1-2

 入学式、自己紹介、大失敗で終わった。


 その日の夜、はるがお風呂で自分の貧相な体を撫でていると、脳の中で何か大きなものが蠢動した。


 つらい、くるしい、いたい、それともかなしい?


 問いかけて答えが返ってきた事はなくて、桜はノートに一しきりの言葉を書いて[分からない]と結んだ。


 翌日は、身体測定とスポーツテストがあった。午前に身体測定、午後にスポーツテストが組まれている。


 鳳天ほうてんは一学年五クラス、十六人ずつの学級で、三学年が同時に体育館を回る。


 桜も体操着に着替えて、記録用紙を持って、流れる人に歩調を合わせていた。


 身長は伸びたと思うが、元が低いので自信はない。体重は鳳天の受験に備えて勉強ばかりしていたので増えているだろう。自分の風体は貧相だが、無駄な脂身ばかりは達者についているような気がしていた。


 前に見える背中は一つ前の席に座る氷見野ひみの咲心凪えみなという、桜より小柄な少女だ。ショートカットにした髪の毛は垢抜けていて、スリムな体と合わせて羨ましい。


「ねえ」


 パッチリした円らな瞳が桜を見る。縞瑪瑙を連想させる瞳は、綺麗に澄んでいた。顔立ちはアイドル的な可愛さを感じさせつつ、幼さを残している。人懐こそうだ。愛嬌とはこういう物を言うのだろう、桜はその顔容の美しさが眩しかった。


町田まちださんはもう部活決めてるんだよね?」


 美しさの前にあって、言葉と言う物はいかに無力か。桜はたまにやり切れない気持ちになる。


「……文芸部、入りたいけど、私……僕じゃ無理だと思う」


 ようやく出てきた言葉が卑屈だとは、桜に分からなかった。


 目の前の美少女はこくりと首を傾げた。不思議そうな色がその縞瑪瑙の瞳に灯る。恐らく、誰が聞いても不思議に思う。鳳天の部活に入部規定はない。


「小学校の頃、書いたものをお母さんに読んで貰ったけれど、『下手糞』って言われた……」


 分かるように、自分の言葉で咲心凪を傷つけないように、桜は細心の注意を払う。いつもならば置いていかれるような亀の速度で、けれど咲心凪は待っていてくれた。


「僕の書くものなんて、誰も読みたがらない……」


 文芸部に入りたい気持ちがあっても、トラウマが邪魔をする。


「いつも言葉を書いてるけれど、物語にならない……文芸部の人も、きっと僕みたいなのはいらないと思う……」


 自信と呼ぶ事もできない一縷の望みすら、トラウマはいとも容易く奪い去る。死神の顔をしたそれは、桜の顔に影を落とした。


 俯いた桜の視線は、僅かに不満そうな咲心凪の唇を見た。


 何か、間違えた?


 咲心凪を傷つける何かを言ってしまった?


