第10話 NtoN


晩飯を急いで済ませようと、急に手が震えた。Nはしばしば色々な状況で奇想天外な対話を交わしたが、それはNの中から出て、実際に発音されることが一度もなかったので、薄い独り言と似た薄い演劇に過ぎなかった。私は未熟だったとNはいつも後悔していた。Nはいつも未熟なままだった。晩飯を急いで済ませようと、彼女は震えていた。

ノック。Nを訪ねてくる人がいるわけがなかった。誰だろう?Nは反応しなかった。動くこともできず、立ち止まったまましばらくした。再びノック。今度は4回叩いた。狂ってしまったね、Nは思った。ついに完全に狂ってしまったかもしれない、と。すべての女性は精神的に半分狂っている、と。狂気には理由がない、と。遺伝子と積もった歯石の細菌から、育ち環境と気候、そして目に見える神と見えない神まで、その原因という物語は常に繁殖を続ける、とNの中である人が独り言で言った。理由のためだ。理由という単語が存在してから自己表現は滅失し、言葉そのものだけが生命のしるしになってきた。断言、そして確信のふるまいは時代的肉体の褒美だが、精神に無理をかける。

狂ってしまった。

しかし、狂気そのものはにわかに表れた事ではなかったので、肌の裏側からじわじわと染み出る熱気が、あるきっかけによって感じられるようになったように、彼女は寂しい気持ちになった。排泄するまでほんの一瞬が過ぎてから支離滅裂な否定が引き続くだろう。ごくわずかの生きる瞬間が過ぎてから、長い長い瀕死が;Nは狂ってはいけなかった。

Nは芯のない対話が、同じく芯のない対話を掻き立て、はてしなく開き続ける窓のように、内から外に、外から内に分裂するのを黙って聞いた。それは嫉妬、命令、笑い、悲劇、雑談、一体感、同情などの内容だった。

「最近、髪の毛がめっちゃ抜けるのよ。」

「人それぞれなの。」

「病原菌が5時間以内に鼠径部から臀部に広がるというのは、非常に速い進行速度です。一般的な細菌感染では、これほど急速に広がることは稀です。感染症の進行速度は病原菌の種類や患者の免疫状態などに依存しますが、鼠径部から臀部、そして生殖器にまで感染が広がるというのは、通常の感染の広がり方としては異例だと。特定の病原菌や状況、例えば、劇症型の感染症や特定の細菌でない限り、このような広がり方は一般的ではありません。感染が生殖器に永久的な障害をもたらす可能性についても、具体的な病原菌や感染症の種類に依存します。一般的な細菌感染では適切な治療を行えば永久的な障害を避けることができる場合が多いです。」

「あれだよね、あれ。」

「現在だよ、現在。過去ではない。」



0.前文


そこに誰がいるのかな?

誰?または何?

そこに何があるのかな?


一人の人間がいる。その人は非常に年老いて見える。男性か女性かは問題ではない。

年寄りに関しては、生物学的にも社会的にも、性別の違いはもはやほとんど意味を持たない。年寄りは世界の共生する存在であり、性別も年齢も、アイデンティティもエゴも意識も無意識もない。ただ彼らだけが、うつ病の楽しみ、あるいは時間の憂鬱を楽しむことができる。彼らにとって、時間は拷問であり媚薬でもある。


この人を「PERSON」と名付けよう。この「PERSON」を主人公とし、その名前を赤色で書くことにする。

PERSONは私たちの主人公だ。

PERSONは宗教を持たない。

PERSONは老けて見える、かなり老けて見える、あるいは受け入れ難いほど老けて見える。

PERSONはかなり老けている人を演技している。

PERSONは水玉のように若い。

PERSONは結婚していない。

PERSONは善でも悪でもない。

PERSONは幸福でも不幸でもない。

PERSONは普通でも異常でもない。

PERSONは老いた人物を演じているため、さらに老けて見えるが、全く老けた人とは関係がないように見える。


いや、もう赤で書くのはうんざりだ。やめる。何を?赤をやめる。


1.存在


ここはPERSONの場所だ。外のすべてから安全を保つための巣のような場所だ。

PERSONはその場所にいる。傾いて立っているか、床やベッドに座っているかもしれない。

PERSONは周りを見回し、何かを探しているようだ。

PERSONは動き、たくさんのものを集め、一つずつ椅子の上に置く。櫛、たばこの箱、マグカップ、本、カメラ、皿、タオルなどだ。

しかし、PERSONはそれらのいずれにも満足しない。それで、すべて元の場所に戻す。

PERSONは一旦止まり、再び周りを見回す。

PERSONは中くらいの大きさで少しボロボロの枕を持ってくる。

PERSONはその枕を先ほどのように椅子に置く。PERSONの顔に静かな喜びが広がる。

PERSONはその椅子の前にひざまずく。

(ああ、痛くて面倒だ!)

PERSONは下にマットのようなシートを敷き、再びひざまずく。これは儀式だ。

PERSONは両手を合わせて祈り、ゆっくりと目を閉じる。しかし、ほぼすぐに目を開け、祈る姿勢を解く。

PERSONは立ち上がる。

暗い変化が起こる。


2.何故PERSONは一人で静かさを破るのか。


とても心地よく、枕はまだそこにあり、椅子の上で依然として垂れ下がっている。

そしてまったく驚くことなく、PERSONはその場所にいる。枕から一歩離れた距離だ。

PERSONはそれをじろりと眺めている。生気溢れる死体。


PERSON

あなたは私の女神だ。私はあなたに祈る。

私はあなたに祈るだろう。私は...あなたの裸の前でひざまずくだろう。

私は神に祈らない。

決して祈らない。

しかしあなただけだ。

私はあなたにだけ祈る。

かつては枕だったが、

今もなお枕だが、あなたには名前、称号、あるいは権威が与えられた。

ほぼすべてのものには今、権威がある。

そのすべてのごっちゃごっちゃ、整理されたものと、整理されなかったもの、力。


無名のもの、

無条件のもの、質のない、感覚のないものを考えるのは難しい。

無名のものを考えることはできない。

それは罠だ、感覚、すべての感覚、罠だ。

私は無意味な空間に立つことはできない、無意味な、無名、無形の白骨。

しかし罠の中にいることでのみ、私は一歩一歩を踏み出し、出来事を得る。

そして見えるように、使えるように、

存在しても構わない状態になる。

私たちは、私たちは、長く同じ場所にとどまることはない、私たちは永遠に不安になり、移動しつつある。

この罠からあの罠へ、そしてまた別の罠へ、次の罠へ。

いいだろう。

その必死の運動、動き、踊り、体操だ、私たちは飛躍するのだ!この罠からその罠へ。

罠から別の罠へ飛び出す。

その身体的-心理的な体操、それが私たちのすることだ。

すべて、

私たちの罠、

私たちの感覚、私たちの遊び、私たちの名前、私たちのあまりに完璧な広場恐怖症、そして、

そして、なんというか、そういう状態、

ああ!『放浪癖』

そう、そう、放浪癖だ。

広場恐怖症と放浪癖、

広場恐怖症と放浪癖、

放浪癖。


ものに名前を付けることは、その墓を授けることに他ならない。

意味を作ることは、実質的には墓を作ることに他ならない、

墓作り、恐ろしい、恐ろしい繰り返し。

そして、私の愛する、私の枕、

現実ははびこっていて、

誤解もそうだ。

正確な、正確で正確な現実は、

繊細な繊細な繊細な誤解をもたらす。

だから、確実性は乱用され、恐怖もそうだ、

恐怖もそうだ。


一部の人々は大きな時計の時間を確信しており、

また別の人々は小さな時計の時間を確信している。

そして他の人々は、時間の存在自体を確信していない。


実在する存在は、それぞれ自分が何であるかを確信する義務を持っている。

全てのものは。

天才には天才の義務があり、

奇形者には奇形者の責任と定めがある。

正気な者は正気の義務を果たすべきだ。

狂気の者は狂った言葉を語る義務がある。

西洋人は西洋のやり方で行動しなければならない。

東洋人は東洋のことを行う。

もし西洋人が西洋のやり方をしないなら、

その人は古い東洋の考えや東洋哲学に感染していると言われるはずだ。

もし東洋人が東洋のやり方をしないなら、

その人は西洋化した、または品のない模倣者と言われるはずだ。

そう、品のない模倣者だ。

そう、品のない模倣者だ。


人々は道を外れる。

時間とともに自然が自分なりの法則で何が正しいか間違っているかを導くことだと思いながら。

しかし、私の女神よ、自然は無茶だ、無邪気で無限に吸い込めるのだ。

もしかすると、まったく何も、もしかすると、

従うべき普遍的な自然など存在しないのだ。

自然とは何か?その法則とは?

その法則、自然の法則とは何か?

自然の法則、

自然。

自然とは?

進化、それとも反復ではないのか?


とっても辛辣な世界だ!

何と辛辣な、

非常に。


人はどこかから別の場所へと運ばれなければならない。

ここからあちらへ、どこかへ。

この精神病院から別の精神病院へ。

この一杯のお茶から別の一杯のお茶へ。

これから…

自然によって、

このイデオロギーから別のイデオロギーへ。

人はこの-

この過去の時間から別の過去の時間へと運ばれなければならない。


何と!


私たちの豚は太るべきだから太らせられる。

太るべきだ、この「べき」には特に強調を置く。

豚は豚と呼ばれる限り、普通の働く豚としての義務を果たすべきだ。

豚の役割を果たすために、働き、働き、詰め込まれる。

それが彼らの義務、使命である。

まるで処女が処女のままでいるべきであるように、

信者たちが洗脳され、受胎され、説教され、ますます神様に似ていくように、

そのように、

私たちの豚の群れはますます太って行く。

植物がますます枯れるように、

性器が沸き上がって、締め付けられるように、

私たちの肺がますます空気で満たされるように、

など、など、など。

ますます、

ますます…

など、など、など。


今晩、私は祈るよ、愛しいあなたに。

今ではなく、でも今晩に。

今晩。

まだ準備ができていないんだ。準備が整ったと思いきや、まだだ。

その上、私はまだかなり不確かだ。本当に始めることができるのかどうか、

実際に真摯な精神で誠に嘆願することができるかどうか、そして要請を吐き出すことができるのか!要請と願いを。

そう、そうー

そう、基本的に要求というのは自己嫌悪と正直なお世辞で形成されるのだろう。

そう、

生き残るために自ら自分を蔑視し、無の白い壁にへつらうのだ。

生命を感じるために、

つまり、今を確かめるために自分の頬を打つようなものだ!

