第18話 突き付けられたもの
葵が再び目を覚ましたとき、葵は自身のお腹のあたりに違和感を感じた。
ぼんやりする頭ではその正体が見抜けない。ゆっくりと目を開けば、橙色が滲んできた空が、こちらを覆い尽くすように影を落とし項垂れるような木々の枝葉の奥に見えて、もう日が暮れるのかと顔を顰めた。
この明るさならまだ帰るための電車は残っているが、帰りの時間が遅くなる。連絡もしていないから、親はいい顔をしないだろう。
今日は好物のハンバーグだと言っていた。ニンジンのグラッセを多めに盛られるかもしれない。あれが、葵はあんまり得意じゃない。
そんなことを考えて、葵はふいに顔を横に向けた。そうして、そこに居た人物に、靄の掛かっていた意識が覚醒する。
「リカ!」
葵が腕を伸ばして、けれどあと数センチ足りないくらいの距離。
そこに、リカが倒れていた。
慌てて起き上がろうとした葵は、しかし、自分の身体が起き上がらないことに気付いて動揺する。腕も足も動くのに、まるで背中が地面に張り付いたみたいに持ち上がらない。
どうして、と首を持ち上げて自分の身体を見下ろし、思わず喉が引きつったような声を出した。
葵の腹のあたり。胴体を貫き、まるで地面に縫い付けるかのように、光の柱が立っていた。
痛みはない。ただ、なんとなく違和感だけが貫かれた場所に居座っている。手で触ろうとすれば、ばち、と静電気のような痛みが走って、弾き返された。
まるで、モズのはやにえにでもされた気持ちだ。
よく見れば、隣に居るリカも同じように光の柱で地面に縫い付けられている。現実と呼ぶには、あまりにも信じられない光景で、それでもいまの葵にとっては、現実だと呑み込めてしまう景色。
蝉の声は、耳を覆いたくなるようなみんみんじゃわじゃわしたものから、いつの間にかカナカナとどこか寂しい鳴き声へと変わっている。
魔法、なのは理解した。意識が途切れる前に、確かに魔法陣を見たし、遊具やフィギュアが動く様子を見せられたことのある身としては、この葵の身体を貫く光が、魔法以外の何物でもないことはよくわかっている。
問題は、誰が、何のためにこんなことをしたか、だ。
「おはよう、藤村さん」
案外、答えは向こうから降ってきた。
葵の顔に、影が落ちる。わざわざ地面に膝をついてこちらをのぞき込むようにしてきた人物の顔に、葵は目を見開いた。
「……黒沢さん」
葵に声をかけてきたのは、黒沢樹だった。葵の、バイト先の、一つ年上の先輩。
つい最近、葵が淡く心を寄せて、寄せた心を葬った、大好きな後輩の彼氏になったひと。最近、無断欠勤なんてらしくないことをしていて、葵の心配の種のひとつだったひと。
そんな素振りはなかったとか、アスターも彼を何度か見ているはずなのに何も言わなかっただとか、そういった気持ちが頭を駆け巡った。
けれどなにひとつそれらは葵の口から声に出なかった。
だって、証明されている。
こんな、人が寄り付かなさそうな場所で。葵もリカも縫い留められているこの状態で。
いつも通りの優しい笑みを浮かべて、まるで何事も無かったかのようにこちらを見下ろしている彼が、元凶以外の何物でもあるはずがない。
「……意味が、分からないんですけど」
だからこそ、ようやく口を付いた言葉。それに、黒沢は不思議そうに首を傾げ、何かを合点したかのように頷いた。
アスターのように、魔法使いらしいローブなんてまとわない、それこそバイト帰りのときのようなシンプルな格好で、ふわりと腕を振るう。
そこに、真っ黒に染められた細長い杖が現れた。緑の鳥の羽と、鳥の骨のようなものが、捩れた木の杖の隙間に装飾されている。
「うん、やっぱり最初はそうなるよね。だから教えてあげる。俺は、魔法使いで――」
「違う。それは、どうでもいい」
もうその説明は、とっくの前に聞いた。月の牢獄も、魔法陣も、葵はもう知っている。
