中では何か爆発でも起きたかのような驚きに満たされた。その妙な迫力の正体が咲心凪の声と動きだと分かると、途端に皆、興味をなくしたように食事に戻った。


「四人いないと部にならないわ。あと、他の人の部活は邪魔しないようにね」


「ぐ……」


 西脇は必要な事だけ言って、すぐに食事に戻ってしまった。


 氷見野さんの力になりたい。


 不意に桜は心の声を聞いた。


 それは紛れもなく本心で、けれど天文部が何をするのかも知らない自分がそんな事を言っていいのか分からなくて、もしも足手まといになったらきっと氷見野さんを傷つけてしまう……多くの思考が洪水となって桜の脳に渦を巻いて、困惑に収斂した。


「……絶対、部員集めます。だから西脇先生、その時は顧問になってください」


「集まったらねー」


 西脇先生は無理そうだと思ってるのかな。でも、氷見野さんはきっと集めると思う。まだ少しだけ話したくらいだけど、氷見野さんからは物凄い、前に進む力を感じるから。


「氷見野さん……」


 席に戻った氷見野さんにかける僕の言葉はひしゃげていて、どうしてこんなにつらいのか自分でも分からなかった。


「大丈夫だよ。町田さんは自分の部活どうするか、よく考えて」


 気遣おうと思って、逆に気遣われている。


 どうして僕はこんなに情けなくて、惨めで、ちっぽけなんだろう。


 地を這う虫みたいにいつ誰に踏み潰されるか分からない、影のように付きまとう恐怖は鳳天に入ってもついてきた。


 どうして人は、悲しみが胸にあっても舌に美味しい物が乗ると喜びを感じるんだろう。


 思考だけが桜の中に無数に流れていった。


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