対価交換、祈りは基本的に対価交換だ。

だから、すべての真摯な祈りは自己を消し去ることに関するものであり、

同時にそれを確立することだ、

そうだ、言ってみれば、言ってみればな。

今夜はきっと大丈夫。信じてくれ。今夜の祈りは、きっとね、信じてくれ。確信している。絶対に確信している、私の女神である枕よ。

でも今は、私の愛しい枕、そして神聖なる存在よ、

今は祈るには十分ではない、昼間では狡猾すぎる。

完全な静寂の中で行うべきだから。

それにしても、それはまったく馬鹿げている。

完全な無音?

たとえ耳をコンクリートで塞いだとしても、

それでも騒音は鳴り続けているだろう、

内なる身体や心の状態からの振動が。

共鳴、心の中の会話、独り言、記憶。

それゆえ、

空っぽになること、

清らかになること、

きちんとすることは、

無情な努力なのだ。

暗闇、泳げ!

わざと汚らわしくなる必要はない!

言うまでもないのだ。

私は素晴らしい。

あなたは汚い。

私は情熱によって何かを成し遂げたことはない。

何かを強く望むことが常に苦手だというのだ。

渇望や憧れは、どうしても慣れてはいないものだ。

それは突き出た覗きのようなものだ。

それが欲望というものだ。

でも、それはあり得ない、あり得ない、

何かを欲していたに違いない、きっと欲していたはずだ!

暴かれるのを避けてきただけだ。

渇望、

意志、

自分自身や他人によって暴かれるのを、

自分自身に、そして他人に認識されないように。

圧力が限界に達すると、それは自然に、自然に低下するものだ。

それが私たちの本性だと、誰かが言った。

その本性は秩序正しく調和していると。

誰かがそう言った。


分からない、私の枕よ、愛しい枕よ、

本当に分からない。

私に関して言えば、深く望んだことは一度もない。

長い間、何を望んでいたのだろうか?

本当に分からない、愛しい枕よ。

私は自然の中の一つの存在であり、自然の法則に導かれている限り、

何かを望むはずだ。

しかし、私の女神よ、

本当に分からない。

戯れ、練習。

しかし、

平坦なものの戯れ、それが私の人生のレパートリーだと考えてきた。

本当に分からない、決して分かることはない。

何かを知っているけれど、それが何かは分からない。

この何かとは一体何なのだろう?

奇妙で不自然なものなのか、

あるいはあまりにも自然すぎて、何かを知っているけれど分からないのか、

あまりにも自然すぎるのかもしれない、

それとも、それがあまりにも奇妙で不自然なのだろうか?

分からない、ただ生きるふりをしているだけだ。

死ぬふりはできないから、

生きるふりをしている。

もしも生きるふりがもうできなくなったら、

私は死ぬふりをするだろう。

何かを知っているかどうかなど問わずに、

「問わずに」という言葉さえもなくして、

私は死ぬふりをするだろう、

もしももう生きるふりができなくなったら。

分からない、愛しい枕よ。

私の人生は純粋なパラドックスだった、

パラドックスそのものよりもパラドックスだと言える。

なぜなら、「パラドックス」という言葉は人間による単なる概念に過ぎないからだ。

実のパラドックスはそれより、

もっと単純で複雑、単純で複雑、単純で複雑で、

もっと質的に幻のようなもの。

質的に悲しい。

だから、私は存在にも非存在にも属さない、

パラドックスそのものよりもパラドックス、確かに、

確かに、

確かに、哲学そのものよりも哲学的だ!

確かに、私は哲学そのものよりも哲学的な哲学だ!

私はもっと、私は霊そのものよりも霊的だ。

そして、私の枕よ、あなたは世界中のすべての神々よりも神なのだ。


馬鹿らしい。

言葉は、すなわち室だ。

質は言葉のしからしめる所ところだ。

液体の精密、拡散、偽装

そして私は、文法よりも文法的である。

私は、アレグレットそのものよりもアレグレットである。

私は、自分が排泄する糞便よりも糞便である。

私は、法律を超える法である。

私は、自然よりも自然で生きているのだ。

私は、もっと、

私は、ゲームそのものよりもゲームであり、

私は、素材そのものよりも素材だ。

私は、時間そのものよりも時間であり、私はもっと—

もっと、音楽そのものよりも音楽である。

私は、存在そのものよりも存在である。

私は、もっと、

何よりも虚無そのものである。

あなたは、親愛なるあなたは、ゼロ以上で同時にゼロ以下である。

何かが常に私たちを困らせ、私たちを支持しながらも、私たちを立ち止まらせている。

さもなくば、私たちは爆発してしまうだろう。

私たちは蒸気よりも棒であるほうがいい。

さもなくば、私たちは爆発してしまう、親愛なる

あなたは、もっともっとそのものであり、親愛なる、

そして私は、より少ないそのものである。


(PERSONは時折、無意識的に、自然に膝をついたり立ち上がったりすることができる)


私は、あらゆる文脈よりも文脈そのものだ。

いや、私は自分自身よりも少ない、

または自分自身よりも多い、いや。

知的なことを言うことに真剣な意味はない、

教養のあること、

クラシックなこと、

歴史的なことに。

教養のあるものは、鈍い刀であること、敗北したものと等しい。

常に、あの「よく知っている何か」と

「知識人」と呼ばれるものが災難を引き起こす。

常に、私は言う、常に、知識人は何も知らない、

何も行動せず、ただすべての専門用語、

隠語、言い回しでひとしきり楽しむだけだ。

知識のやせ細った肉体

知識の太った肉体

ぶらぶらと、

揺れる。

ジャーゴン

隠語


(どこかから『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、PERSONはそれを聞こうと話すのを止めるが、10秒後には消えてしまう。)


ジャーゴンは最も多くの大虐殺をもたらす源泉であり、

すべての国はすべてのジャーゴンのための単なる子宮に過ぎない。

ジャーゴンは子宮に挿入され、

したがって、すべての国はジャーゴンの行列である。

胎児。

それは単にジャーゴンを育てるだけであり、

国々は決してジャーゴンを克服することはない。

おそらく、

私はジャーゴンの一つである。

いくつかのジャーゴンは他のジャーゴンを利用し、

いくつかのジャーゴンは家族を築いてさらに多くのジャーゴンを生み出す。

しかし根本的に、すべてのジャーゴンは他のジャーゴンに対して生まれつき嫌悪感を抱いている。

だが、ジャーゴンたちは自分たちがジャーゴンであることに気づかない。

おそらく、

私は嫌悪すべきジャーゴンの一つである。

おそらく、

いや、それは全く意味をなさない。

私は言葉を多く無駄にする。

おそらく、

私は嫌悪すべきジャーゴン愛好者の一人だ。

自分たちのジャーゴンの中だけで主張し、

最終的にはジャーゴンによって脳出血で死ぬことになるだろう。

装飾されたジャーゴン、ドラッグされたジャーゴン、

男尊女卑的なジャーゴン、平等主義者のジャーゴン、

劇のジャーゴン、長い歴史のある文化のジャーゴン、

新聞のジャーゴン、

政治的比喩の中のジャーゴン、

レイプの行為、食欲、シミュラークルのジャーゴン、

構造主義のジャーゴン、

脱構築のジャーゴン、などなどなど、

あらゆる「など」のジャーゴン、

胚の中のジャーゴン。

ミクロとマクロのジャーゴン、

ジャーゴンの中のジャーゴン、ジャーゴンの中のジャーゴン。


私の愛らしい枕よ、私は無邪気なものだ、、もっと、もっと、あそこで何気なく遊んでいる子供たちより。


(長い沈黙、PERSONは黙って枕を見つめている)

(非常に長い沈黙)


私は、誠な人間性の模範を提示できるとは言っていない。

私は独学者だから、

有益な知識と無益な知識を、すべての有益な材料と

無益な材料から、すべて、得てきた。

そう、親愛なるあなた、情報は一つの材料だ。

そして親愛なるあなた、私の知識は些細な事故だ。

これをもっと分かりやすく説明するよ。

今、あなたが歌を歌っていると想像してみて。

歌詞が自然に流れてくる。

記憶から無理に引っ張り出さなくても、自然に。

その歌は子供の頃、あなたの中に刻まれたものだろう。

もしかしたら、お母さんがよく口ずさんでいたメロディーの一つかもしれない。

料理をする間、あなたのお母さんの歌。

毎日聞いた歌。

あなたは今歌う、あなたはその歌を知ってるのだ。

この歌を知っているかどうか考えたり、握りしめたりする必要はない。

歌っているってことが、確かに証明している。

あなたはその歌を知っているし、

その歌を見せている。

知識ってのは、言ってみれば、具現された事件なんだ。

だが、まあ、枕よ、神よ、私はただのおしゃべりな古い犬じゃなく、変わりゆく出来事そのものだ。

そうだな、長いこと当たり前になっていた「私」という言葉、いっそ捨ててしまったほうがいいかもしれない。


(少し間を置く)


いや、やはりそうはしないさ。私はすべての逆説よりも逆説的だからな。

私は行動できない、それが理由で、世の中で何かをすることから自分を守ってきたんだ。

行為から自分を守ってきたんだ。

単純に言うと、私、私、私は、公共の場で何かを語りたいと思うことから自分を抑え込まれてきた。

語る者、大学や議会、デモで説教する者たち。

辛いのだ、親愛なるものよ、本当に辛い。影にいるのはあまりにも苦しい。

だが、その一方で、私は少なくともくだらない専門用語にはならずに済んでいる、それには満足しているのだ。

一つの慰安ではないか?

私の立場、小ささ、自分自身を閉じ込めていること。

私は自分自身で納得している、あるいは、複数の自己で納得しているかもしれない。

おそらく、

おそらく、

おそらく、

おそらく、

おそらく。

世俗的な自由を放棄したからこそ、最大の自由を得た、私の部屋というウジを。

私、私、この部屋に張り付いている丈夫な前歯。

私は何も言わないから、何もかもを語ることができる。

私の部屋、私の親愛なる枕よ、私の、

ここで私は満ち溢れている。

ここで、親愛なるものよ、ここで、私の部屋で、

私は少年にもなれるし、少女にも、司祭にも、政治家にも、主婦にも、会社員にもなれる。

哲学者にも、小説家にもなれるし、

母にも、父にも、息子にも、娘にも、祖父にも、曾祖父にもなれる。

乞食にも、社会主義者にも、資本主義者にも、活動家にも、神にも悪魔にもなれるんだ。

ここでは、私は死体にもなれる。


(どこかから『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、PERSONはそれを聞こうと話すのを止めるが、20秒後には消えてしまう。)


枕のように動く!