 まだ、咲心凪とは少し会話した程度だ。部活の話をしているけれど、咲心凪はどんな部活に入りたいのかも知らないくらいの、浅い仲だ。


「ねえ、〝氷のように青い月〟って見た事ある?」


 不満そうな唇は微笑みの形に変わり、咲心凪の言葉を紡ぐ。


 桜は顔を上げて、咲心凪の目を見た。不満そうな色はなく、どこか悲しげで、けれどそれ以上に優しい表情がそこにあった。


 氷のように青い月――なんの事なのか、桜には分からない。


「月の事を、氷の輪って書いて『氷輪』って呼ぶみたいな、話……?」


 知っている知識は吐き出せても、それは辞書的な言葉を出して、『無難』に逃げようとしているだけだ。


「違うよ。これ、クラス全員に聞いて回るつもりだけど、お祖父ちゃんから聞いた事があるんだ」


 咲心凪は可愛らしい童顔に微笑みを浮かべた。


 何年か、十何年か、何十年か、何百年かに一度、〝氷のように青い月〟が見られるんだって。


 お祖父ちゃんは若い頃、一度だけ、天体観測にいってその月を見た事がある。


 それ以来、お祖父ちゃんはずっと氷のように青い月を探してた。


 一般的に言われる『ブルームーン』とは違うらしいんだ。


 どうしてそんな風に見えるのかは分からなかった。お祖父ちゃんは天文学者ではなかったから、そういう物を好きな人に聞いて回ったけれど、浪漫的な話しか出てこなかった。


 私が小さい頃に、お祖父ちゃんはこの話をしてくれた。そして、私が小学校を卒業する前に旅立った。


「最後に会った時『咲心凪が見つけてくれ』って言ってた。私は一度も見た事がない」


 さっきの話と何か関係するのか、桜には分からなかった。


 ただ、宝物を愛でるように話す咲心凪の言葉が嘘だなんて、桜には思えなくて。物語のページをめくるように相槌を打ちながら聞くしかなかった。


「ずっと見てみたいと思ってた。だから私は、どんなに『そんな物あり得ない』って言われても天文部に入って、探し出す」


 天文部に入る動機が、咲心凪の中では明確にある。桜はそれが羨ましかった。羨んでばかりいる事は酷く虚しい。自分の手が何もつかんでいない事を自覚するから。


「町田さんはさ、『下手』って言われたら諦めるの?」


 急に返ってくる、自分の言葉への問いかけは、桜自身何度も自問自答して、今もまだ心に尋ね続けている事だった。


「僕……僕は……」


 何か、僕の心の中で声がする。けれど、その声を肉体が掬い上げるには小さすぎて、上手く言葉にはならない。いつも、僕の心の声は自分にさえ聞こえないくらいに小さい。


「ただ……物語を作りたい……」


 生徒達の雑談の中で漏れた言葉は、上手く相手に伝わるのかも不明瞭なくらいに、小さかった。


 けれど、福耳が目立つ咲心凪の耳は、その囁きを聞き逃さなかった。


「なら、答えは出てるんじゃないかな」


 今日の天気のように、カラッとした声だった。声に色があるとすれば、今の咲心凪の声は晴れ渡る空の青色だ。


「やりたいからやる。理由なんてそれでいいんだよ。誰がなんて言おうと」


 人差し指を立てた咲心凪のその人差し指に、桜の視線は釘付けになった。


「強い気持ちがあるなら、その願いを叶える」


 僕はきっと情けない顔をしているだろう?


 だから、氷見野さんは優しい顔をしているの?


 違う――氷見野さんは、目の前の矮小な僕自身を慰めるだけじゃなくて、もっと遠くの、大きなものを見ている。


「それが『夢を見る』っていう事だよ。夢を諦めるかどうかは、自分自身が決める事」


 きっと、その視線は自分自身の夢を見ている。


 とても強い眼差しに、優しさを一匙混ぜて。


「私は何があっても夢を諦めない。って、町田さんに言う事じゃないけどね」


 氷見野さんみたいに強くあれたらいいのに。


 強い人になろうとしなかったわけじゃない。いつでも強がる度に叩かれて、足を挫かれて、嘲笑と罵声を浴びせられて、心が千切れるのを感じながら眦が湿気っていく。


 もう一度と思う事も、疲れるくらい繰り返して、けれど心の中で何かが蠢いている。動いているなんて清潔な言葉は当てはまらない。


 もっと不潔で、自分でも触るのを躊躇うような気持ちが這っている。


「夢……見たいけど、見れない」


 背骨が冷たくなる感覚と肉が血管が熱くなって皮膚から汗が出る感覚が溢れる。


「誰も、町田さんの夢は遮れないよ。町田さんが願ってる限り」


 願ってる限り――僕は願っているんだろうか。


「いこう。順番くるよ」


 手を引かれて、頭の中はいよいよ混乱する。


 ただ何かを書く事が楽しかったから、物語を書こうとしていた。それを踏み躙られてけれど捨てられなくてぼろきれになった原稿用紙をかき集めてばらばらになった言葉をもう一度繋ぎ合わせようとした。


 けれど上手くいかなくて、今、願いは……どこを彷徨っているんだろう。


 桜は泣き出しそうになりながら、咲心凪に続いた。

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