この状況が魔法によるものなんて、鳥居の下で魔法陣に囚われてしまったときにもう分かった。
「黒沢さんが、魔法使いだとかそうじゃないとか、どうでもいいよ」
だから、そんなのは葵にとってどうでもいい。
黒沢が魔法使いだろうがなんだろうが、今はどうだっていいのだ。
それくらい、いま、葵は頭に血がのぼっているといっても過言ではない。
だって、普段から可愛いあの子が、もっと可愛くなって、幸せそうに笑ってたんだ。
このひとだって、嬉しそうな顔で彼女をみていたんだ。
「貴方が、貴方の恋人のリカまで、こうする理由がわからない」
叶わなかった自分の淡い気持ちなんか、二の次だ。葵の知らないところでリカが、この状況を受け入れていたとしても、そんなのだってどうでもいい。
リカを今、こんな目に合わせているこの魔法使いが許せない。理解できない。分からない。
それはそれできっと葵はショックだったと思うけれど、これなら、黒沢がリカと一緒に葵を見下ろしていた方が、まだよかった。
魔法使いであるという説明を遮られたからか、黒沢は驚いたように目を丸くした。そんなところまで、まったくいつも通りだ。異質なのは状況だけで、目の前に居るのは間違いなく自然体の黒沢樹だった。
それが、ずっと葵が接していた黒沢が、あの時から魔法使いであったのだと、現実と今が地続きなのだと葵に容赦なく教えてくれている。
ずっと知らないでいたかったと思うくらいには、心敗れたいまも、このひとが人として好ましかったのだ。
――というか、アオイ、意外と面食いなんだね。
(……本当に、そうだったね)
鴇色の髪の魔法使いを思い浮かべながら、葵は黒沢を睨みつけた。
しばらく黒沢は驚きの目で葵を見下ろしていた。それから観察するように目を細めると、まあ、いいかとその場に腰を下ろす。
アスターよりも優雅な所作で地べたに座った黒沢は、そのまま上半身だけ捻るように振り向いて後ろに転がっているリカの方を向いた。
「……恋人がいたんだ」
やがて聞いたことのない優しい声音が、黒沢から聞こえてきた。
「リカさんに似て、元気が有り余ってるような、誰にでも笑顔の、可愛い子」
こつん、こつん、と。黒沢の手に持っている杖の先が、音をたてて地面を打つ。
何度かそれを繰り返したあと、リカから視線を葵に戻した彼を見て、葵は思わず息を呑んだ。あの、いつかリカに向けていた慈しむような視線が、いま、葵にも向けられている。
「そして、貴女みたいに、ガチャポンが好きだった、優柔不断で無垢な人」
ふわり、と地面から風が吹く。ふわり、と黒沢の前髪が浮き上がる。
「どっちを『贄』にしても、きっとあの子の魂は空から戻ってくる」
『君がどんなイメージを持っていたのかはさておいて、そもそも現代社会における魔法使いなんて、自己都合で悪さをするやつか、悪さをして月に幽閉されているやつのどっちかしかいないって』
『悪魔の魔に、法則の法で魔法だよ。悪魔と取引して初めてその法則を使うことが出来るんだ。つまり、悪魔と取引するような、ろくでもないやつしかいないってこと』
何度も反復したあの日の言葉の意味を、葵はようやく理解する。
魔法使い像を何度も何度も積み上げなおした葵にとって、いま、魔法使いの指針はアスターだった。だからこそ、きっと、アスターの言った言葉の意味を、正しく理解できずにいた。
この人は、悪魔と取引をしたのだ。
おそらく、今は居ない恋人と、再び逢瀬するためだけに。
「だから貴女が選んでよ、藤村さん」
つ、と黒沢の指先が葵の頬をわずかに撫でて、離れていった。
「君自身か、リカさんか」
じりじりと、腹を貫く光の束が、色を赤く変えて、熱くなっていく。そこから飛び散る火花に一瞥もせずに、黒沢は微笑んだ。
「どっちが、僕の恋人の容れ物になってくれる?」
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