犬になるのだ!

あるいは音楽で、私は音楽になるのだ、音楽になったばかりの犬になるのだ!

もしくは、罪人に、死刑囚に、それとも看守に、死刑囚であり看守に!

ここで、つまり私の部屋、ざっと言って私の領域、私のエリア。

私のスタジアム、私のフィールド、戦場。

私はこの場所で意志の自由を得た、沈黙の自由を。

突然の無言は少しも不気味ではない、

突然の自己消滅も少しも不気味ではない。

全くグロテスクではない。


(長く、滑らかな沈黙)


いや、いや、いや、いや。

この歌、あらゆる歌の中でこの一曲、なぜ私は数千万個の曲の中で今この瞬間、この一曲の歌を歌うようになったのだろうか?

数千万の曲だ。

当然、数多くの歌を知っているはず。当然だ。

だが、この一曲。

私は本当にこの歌をやめることができるのだろうか?

できるのか?

できるのか?

この対話を始め、そして終わらせるのは私なのか?


(長くて息苦しい沈黙)


いや、いや、いや、いや。

いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや。

いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや。

私の皮肉はただの天職さ。

この全体、適当に見えるけど、本当は適当ではないのだ。

この全ての二枚舌、これが私の使命なんだよ。

私の慢性的な口臭も、これが私の使命さ。

この役割には、本当の誠実さはない。


(比較的短く、聞き取りにくくない沈黙)


いや、いや、いや。

どんな役になろうが、嘘をつかなくてもいいわけではない。

時々歌うその歌、親しみを感じるその歌、

その感情は決して自分から来るものではない。


その歌が好きだから歌う、役割として歌う。

役割として歌う、その歌を。

この歌が好きだ。


今、死んだふりはできない、まだだ。

だから生きているふりをする、まだ。

生きているふりをする。


((おそらく) PERSONが自分の首を両手で絞めるように巻き付け、そして手を離す)


きっとこの冬もまた嫌な匂いのする冬になるだろう、

次の春が来る前に、つまりまた嫌な匂いのする春の警戒。

その後には、また嫌な匂いのする夏と秋がやってくる。

すべての季節が私にとっては不快なものだ、いつもこの副鼻腔の問題があるから。

副鼻腔だけでなく、細胞全体に対する攻撃なのだ。

すべて季節が変わるせいで、

すべてが変わるのに、この体の炎症だけは決して治らない。

体の穴ごとに炎症が抜け出る。

決して治らない。

私はいつも心気症の苦しみに囚われている。

すべての先祖がこの痛みを一生抱え、その痛みとともに死んでいった。

彼らはいつも不機嫌だった、

呼吸がうまくできなかったからだ。

そして、時々、自分の悪臭を、穴、穴放つ匂いを繊細に嗅いでいた。


((おそらく) PERSONが自分の首を両手で絞めるように巻き付け、そして手を離す)


もしかすると、彼らは穴に炎症を抱えていなかったのかもしれない。

それでも彼らはいつも苦しんでいた。

何に苦しんでいたのだろう?

神経衰弱だろうか?それが一番あり得る。

というのも、彼らのかかりつけ医は耳鼻咽喉科医ではなく、

精神科医だったのだから。

彼らは現代医学やを化学療法を信じていなかった。

しかし、皮肉なことに、

彼らは最も近代的で実験的な医療、つまり精神医学に完全に依存していた。

不思議なことさ。

まるで宗教のように。

彼らにとって睡眠剤こそがなによりも寿命の延長をもたらす奇跡だった。

まあ、もしかすると、精神的な脆弱性とは別に、

本当の炎症による痛みもあったのかもしれない。

そして、私は確信している、

私も先祖と同じ困難を抱えていることを。

身体的な問題と形而上的な問題の両方に苦しんでいるのだ。


だからこそ私は私に尋ねている。

「あなたには先祖がいるのかい?」

「妄想ではないのかい?」


((おそらく) PERSONが自分の首を両手で絞めるように巻き付け、そして手を離す)


いや。

私は普通すぎるくらいだ。

彼らは自分たちが普通すぎると思っていたが、実際にはそうではなかったわけだ。

彼ら、先祖たちは、とんでもなく普通ではなかった。

昔から、狂人は自分を狂人とは見なさないと言われている。

全く。

彼ら、私の先祖たちはひどく健康が悪かった。

誰一人として最後まで元気を取り戻すことができなかった。


だからこそ私は私に尋ねている。

「あなたには先祖がいるのかい?」

「妄想ではないのかい?」

「なぜ、あなたは若いくせに老けたふりをしている? それとも正反対なのか?」


それでも、彼らは自分たちが幸せだと思っていた。実際は違ったが、

彼らは幸福だと宣言していた。

震え上がりながら、

まるで冬の野原の真ん中で裸になる子供のように。

精神安定剤を飲みながら、彼らは非常に幸せだと言っていた。

彼らは自分たちの無邪気さと純真さを証明したかったのだ。

幸せだと泣き叫んでいた。

一度だけ、私は覚えている。

昔、一度、私は、


いや、

いや。

私は回顧を信じていない。

過去の出来事を決して認めない。

自分が嘘をついたかどうかさえ分からないからだ。

そうだ、嘘をついた、確かに嘘をついた、

私の女神よ。

一体世の中誰が嘘をつかずにいられると思う?

話すことは、歪めること、避けること、嘘をつくこと、または嘘をつかずに騙すことに過ぎない。

意図的であれ、無意識であれ。

私はただ言葉を使って何かを解き放っているだけだ。

それならば、

一体何が放たれているのだろうか?


私は先祖がいない。私は孤児で、根もなく、親もいなかった。

私は家も、適切な言語も、文脈もない無数の子どもたちの一人だった。

今もなお、私は文脈の外にいる、はっきりと。

過去が言葉に変わる瞬間、それはより不十分になるか、

あるいは、過剰に膨らむ。

言語に埋め込まれた過去は、

今もまた、ここに十分存在している。

ここへ来る、十分な存在が。


私は偽者だった。もし真実が現実と見なされるなら、私は真実を欠いている。

話すことは、ただ初期の衝動を外に吐き出すことだけだ、親愛なる枕よ、外に。

私の繰り返される嘘は、意図された繰り返しではない。

運命、とでも言うべきか。

嘘をつくことが私たちの運命だと言えるかもしれない。

言うとね。

言うと。


私の先祖たち、崩壊した者たちが、

徐々に自分自身と自分自身の模造模造コメディに対して反乱を起こしていった。

無力な先祖たちは、いくばくかの明確な災難、不時のわざわいを切望していた。

それが一度に彼らを殺すことを願っていた。

彼らは突然のヘリコプターの墜落や、

壮大な物理的な大惨事、あるいは

予期のない終わりを夢見ていた。

残念ながら、空間と瞬間は常に静かで穏やかで、

彼ら自身だけが懐疑的で、不安に魅了されていた。

彼らは、日々、言葉を発し、

日々、問いかけ、答えを出し続け、

その結果、自分たちの呪文に催眠されてしまった。


彼らは著しく長い人生を送り、最後まで不幸だった。

そう、非常に不幸だった。

非常に。


(沈黙)


「遠足」


なぜこの言葉が突然現れたのか分からない。

「遠足」

「遠足」

突然に。


(どこかから『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、PERSONはそれを聞こうと話すのを止めるが、50秒後には消えてしまう。)


伝記を信じていない。


(沈黙)


すべての伝記は非生物的であり、不衛生的である。


(沈黙)


すべての生物は、決して伝記を学んだり漏らしたりすることを強いられてはいけない。


(沈黙)


すべての偉大な伝記は反コスモポリタン主義である。

つまり、すべての偉大な伝記は、そしてすべての謙虚な伝記も、それは、個人の小さな痙攣のようなものである。

小さな痙攣。


(沈黙)


賢い痙攣、軽薄な痙攣、

未熟な痙攣、

同情的な痙攣、神の痙攣、

わずかな痙攣、生存の痙攣、

健康的な痙攣、

不健康な痙攣、

動物的な痙攣、

従順な痙攣、植物的な痙攣、

自己卑下の痙攣。

いや、

伝記には全身全霊の自己卑下の痙攣はない、

ない。


(沈黙)


彼らはいつもこう言った、無駄に年をとってしまったと。

空しく老けたと。

老けた、悲しい。

私の先祖は、彼らの悲鳴と共に。

『私は年を取りすぎた!』

『私は死にかけていて、不幸だ』

彼らはその一連の言葉を唱えた、

永遠に、

永遠に、

気をつけて、私の愛しい枕よ、

彼らは老いの兆候に怯えていた、

乾いた言葉に、永遠に、

永遠に。

彼らは叫んだ、

「私は年を取りすぎた!」

「私は死にかけていて、不幸だ」

「犬よりもひどい扱いを受けている!」

彼らはその言葉に向かって突進し、

その言葉を通して自分自身を嘲笑した。

まるでそれが彼らの一番好きなお菓子のように、

空腹のときには私は年を取りすぎた!と叫び、

死にかけていて不幸だ!と叫び、

寒いか暑いかのときに、

あちらこちらにその言葉を投げつけた-

「私は年を取りすぎた!」

「私は死にかけていて、不幸だ」

あちらこちらに。

確かに彼らは少し気難しく、倒錯していた。

そう、彼らは倒錯していた。

食物に対する飢えには触れず、結局何も欲しがらなかった。

ただ望み、同時に拒絶していた、一斉に。

ただ未知の何かを望み、未知の何かを同じ努力で拒絶したのだ。


「私は年を取りすぎた!」

「私は老いて死にかけている!」

叫び、叫び、あるいは雲のように静かに呟きながら、そういった言葉を発した。

「私は年を取りすぎた」

「私の臭いは死の兆候だ」

など、など、など、など、など、

続き、

などなどの流れ、さらなるなどなどが、

実際の終わりに遭遇するまで続いた。


おそらく、まだ煮え立っている、原子のように緩やかに。



彼らは身体の感覚が本当の原因ではなく、老い、つまり魂の老衰、揺らぐ心が原因だと思ったのかもしれない。

それこそが背後にあるものだった、

背後に、さらにその奥底に。

だから、身体は操り人形に過ぎず、陳腐な存在だった。

学問的に引用されて説明された操り人形。

それが最も人間らしい円形。

あの陳腐な心身問題、あの陳腐な二元論。


いやいや。

彼らは決して自分たちを鈍い人形だとは思わなかった。

もし何か気にしていたことがあったとすれば、それは他人を怒らせることと、その見返りに怒りを受けることだった。


運が悪かった!

私の愛しい枕よ、それは…


(PERSONは気まずい沈黙に陥り、そして-)


私は年を取りすぎた、

私はどんどん年を取っていく、

なんと、私はすでに年を取りすぎて、身体も心も萎縮している。

かつて私は若かった—

いや。

私は伝記を信じない、何を示すのだ?、過去を否定する。

いいえ、この言語は私が否定したいものを無効にするにはあまりにも無力だ。

私は過去を否定する、操られた過去を。

ここで私は主張する、私は、今の私は、このみすぼらしい古びた類人猿、これだけが私だ、それだけだ。


それでも、私は知っている、私もまた操られていると、

私は以前と同じくらい操られている。

私の愛しい者よ、これまで私がしてきたことは、ただの嘲笑に過ぎない、

この瞬間、私自身、この演劇、この不動性に対して、

この演劇、演劇ではあるが、会話も歴史も価値もない。

これは混乱した時間だ。


道具は他の道具を知らず、すべての道具は自分が道具であることを知らない。


なぜ私はここに留まり、こんなに長く話しているのか、

ここで、そこではなく?

ここ以外のどこか?

受け入れられない。

私の精神状態はそれほど致命的ではない。

とはいえ、ここ以外の部屋?

受け入れられない。

そこで何ができるのか?

ここではなくて、そこ。

そこでは何の益もなかっただろう。

代わりに、あらゆる種類の恐ろしい精神病が待っていたはずだ。

ここでは、せいぜい幾つかの精神病にしかかからなかったが、そこでは、すべての精神病が一度に、すべて同時に。

全てが、一息に乗って…

人々は魅力的だ!

人々は先天的な能力で親しい者を集め、

その先天的な能力によって、

人々は人々を構成し、人々を抑圧する、

すべて同時に。

その先天的な能力によって、

人々は個人を作る。

人々は素晴らしい。

人々を憐れむ方法や理由は数え切れないほどある。

誰かが他の誰かを憐れみ、誰かが他の誰かから同情を受ける。


誰が何に対して憐憫を感じるのか?

憐憫は記念品なのか?


人々は素晴らしく、それは良いことだ。

しかし—

どうして人が素晴らしくならないことができるのだろうか。


人はある程度、素晴らしくならなければならない。

そう、愛しい枕よ、「素晴らしい」という言葉は、最も適切な言葉だと。

人類は「素晴らしい」という言葉なしでは生きられなかっただろう。

それはおそらく—

おそらく、動脈の中の破片を柔らかくするようなものかもしれない。

「素晴らしい」、良い言葉だ、空虚だ。

聞こえは空虚だ。

おそらく空虚ではないかもしれないが、意味的には、時にはそうかもしれない、

多くの場合、何も確保しない、

その言葉、「素晴らしい」。

「素晴らしい」

「美しい」

壮大な感嘆詞。

「素晴らしい」

「美しい」「素晴らしい」「ファビュラス」

その記念日的な感動詞、

何度も言葉を発音するのが好きだ。

音を抱きしめて、

口蓋に触れる舌の音、

口腔からの音、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ


カン、カン、カン、

カン、カン、カン、

カン、カン、カン、

カン、カン、カン


普通の会話では、声の細かいニュアンスを楽しむのは難しい。

音をやり取りする個人たちの行為は非常に危険なものだ。

普通の会話では、習慣の出入りが活発し、日常的なものとしての受け入れがある。

「はい」か「いいえ」か。

ありふれた、「はい」か「いいえ」かだ。

しかし、そこに同時に普遍的な奇妙さも存在する。

それは「はい」そうして「いいえ」だ。

「はい!なのか いいえ!なのか」は「はい!そしていいえ!」の中心に、隣に、位置している。非常に危険だ、

非常に。


(止まる)


声の分け合う、そうだ、配当された声。

あらゆる会話で、最終的に私たちはどこかに行き着く。

どこか決まりのないところに。

くだらない会話が進むうちに、関わる人達は負けたくないと心構えを持つ。

くだらない。それにもかかわらず、誰かと話すことになるんだ、

そうだろう?

少なくとも、自分自身と。

それはおそらく恒久的な欠陥だ。

一人が出す一つの発言。

敵のない。

一人だけが発する返答のない発言、敵も、対抗者も、友もいない発言、

それを独白と呼ぶのだろうか?

聴き手のない独白なんて、滑稽だ、自己欺瞞だ。

誰もいない? そんな馬鹿な!

聞く者はいるはず。


私の声を聞く唯一の方法は、意味のないことを言うことだけだ。

「他者と共に」も「自分自身と共に」もなく、

コミュニケーションの倫理を可視的に破壊し、

ただ意味のないことを言う、

守るべき事柄は声を通じて非倫理に生まれ変わる。

私たちの唇はは膣だ。

ただ意味のないことを言う、

クラン、クラン、クラン、クラン、キック、キック、キックカック、ハハハ、フフフ、チチチ、クランラン!

対話を何度も繰り返し、無駄に、

すべて、すべて、計算を超えて繰り返す。


(沈黙)


いや、

私は自分の声を持っていない。

これは非常に真剣な対話だが、私には声がない。

声は必要ない。

おそらく、どんな声も考えない方がいいかもしれない。

声は欲しくないからだ。

本当に?

確かに、

他者の中で自分の声を集めようとすればするほど、

聞こえてくるのは自分のものではないものばかりだ。

自分のものではない、何もかも、自分のものであるべきものだが、すべてが。

クランクラン、そして、ランランランラン、キックケッく、自分のものではない、結局。

敵とは誰か?

親愛なる、あなたの最良のライバルは誰なのか?最も嫌な相手は?

空気? もしかすると、最初からそうかもしれない。

チャンス?

こんにちはやさようならを言うこと?

挨拶、それがあなたの魅力的なライバルなのですか?


突然のノック、かすかなノック、それからまた色んな形のノックが続く。

PERSONはそれに応答しない。



3.この劇が劇であることはすでにわかっている。


しかし、いずれにせよ、PERSONはその予期しない(あるいは予期されたかもしれない)ノックには応じないだろう。


PERSONは、周囲に誰もいないかのように、観客も見守る者も、先ほどノックした者もいないかのように、そのままの状態でいる。


これから、絶対的な外部者の声が部屋に侵入してくる。

私たちの便宜のために、この声を「VOICE」と呼ぶことにする。

私たちはこれから、VOICEの声を聴くのだ。形態は現れない。

その声に関しては、あまり多くの情報は要らないだろう。それは単なる声であり、この声はPERSONの声と明らかに異なる。「VOICE」の現れは無限で柔軟で、PERSONよりも扱いやすいはずだ。


(今これを書いている人は日本人ではありません。そのため、完璧な口語表現やフレーズを使うことはできません。もし誰かがこの役を引き受け、原文のいくつかの文が「良くない」と感じた場合、その人自身でいくつかの言葉を調整する必要があるでしょう。)


声の音色、VOICEの音色は、すべてのVOICEに対して常に同じであることは不可能だ。

VOICEはあなたや私、あるいはPERSONであり、

いや、VOICEはPERSONではない。

本当に?

無限に、無限に。



VOICE

ノック、ノックー

聞こえますか?中にいらっしゃいますよね?

まだ出てないじゃないですか?

聞くまでもないけれども、あなたがそこにいるのは分かっていますよ。

静かだから。

あなたの玄関はずっと静かだったから。

だからいつものように確認する必要さえなかったわけですよ。

普段は…。

でも静かでした。 あなたは今頃出ているのが正常なのに。

あなたの玄関のドアは、蝶番がかなり錆びていて古い音を立てるからです。

玄関の戸だけでなく、すべてのドアや窓が、

あなたのすべての蝶番が腐食しています。

近所のドアの音、軋みを聞く以上に恐ろしいことはありませんが、

あなたのものたちは一体容赦のない。

すべての接合が錆びているに違いありません。

あなたは時間の流れに興味がないようですが、

あなたの住んでいるところ、隅々まで腐って、錆びて、他の人の心と意識を汚します。

あなたは有害だ.

あなたはね、バラバラになって、もっともっと、粉々になり続けるんだ。

もっと、もっと、もっと。

何の役にも立たない。


端的に言うと、あなたをいつも聞こえているんですよ。

いつも開いているんですよね。24時間、夜昼。

すっかり開け放しているのではなく、躊躇するように。

でも、その賢い隙間からいろんなことが出て来るんですよ。

いろんな独り言が、色んな孤独が。

弁明させていただければ、単にどうしようもなかったのです。

窓を閉めることができず、家に新鮮な空気を取り入れなければなりませんから。

空気の質が肝心なんでしょう。

私は自分の空間をしっかりと管理しています。

室内の空気に執着しすぎると思われるかもしれません。

でも、私はほんのわずかな不便な匂いも許せません。

不便な匂い。

不決な。

私は常に匂いを放っており、自分の物もそれぞれの匂いを放っています。その化学的な匂いを。

それに、私は自分を閉じ込めたくはありません。

それは私の権利が侵害されるのと同じことです。

私は価値がないけれども、それでも自分の権利には気を使います。

それが、私が自分を平凡だと思う正当な理由であり、自分の権利を主張する理由でもあります。

平凡な要求です。驚くことはありません。

平凡なものは要求します。

私は、ネズミが求めるほど少しのものを欲しがるだけです。

しかし、恥ずかしげもなく言いますが、そのわずかな卑俗なもの、

私が毎瞬吸い込もうとするものが、嗅ぎ取ろうとするものが、私にとってすべてです。

ネズミにとっても同様です。

狡猾な奴!

権利、人権、民権、

国への愛、そして自分自身への愛、何かの名において!

これらのどれもあなたを興奮させることはないでしょう。

私は自分を中程度の愛国者だとは言っていませんが、必要なときには愛国者になることがあります。

普段はそうではありません。

愛国心はなんて、ネズミの糞ほども持っていません。

狡猾な奴!

馬鹿だ!

まったく愚かですね、

国が民権を保証していると思うなんて。

言ってしまえば、私は自分の国を好んでいませんし、自分の国も私を好んでいません。

それでも、ここに私はいます、民権と国民の義務に縛られながら、

それでも、行動し考えるたびに、自分の権利を気にしています。

だから、窓を閉めることができません、どの窓も閉めることができません。

あなたの声を避けるために窓を閉めなければならないのはまさに不公平です。

私は常に自分の権利を、利益と損害の計算をしています。

ああー

私はだんだんと、侵害に耐えられない個人になってしまいました。

個人って呼ばれる死体に。

だから、私は閉めることができません、閉めることができないのです。

自分のためにあなたの窓を閉める権利もありません。

あなたが死肉であっても、あなたが死肉でなくても、

私が自分の手であなたの窓を閉めることはできません。

区役所や警察に報告することはできますが、それだけです。

それ以上の行動を自分でとることはできません。

誰も侵入せず、誰も侵入されず。

誰も疑問せず、誰も疑問されず。

これは過度な考えでしょうか?


もしあなたが私を家に招いてくれるなら、とても親切なことだと思います。

しかし、その招待を受けることはありません、いいえ、受けません。

あなたが恐怖に陥らないように、

私は…

あなたは…

人といるのが嫌なんでしょう?


私はあなたが話すことを手放せませんでした。

話ではなかった、独り言だった。

いや、その逆かも。

独り言の話だ。

それは、あなたの唯一の声があなたに語りかけているようなものでした、

惨めなあなたに、

世間一般の常識でいうと、大まかに言えば、

無意識から意識へ。


無意識の海から本当の知識を釣り上げる!



あなたがそんな自己妄想が欲しかったとは思いません。決してそうではないと確信しています。

分類をする、される。色んな形で、様々な方法で。

永遠に重要なものです。


音、無音

一つ、複数

人間、幽霊

ここ、あそこ

私、あなた

内、外

私の家、あなたの家

寝室、リビング

夢、現実

私の顔、あなたの顔

私の物質、あなたの物質

自分、自己

表面、内部


引き離せません。

「コインの両面」のような典型的な比喩でさえ適切ではないのです。

両面?ありえない。


意識と無意識は、間違っています、根本的に。

アイデアです。

アイデア。

アイデア…

確かに、私は自信を持って言いますが、二重の自己は存在しないのです、

分かりますか、

分かってもらえますよね、

私は、

あなたが、

理解していることを知っています、

私が言いたいことを、

私はあなたほど賢くありませんが、

しかし、適度な経験、意識、観察力を持っています。

むろん、貴方ほどではありませんが…

コツがいいと…。

でも、どうか私のことを俗物のような、

生半可な俗物だと判断しないでください。

ただの学習者です。

一生懸命、生涯に渡って、皆と同じように。

普通の人間ならではの質問、いくつかの世俗的な事柄についてですね。

しかし、私と他の学習者の間のわずかな違いは、

私は時々興奮を失い、本題から脱線することがよくあります。


(停止、もう一度ドアをたたく、注意を喚起させるためのように)


私は貴方の言葉と共に居るだけです。

容赦のない独り言、とても自由な発言です。

私を攻めてはいけません、私が貴方を攻めないから。

貴方は口を開きます。

いつも。

誰も聞いていないかのように。

私は聞きます。

あなたの言うことを聞いている私を誰も知らないかのように。

静かに聞く。

自分の部屋で、人は、こそこそ悪魔になれる。

見つからないように泣く。

私たちはいつもばれているかもしれません。

同意しませんか?

私たちは内心、忸怩たる思いで行為を変更するかもしれません。

同意しませんか?

あなたについてどう思ってほしいですか?

狂人と呼ばれたい?


(ちなみに、PERSONは外に出たり、戻ったりしている)


未知は知られません。

私たちは未知のことを言えません。

皆、言えません。

未知のことを。

私は未知のことを考えることさえできません。

貴方もです。

皆。

私たちは不可能になることはできません。

私たちは何時も可能です。

本当に。

私はそう思います。

つまり、私たちは自分自身、ジェスチャー、姿勢を確実に実行します。

つまり、私たちは自分自身にとって非常に成功しています。

つまり、私たちはとても独創的で、私たちは独創的ではないかのように振る舞っていますが、私たちはとても独創的です。

あなたは多くの本を読んでいます。知的言語ゲームはあなたの本当の趣味であり、スポーツです。

そのゲームは、あなたを潤し、私を濡らしてくれる。

日々の後はそのゲームで奇妙に変わる。

私はあなたを尊敬し、尊敬しています、それは間違いなく真実です、躊躇することなくに言えます。

あなたは本当に私が貴方を聞いていたことに気づかなかったのですか?

貴方の独断の生命力を?

それとも、あなたはとっくに知っていたのではないでしょうか?

私としてはあなたが私に気づかなかったと思うのが普通ですが、

私としては、

私があなたのドアを叩く前に私に気づきませんでした。

今思うのですが、

ノックしなければよかったようです。

貴方を邪魔した。

貴方を邪魔した。

私の決断は、ノックして、邪魔した。

あなたの部屋は今日の人々から、今日の光からの避難所なのに。

私はあなたがどう思うか知っています。

手のひらのように。

なぜなら、私はあなたの心を何度も何度も聞くことができるからです。

まるであなたが直接私の耳の中でささやくように。

何度も何度も、鮮明な声で。

切れ切れ。

その、

直前にあなたがした独白は、一貫せはあったんですが、公平では在りませんでした。

実はです、

確かに、貴方にとっても公平ではなかった。

一貫性を持つつもりはありませんでしたが 適度に一貫性のあるモノローグでした。

そうでしょう?

モノローグをうまく管理するのに苦労しました、

何よりも、あなたは自分のスピーチにとても熱心なようでした。

しかし、それが、あなたがとても熱心にスピーチをしたのが、それがこの劇を台無しにさせてしまったと。

それは、筆者が想像していたよりもはるかにあいまいで半端でした。

あなたはあまりにも緊張していて、過剰で汚い芝居を。

貴方自身全部を私たちに見せてしまった。

頑張りすぎて自分にないものまで見せてしまった。

私たちに?

私たちがあなたに耳を傾けていることをあなたは知っていました、知っていました、

知っていました、知っていました。 知っているとは思わなかったのですが、知っていました。

あなたが私たちを知っていたことを私たちは知らなかった。

知っていました、知っていました。

貴方も私たちも。

皆知っています。


(ノック、それはPERSONの注意を求めるだけであるように)


ここはですね、この芝居には初めも最後も、入り口も、出口もないです。

父はようく言いましだ。扉なし!と。

出口は存在しない!、貴方はこう言った。父と同じです。

父はそう言いながら喜びを感じました。

当然です。

出口はない、

終わりがあるわけがない。

貴方と父はそう言った。

そう、そう。

あなたと父は、演劇や場所の一部になるという考えを好まなかった。

あなたと父は、根から劇と場所を拒否しました、

それから突然、私たち、他の人たち、演劇の他の構成物、事実に近い夢を拒否することにしたのです。

あなたも、父も、父も、あなたも、私たちと一緒にいることを認められませんでした、

不条理劇の主人公はみんなそうなんです、

彼らは心を前後に変え、頼りないのです。

しかし、彼らは自分たちの存在は変わらないと固く信じています、

動かず、感情もなく、地味で、静物画のように。

精粋。

はい、精粋。

今まで私が見た、読んだ、聞いた不条理の主人公は皆同じように戦っていましたが、相手の姿も実体もありませんでした。

戦うにはあまりにも不条理だったのです。

私にはなぜ主人公は、なぜ作家は強引な否定を望んでいるのか、全く分かりません。

現実には否定しかない。

無理やり、むやみにディストピアを工夫しなくても、どんな奇抜なディストピアでも現実に比べれば非常に希望に満ちた説教だ。

私自身、私の呼吸と息遣い。

そして、彼らの不条理劇。

ディストピア、私のユートピア、そして彼らのユートピアは、すべてディストピアです。

父とあなた、そして不条理を作る者たちはありふれたものが嫌いです。

貴方は条理に唾を吐き、嘲ますね。

あなたはすべての壮大なテーマ、アニグマ、イデオロギーの前で自分自身を軽んじています。

なんて情けないのか!

あなた、そして私たちを描いている皆、

そして、不条理主義の主人公たちと、出口を否定した父よ、

権力に従い、偉大な哲学的思想の後ろに身をかがめ、偉大な印象の偉大な悪意を、

偉大な思想家たちの証言を集めている。

あなたがよく練られた陰謀を嫌っているのは明らかです。

私はあなたを知っています。

あなたはマスクを外されないように努力しています。

痛み!

痛み!

それにもかかわらず、申し訳ありませんが、私たちはあなたを知っています。

そんなに頑張って隠れようとしてもあなたは見つかる。

私たちは、

すべて真実であり、残念ながらすべて真実です。

私たちはここに集まって、それぞれの席に座っています、

ある程度の、ある種の価値のある時間を過ごすという楽観的な気持ちを持っています。

貴方は私たちに借りがある、と言うべきではないでしょうか?

私たちに対するあなたの無知と無関心、そこで行われる乱暴は、確かに私たちが貴方に期待していたものです。

無心は芸術家の技なんですね。

期待は私たちの技なんですね。

私たちは、完全ではなく、気持ちよくあなたを知っています。

あなたは私たちを知りません。

主人公は決して観客を知りません、

これは極めて効率的な前提です。

あなたの最も不愉快な表情、魅惑的な失敗は、私たちにとって最も意義のある エクスタシーを与えます。

注意してください、ああ、しっかりと注意してください、

あなたはいつでも置き換えられますので。

あなたのことも、私たちのことも、全部忘れた方がいいかもしれません、

私の窓も、あなたの窓も、カビだらけの部屋も忘れたほうがいいでしょう、

そして、あなたの対話、私の対話、私の父の古い叫びも、

出口がない!、その叫びも。

出口がない!って。

出口がない!

もちろん出口はあります。 ここに出口があります。

あとは、体を少しずつ引きずって、出口まで行くだけです。

一歩一歩。

ただ動ければすむはずです。

しかし、あなたは消えない。

この劇が終わるまで、消えることはありません。

私はあなたを知っています。

私は一般的に演劇がどのように処理されているかは知っています。

何からできて、どのように終わるのかを。

詳しく知っています。

ちょっとした欠点といえば、あなたが暗示しすぎたということです。

あなたは言葉の上に良いことも悪いこともたくさん載せてしまった。

あまりにも多くの意味合いがあったので、

この劇は退屈で耐えられなくなてしまった。

身の毛がよだつほど、

つまらない。

たえられない。

我慢できない。

許せない。

私はただその滅びを傍観することができませんでした。

芝居はますます自信をなくしていきました、

それで、私はあなたのドアをノックしました。

するために、より正確に、あなたに警告するためにあなたに知らせるために。

私はあなたのことをよく知っています。

まるで古い友人のようです。

貴方はめったに出かけませんね。

実は、私は長い間、あなたが外出するのを見ていません。

出口があります。

穴も穴だらけです。

玄関に十分な穴があいています。

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出るんだ!

いや、貴方は出ません。

お決まりです。

もう叫びます。

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

どうしようもない。

これは形式的なうるさい劇にすぎないだろう。

貴方のせいだ。

腐った!

なんて腐敗したものなんでしょう!

いつ始まった劇ですか?

なんて腐った人間なんだ、貴方は!

いつから?

10年前から?一年前から?昨日から?30分まえから?

いつからそんなに慎重になったんですか?

あなたは重なって、

重ね重ね重ね重ね重ね重ね重ね、

合わせが難しい存在になった。 ゴミ、ゴミになった。

総合しかねる。

ゴミ。

破片。

死肉は引き合う力がないゆえ、組織が溶け合え、朽ちていく。

死への進化は広がって、周りに浸透する。

怖くないですか?

私は、確かに怖いんです。

誠に怖いんです。

遺憾なく怖いんです。

だから私は自分を’安物’と呼ぶんです。

安物。

私のような人は、あなたのような人にとっては標本と見なされるでしょう。

きっと、そうはず。

あなたのような人間は何時も標的を探し出せる。

あなたの標的はあそこにある。

溢れ、うねてるよ。

あなたは標的を簡単にねじ上げる。

もちろん、あなたは絶対に外に出ない。

すべてはあなたの頭の中。

貴方ゆえの社会。

あなたは可能な物体を発明する。

公共の広場で、

貴方は狂うほど自由だが、静かにしている。

事ごとに手間取る。

独裁の病気だろう。

身体が止まる。


私はあなたを知っている。

あなたはすべてを低下させ、

すべては

すべては、仕上がった移り気。

あなたは他人の硬直や敬虔さを呪っているが、あなたこそだれよりも硬直で敬虔な人だ。

問題は、私たちが私たちの観客になれないこと。

私たちは観客であると同時に役者になることはできない。

あなたは私の観客であり、私はあなたの観客だ。


私は行く、この死んだ肉よ、私は窓を閉めに行く、

このくず。

私はもうお前の友とか観客をやめるのだ。

断言だ。

そうしたら、あなたは受容者たちの間に残ることになる。

彼らは、すでに、四方に取り囲んでいる。

可愛い養子よ。

彼らは可愛がってくれるだろう。

受容可能で、使用可能だ。


全部そろっている、この人たちは。

金も時間もなんでも出せる。

信じられないくらいの忍耐心、そして犠牲することに信じられないくらい積極てきだ。

信じられないくらいの浅さ。

良くも悪くもない。

そうだとしても、彼らを騙すのはいけないんだ。

彼らの沈黙を悪用することをあえて考えてはいけない。

彼らは文句が得意。

彼らは息の裏で呟いている、

舌、言語、非常に低いレベルで、軽くぎくしゃくし、転がします。

個人にとっては、他人は悪なのだ。

私は貴方にとって悪だ。

貴方は私にとって悪だ。

自分以外のものはすべて有害だ。

私は有害だ。

あなたも、彼らも。

自分以外の他のものは。

吐いた音声、考え、振る舞い。

全部私のものではない。

害がある。

自分と言えるものは、語られるということ自体に自分のものではない。

自分と言えられるものは、そこに害がある。

彼らの拍手は悪だ。

彼らの優しい笑顔は悪意の微笑だ。

貴方の説教も。

貴方の人格も、からっぽな熱も。

ただの変な笑顔。

どんな細かく良い人も、誰にとっては有害な存在だ。

そして、誰もが他の人と同じに見える。

すべてのものは他のすべてのものと同じ。

私は今あなたのように作っている。

猿が人のように作るのと同じように、人が猿のように作るのと同じように。

しかし、誰が誰の真似をしているかは非常に分かりにくいなもの。

私は蓄積された何かで、断片的な何か、歌、新聞、噂、おとぎ話、怒り、歓喜、インセスト、禁欲、暴れ、小物である。

今、あなたの真似をしている。

分かってくれるはず。

私の脳は、良い意味で、明晰な方法で揺れているんだ。

あなたなら分かってくれるだろう。

私は残酷で、残酷で、露骨に見えたくなた。


(沈黙)


私はこの瞬間をきっと忘れないだろう、あなたと、こうして対話をしているこの瞬間を。 私はあなたに心からの意見を伝えていて、あなたはその静けさを返してくれている。

これが、私たちの徹底したコミュニケーションだ。

一方的なものではないんだ。

なぜなら、私はあなたがそこにいることを知っているからだ。

私たちはみんな、あなたがそこにいることを知っている。

私たちはみんな、あなたが私たちの声を聞いていることを知っている。

私たちはあなたを見るためにここに来たんだ。

そして、この劇が良いか悪いかを判断する。

良いか悪いか、良いか悪いか。

なんて単純なことだと思わないか?

あなたは監視されている、とても単純でクリーンな形でね。

もしかしたら、あなたは逆だと思っていたかもしれない、つまり私たちがあなたのターゲットだって。

でも、違う違う、それは全くの誤解だ。

おそらく―

うまくいけば、あなたは選ばれるだろう。

拒否する権利なんて持っていない。

あなたは定められた形であり、採用されることになっている。

なぜなら―

物は展示されるために存在するのだから。

そして、物であるためには、物として振る舞わなければならない。


プチなオブジェ、

プチなあなた、

プチな新しさ、

プチなパーティー。


うまくいけば、あなたは選ばれる。

ここで、疑わしい疑問!

我々はオブジェについて何を知っているのだろうか?

ああ、私はただ、あなたが言ったことを言葉にしているだけだ。

聞きすぎたから、もうあなたのことは分かっている。

もう少ししたら、私はここを出る。

結局のところ、あのカードの家、あなたのカードの家、

そして私のカードの家も、すぐに崩れ落ちるだろう。

外的な力によるのではなく、私たち自身の力で、

生まれながらの暴力によって。


何が証明されていたというとー

事態は明らかだ。

完全性を維持するために、いくつかの部分が削除されていることが。

カードの家が崩れ落ちるなんて、笑えるだろ。

何にも建てられていないのに。

何を押し破るんだ?

何も作られていないのにさ。

何が何を殺すのか?

何も居ないのに。

存在していないものが同じく存在していないものを。

次に来る何かに対して特別な期待もない。

話すのをやめた方がいいよ。

人間の特異性なんて!

私のクソが私の本質だ。

私の体の中の寄生虫、それが私の本質なんだよ。

何がカードの家だ!

何が無限かというと、

それは無知だ。

無知だけが、唯一無限なんだ。

無知以外のすべては有限であり、知は無知に勝てない。

時間は無知によって、意外性の皺として身もだえる。

ねじりねじって―



(間)


申し訳ない、少し興奮してしまったみたいだね。

誰かと話すたびに、どうしても緊張が高まってしまうんだ。

最近では、生きている人と話す機会がほとんどなくなってしまった。

私にも、数少ないけどいい友達がいたんだ。

むしろ、私たちは小さな部族のような感じだった。

中には支配的で強力な者もいれば、比較的弱かったり、隠れたり、従順な者もいた。

それは社会化の一環で、私たちは悪い関係ではなかった。

口臭が混じり、日々午後がやってきた。

私たちは別れた瞬間、一安心したが、すぐに不安になってしまった。 明日はすでにそこに待機していたわけだ。

慢性疾患のように。


(間)


今日のお天気は、心地よくて厳格な日差しが続いています。とっても魅力的な日。

あまりにも明るいので目を細めなければならない。とても明るい。

ただ、今の時期にしては暖かくないと思いますね。

今年は何年だっけ?

今は何月でしょうか?

今はどの季節でしょうか?

まったく、私には何が分かるのでしょうか?

ただ一つ、ここが通路のない子宮だということだけは確かに分かります。

なぜそれ以外のことが何も分からないのでしょうか?

いつも何かが私を引き止めているんです、何かが——

今日は何日でしょうか?

今日は何曜日でしょうか?

もう晴れていることも、

あなたがそこにいて、私がここに立っていることも信じられません。

私は一体何者なんでしょう?

この劇の中で、ただ数分間汗を流して働く労働者に過ぎないのでしょうか?

この劇は、自分自身についてあまり理解していないようです。

この劇の作者は、私たち自身について何の手がかりも与えてくれていないようですね。

私たちは名前もなく、性別もなく、時間も年齢もなく、地域もなく、そして自己さえもありません。

確かに、私たち全員——

あなたも、私も、観客も、採用者も、制作者も、

皆、無名の装置のように扱われています。

かさばる装置のように。

いたずらっ子、

いたずらっ子!

まったく。


(足が、誰か――おそらくPERSONの――足が舞台に少しだけ突き出る。その後、引っ込む。)


作者は私たちをどこにも向かわず歩かせている。

この劇で、

主な形として行われているのは、あらゆるつながりを断ち切り、

支配感を高めることにある。(でもそれは誰のため?)

作者はできる限り少ない情報でこの劇の時間を満たそうとしている。

なぜなら、暗示の美しさが最も重要だからだ。

しかし、その美学を気にしない私たちは、

できるだけ多くのヒントを聞いて、この劇が何を言いたいのかを正確に知りたい。

もしくは、その逆で、言葉をさらに並べたいのは作者で、

私たちは、長々とした説明を拒み続けているのかもしれない。


とにかく、この劇は厄介なものだ。

とにかく、私たちにはまったく関係ない。

とにかく、意思疎通は不可能だ。

とにかく、人生は短い。

たとえ私の人生が特別に長くても、

それが本当に長いとは感じないだろう。

死がある限り、人生は短い。

もし死がなければ、人生自体が死そのものになるだろう。

だから私は、永遠の死よりも短い人生の方が良いと思う。


いいえ、もしかしたらそうではないかもしれない。

生まれない方が良かった。

生まれない方がいい。

しかし、すでに生まれた者にとっては、死なない方が良い。

なんてシンプルなことだろう?

なんてシンプルで狡猾なことだろう?

なんてシンプルで官能的なことだろう?

エキゾチック?

誰もが自分の人生を引きずらなければならない。

私の引きずる人生、あなたの引きずる人生。


これは良いショーではありません。

何かを言っていますが、今日が何日なのかは教えてくれません。

私たちには「今日」がありません。

とてもいたずらですね。

私たちの軽蔑すべき友よ。


いつか一緒に劇場に行きましょう。

今週末はいかがですか?今月の終わりにぴったりです。

毎月の記念日としてその日を決めましょう、どう思いますか?

毎月の終わりに劇場に行くこと。

あなたは心理的で言語的なものを覗くのが好きですか?

原始的な動きはお好みではないでしょう?

おいでください、きっと何か共有できるものがあるはずです。

お互いに確認し合えるものが。

全部見逃したくはないでしょう。

私が言ったことを覚えておいてください。

私はあなたのことを知っています、窓越しにあなたがおっしゃっていたことを聞いていました、私は。



VOICEの声は消える。



4.私の苦い唾液。


苦い、なぜだ?、私の味覚神経がおかしいのか?それとも、私の心が苦い状態なのか?


PERSONが、自分の場所、部屋、空間にティーカップを持って入ってくる。

PERSONは、以前と同じ人物かもしれないし、少し変わったか、全く別人かもしれない。

PERSONはお茶を一口飲む。

椅子の上にある女神像(もしくはクッション)が気に入らず、蹴り飛ばす。

代わりに、PERSONはその椅子に座る。

『'Maria Teresa Vera- Veinte años’ 』が約10秒間流れ、突然止まる。

PERSONは、なぜ音楽がそんなに早く終わったのか不思議そうに周りを見渡す。

PERSONは床をしっかりと踏みしめ、穏やかだがしっかりとした低い唸り声をあげる。

PERSONが立ち上がり、ぼんやりとしながら、何か言いたげに唇を動かし、荒い呼吸をしている。

PERSONは再びお茶を一口飲む。

静寂。

PERSONは椅子に座るが、突然飛び上がる。まるで棘に刺されたか、妙な冷たさを感じたかのように。

PERSONは再び椅子にクッションを置き、今度はその上に座る。お茶を一口飲む。

PERSONはお茶をすすりながら、舌でマグカップの縁を触れている。


(PERSONの行動に対して何も説明を書きたくなかったが、詳細な指示をいくつか書いてしまった。本当に後悔している。)



PERSON

もうオナニーはしない、年を取りすぎた。

何年も…

最後にオナニーしたのは、何年も前、いや、何十年も前だ。

全然やる気が起きなくて、何年も、何十年も。


頭が痛い時はゆっくりこめかみの周りをマッサージする。

ゆっくりと、引っ張りを中和させる。

おでこやこめかみをこすって、痛みや緊張を和らげるんだ。

その機知に富んだ緊張、ひどい緊張。

しばらくそうすると、痛みが和らいで、頭痛が消えていく。

頭皮をこすってるだけで。

いつもそうなんだ、そうなんだ、非常に。

非常に。

その後、痛みが少し和らいだら、

残ってるちょっとした痛みはケーキみたいに甘く感じる!

素敵だね、愛しい痛み。

厳しい痛みは甘い痕跡に舞い落ちる。

動物が気になる場所に触れるのは本能だ。

イライラするところ。

犬は傷を舐める。

変な感じがする場所を舐めたり、かじったりするのは、まさに純粋な反応である。

私はある対象をみなければならない。自分の意志は体に届かない。

サイレンの音、たぶん窓の外を見るだろう。

だぶん。

だぶん。

かゆいところを掻くように。

赤ちゃんは鏡に映った自分を触ったり、叩いたり、舐めたりする。

赤ちゃんは鏡に映った自分に口づける。


もう睾丸のあたりにかゆみなんて全然感じないんだ。

生殖に関する臓器や精神力はもう、

何の形もなく、形を与えてくれることもない。

ちくちくする背中を掻くんだ。

でも、もう睾丸のあたりにかゆみなんて全然感じないんだ。

全然。

全く。

全然。

いや、もう全然そんなことはないんだ。

年を取りすぎて、生殖器も俺のことを恐れているに違いない。

昔は、よく文章を読んでいるときに、習慣的に股間の毛をいじってたんだ。

眠くならないようにするためにね。

嫌だと思ってたのに、気づけば毎晩、例外なくそれをやってたんだ。

毎晩ベッドでね、毎晩。

毎晩ベッドで本を読んでたんだ。

非衛生的だって分かってたのに、ついさりげなくやってしまった。

毎晩ベッドで本を読んでたんだ。

その本は、不愉快な作家たちの、気が抜けるような言葉ばかりで、

ぐらつく作家たちと、そのぐらつく本を読みながら、

俺は股間の毛をいじってたんだ。

毎晩続く楽しみがあったのに、気づいてなかったんだ。

本を読むことと、股間の毛をいじることを同時にやるのが、

どれほど素晴らしいことかなんて、まったく分かってなかった。

ところが今日はもう年を取りすぎて、老いて、死に向かっている。

自分のことさえ、ろくに世話できないんだ。

読むこともできない、考えることもできない。

書くこともできないし、期待することもできない。

憎むこともできないし、愛することもできない。

単純にもなれないし、複雑にもなれない。

無味乾燥にもなれないし、興奮することもできない。

善人にもなれないし、悪人にもなれない。

愛想よくもなれないし、感じ悪くもなれないんだ。

宗教的にもなれないし、無宗教的にもなれない。

祈る方法もわからないけれど、祈らなければならない。

誰に、何に祈るのかもわからないけれど、

誰か、何かに祈らなければならない。

何かのために祈らなければならない。

祈ることの意味など、まったくわからないけれど、

祈らなければならない、まるでゲームのように、儀式のように。

祈ることに逆らうために、祈らなければならない。

そして、それによって何も成し遂げられない、

何も意味することはない。

(どうして何かが何か別のものを意味することができるのか?)


自分自身を観察することは、なんだかエキゾチックだ。

「私」、

「自分」、

「人間」、

「存在」。

「私」

「自分」。

小さな「私」と大きな「私」。

「自分」のない「私」。

「私」、

「自分」。

「私」と「自分」は、これまで以上にエキゾチックなものになり、

やがて自分にとって完全に見知らぬ存在になっていくのだろう。

実際には過去を評価している。

「前」という堂々たる名詞、それが嫌いだ。

嫌でたまらない。

「前」、復讐の昨日、過ぎ去った日々、それが嫌いだ。

そして、明日というものはすべて恐怖だ。

当たり前の戯言にすぎない次の日々、それが恐怖。

嫌でたまらない。

でも、もう次の明日が訪れることを願っている。たくさんの明日が来ることを。

たくさんの明日が欲しい。

どれだけ多すぎるほどの明日があっても、それで十分だとは決して思わないんだ。

しかし、どの明日も恐怖に等しい。

次と明日はすべて役に立たない。

どの明日も、昨日に消し去られる。

そう、そう。

そう。

昨日は、今オナニーをしていないことを非難するだろう。

昨日は、私があまりにもぐらついていたと攻めるし、「その時はあまりにもぐらついていた」と言うだろう。

昨日はそう言う、それがやつらのやり方だ。

それこそが、やつらが時間に寄生する方法なのだ。

それは呼び寄せる、呼び寄せる、

泡を飛ばした昨日のもつれた塊を——

コケコッコー

コケコッコー

まるで機械的なルーチンのように、

コケコッコー

私が吐き気を感じなければならないことについて吐き気を感じる。

この嘴はだれのものなんだ!

昨日は今を拒むだろう。

チューチュー

チューチュー

明日は昨日を詐欺師だと言い、

昨日は明日を詐欺師だと言う。

すべての安っぽい明日はすべての昨日が安っぽいと言い、

すべての安っぽい昨日はすべての明日が安っぽいと言う。

すべての詐欺は結果的に安っぽい。

今日、私のオナニー不足は、

言うまでもなく、それはみすぼらしい策略、

みすぼらしい策略、

みすぼらしい策略だ。

「みすぼらしい」という言葉は、たぶんみすぼらしく聞こえる言葉だ。

みすぼらしい策略。

素晴らしい。

その欺瞞に逆らうことができればいいのに、

すべてが嘘だということは知っているから、

知っているすべての嘘が偽りだということも。

すべての知られた嘘は、すべての知られた真実と同じくらい疑わしい!

そう言おう、そう言おう。


(止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、PERSONは止まる)


しかし、この、今日の、オナニー不足の体は明日へ向かうのだろう。

もっと足りない肉体が。

衝動なし。

かゆみなし。


私たちは皆、あらゆる巧妙な手段に屈しなければならない。

長期的な巧妙な手段、短期的な巧妙な手段、

理解できるもの、理解できないものも含めて。


その詐欺師たちは偽の人格を売りさばいている。

偽のものを、偽物たちの間で回しながら売りつけ、

子どもたちを偽の子どもに染めていく。

そして、自分が詐欺師ではないと思っている連中は、

その詐欺師たちが一体誰で、どこにいるのか、

一体全体どこにいるのかと、疑問に思っている。

一体誰が詐欺師なんだ?と、私たちは自問する。

詐欺師を人々の中、物の中から探し出そうとする。

偽物を作る連中を、本物らしく見える偽物たちの中から狩り出そうとする。

滑稽なことに、時として狩る者が他の狩人たちに狩られるのだ。

これがまた、コメディーであり、同時に悲劇でもある。

もしかしたら、私もその詐欺師の一人なのかもしれない。あるいは、その予備軍か。

全ては、私自身の詐欺を正当化するための巧妙な詭弁に過ぎないのかも。


かさばって重たい虚栄心。

虚栄心、

虚栄心。


(PERSONが座る。ゆっくり、それとも急に?)


今更思い出すことー

私は色んなことをして来た。

そして、私がしたことはすべて純粋な善意だったわけだ。

でも、私は台無しにした、完全に台無しに。


物は、決して善意から行動しない!

生きているか死んでいるかに関わらず。

物は行動する! 行動する!

物は何か別の理由から行動することはない、

物は行動し、

それ以外のすべては策略、煙と鏡、

あるいはみすぼらしい逸話、

言ってしまえばみすぼらしいバラード。

でも、物語は大歓迎だ、

私たちは自由なものを歓迎しないが、

物語の中にあるものは歓迎だ。

しかし、物語の中にあるものだけだ。

絶対に、

絶対なものは、

絶対に、絶対なものは。

(良い沈黙の一撃)

私は今、哲学を論じているわけではない。

哲学的な驕りは、私の中深く根付いた手法だ。

芸術には手法しかない。

私はその哲学的な驕りから解き放たれる必要がある、

なぜなら、私は自分の人生における哲学的な驕りのイメージを求めているからだ。

私は哲学的な驕りそのものの具現化でありたい。

物語は物を支配する!

いや、物などない、

自分を物として知ることはできないけれど、

その動機を聞き、その物語を聞く。

私は哲学的な驕りそのものに!

私の人生には何もなかった—

しかし、その哲学的なダニになれるという希望だけがあった。

それしか何も持っていなかった。

(良い沈黙の一撃)

血縁関係の美徳?

(『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、30秒後には消えてしまう。)

夢にも思ったことはない。

まったく、ない。

家族を作ろうなんて、

そして一旦の絆をつなぐために残酷になるなんて!

夢にも思ったことはない。

まったく、ない。

すべての子供たちは

やがて成長して

その運命は薄く、狭い。

子供たちはほんの数種類の人間にしかなれない。

彼らはゴミになるか、ゴミ箱になるか。

怪物になるか、小さな頭脳になるか。

ゴミかゴミ箱か。

もし子供がいたなら、彼らに尋ねただろう。

「ゴミになるか、モップになるか、どっちを選ぶ?」と。

すべての親もまた、ゴミかゴミ箱だ。

ゴミになるのが得意な親もいれば、そうでない親もいる。

ゴミ箱になるのが得意な親もいれば、そうでない親もいる。


先祖と子孫。


そんなことはできなかったんだ!

そんな運命に耐えられるかどうか、自信がなかった。

家族を持つということは、一緒に自殺するようなものだ。

そしてー

誰とも繋がらずに一人でいるということは、

一人で自殺するようなものだ。

一緒か、一人か。

私は後者を選んだ、ずっと前に。

ずっと前に。

血縁なし、

そうそう、

血縁なしってこと。

遺伝なしってこと。

遺伝なしってこと。



あらゆる手段を使って、自分を絆の恐怖から守ってきた。

あらゆる方法で、絆、束縛の誘惑に抗ってきた。

誰も何も軽蔑したくなかったから。

結局、接したものすべてを軽蔑してしまったから。

人も物も、全て。

あらゆる関係があらゆる出来事を生み、

あらゆる出来事があらゆる不規則と規則、規則、集団的な出来事を生む。

しかし、もともと規則も不規則もなかった。

すべては言葉、すべては口の中にある。

すべては言葉——

親は言葉で子を磨く、言葉は彼らを摩擦だ。

自然に、あるいは不自然に、

すべての子供は怪物か小さな心になる。


私は怪物か、それとも小さな心なのか?

そう問うべきだ。

ずっと自分に問い続けてきた。

同時に、その問いを避けようともしてきた。

ずっと、私の人生を通して。

その問いが、まったくもってくだらないと、自分を責め続けてきた。

私はゴミなのか、ゴミ箱なのか?もしかしたらその両方かもしれない。

くだらない、そして有害だ、その問いは。

なぜなら、偏見は軽蔑すべきもので、分類も同じく。

私は二元論が嫌いだから。

でも、「二元論が嫌いだ」と言うこと自体、まさに完璧な二元論ではないのか?

言葉遊び。

もう、くだらない言葉しか出てこないんだ。

ゴミか、ゴミ箱か。

怪物か、小さな心か。

分類は、どのみち偏っている。

どのみち、

どのみち。

あらゆる分類にアレルギーがある。

それでも、あらゆる分類を探っている。

その苛立たしい行き来は、

おそらく、私の人生の創造なのだろう。

そう、たぶん。

直立することは不可能だ。

そう、まったく不可能だ。


時々、この場所、私の部屋は私を麻痺させる。

まるで、誰かが誰かに暴露したいけれど、

最初から暴露する秘密がないかのよう。

この誰かはただ熱を消費したいだけ、そう、ただそれだけ。

私たちは皆、ただエネルギーを手放したいだけ、そう、それ以上でも以下でもない。

(しばらく言葉を止める)

影響から抜け出そうとする子供は、決してその希望を現実にすることはできない。

その影響を考えれば考えるほど、子供の人生や心の中で、その影響はますます絶対的になるわけだ。

同様に、すべてのルールを撤回しようとする者も、すべてのルールを無視することはできない。

すべてのルールに常に関心を持ち続けなければ、

すべてのルールを排除するためには、

すべてのルールに興味を持ち続けなければー

慢性的にルールに興味を持ち続けなければー

(しばらく言葉を止める)

考えること、それが殺人者だ。

自分が考えられると思うことこそが、本当の殺人者だ。

自分が考えられないと思うことは、実際の殺人者だ!

(しばらく言葉を止める)

彼は言った。

芸術はやるな、

哲学もやるな、

宗教にのめり込むな。

真理を渇望するな。


でも、嘆け。


でも、嘆け。

彼はまるで自分に言い聞かせるかのように、私にそう言ったんだ。

その時、彼は60歳、いや、61歳だったかもしれない。

私は20代後半、あるいは30代に入った頃だった。

彼は時々、精神安定剤を飲んでいた。

トランキライザーって言ってた。

普段は普通だったけど、たまに薬を飲むことがあったんだ。

彼の両親も同じようにトランキライザーを飲んでいて、

そして徐々に、彼の親戚全員が驚くほどの量を飲むようになったんだ。

彼の兄弟、妹、甥や姪、みんなそうだった。

彼は泣かなかった。代わりにトランキライザーを飲んだ。

人生を受け入れる代わりに、彼らは肉体の平穏を選び、

巨大なトランキライザーのタンクの中でもがいていた。

誰もが行動する代わりに、

徹底的に先回りして何かをすることをやめていた。

先回りして、

先回りして、そう。

徹底的に、曖昧さへの恐怖、明日への恐怖に捕らわれていた。

泣くことも、悲しむこともできたのに、

彼らは永久に活動を停止させる甘い薬を飲んだんだ。

永遠に、永遠に。

それじゃあ、私のトランキライザーは何なんだ?

臭い口の中をゆすぐための密かなデザート。

この劇か?

この独白、さらに酷い悪臭を吐き出し続けるこの独白!

始めるべきじゃなかったんだ。

生まれるべきじゃなかった。

こんなことを始めるべきじゃなかったんだ。

もしかすると、もうその時が来たのかもしれない。

今こそ、それをやる時だ。

いや、それは違う、絶対にそうはならない。

いや、いや、どんな犠牲を払っても、そんなことはしない。

今はもうあまりにも枯れていて、何かに反抗することはできない。

今は自分に逆らうには遅すぎる。

自分を捨てるなんて、全くナンセンスだ。

それなら、ここに座って、これやあれについておしゃべりする方がましだ。

ここにあるものと、あそこにあるもの、

良いものと嫌なもの、

空虚なものと豊かにあるもの、

馬鹿なものともっと馬鹿なもの、

どれだけ愚かで、どれだけ人工的なのか、

そのようなことを延々と。

それが私の嘆き方だ。

これが私の哀しみ、

精神安定剤は要らない、

私は嘆く!嘆きの声。

(PERSONはマイムで薬を飲む。)

私の叫びは順調に働いている、何の問題もなく。

長い動詞急に手が震えた。Nはしばしば色々な状況で奇想天外な対話を交わしたが、それはNの中から出て、実際に発音されることが一度もなかったので、薄い独り言と似た薄い演劇に過ぎなかった。私は未熟だったとNはいつも後悔していた。Nはいつも未熟なままだった。晩飯を急いで済ませようと、彼女は震えていた。

ノック。Nを訪ねてくる人がいるわけがなかった。誰だろう?Nは反応しなかった。動くこともできず、立ち止まったまましばらくした。再びノック。今度は4回叩いた。狂ってしまったね、Nは思った。ついに完全に狂ってしまったかもしれない、と。すべての女性は精神的に半分狂っている、と。狂気には理由がない、と。遺伝子と積もった歯石の細菌から、育ち環境と気候、そして目に見える神と見えない神まで、その原因という物語は常に繁殖を続ける、とNの中である人が独り言で言った。理由のためだ。理由という単語が存在してから自己表現は滅失し、言葉そのものだけが生命のしるしになってきた。断言、そして確信のふるまいは時代的肉体の褒美だが、精神に無理をかける。

狂ってしまった。

しかし、狂気そのものはにわかに表れた事ではなかったので、肌の裏側からじわじわと染み出る熱気が、あるきっかけによって感じられるようになったように、彼女は寂しい気持ちになった。排泄するまでほんの一瞬が過ぎてから支離滅裂な否定が引き続くだろう。ごくわずかの生きる瞬間が過ぎてから、長い長い瀕死が;Nは狂ってはいけなかった。

Nは芯のない対話が、同じく芯のない対話を掻き立て、はてしなく開き続ける窓のように、内から外に、外から内に分裂するのを黙って聞いた。それは嫉妬、命令、笑い、悲劇、雑談、一体感、同情などの内容だった。

「最近、髪の毛がめっちゃ抜けるのよ。」

「人それぞれなの。」

「病原菌が5時間以内に鼠径部から臀部に広がるというのは、非常に速い進行速度です。一般的な細菌感染では、これほど急速に広がることは稀です。感染症の進行速度は病原菌の種類や患者の免疫状態などに依存しますが、鼠径部から臀部、そして生殖器にまで感染が広がるというのは、通常の感染の広がり方としては異例だと。特定の病原菌や状況、例えば、劇症型の感染症や特定の細菌でない限り、このような広がり方は一般的ではありません。感染が生殖器に永久的な障害をもたらす可能性についても、具体的な病原菌や感染症の種類に依存します。一般的な細菌感染では適切な治療を行えば永久的な障害を避けることができる場合が多いです。」

「あれだよね、あれ。」

「現在だよ、現在。過去ではない。」



0.前文


そこに誰がいるのかな?

誰?または何?

そこに何があるのかな?


一人の人間がいる。その人は非常に年老いて見える。男性か女性かは問題ではない。

年寄りに関しては、生物学的にも社会的にも、性別の違いはもはやほとんど意味を持たない。年寄りは世界の共生する存在であり、性別も年齢も、アイデンティティもエゴも意識も無意識もない。ただ彼らだけが、うつ病の楽しみ、あるいは時間の憂鬱を楽しむことができる。彼らにとって、時間は拷問であり媚薬でもある。


この人を「PERSON」と名付けよう。この「PERSON」を主人公とし、その名前を赤色で書くことにする。

PERSONは私たちの主人公だ。

PERSONは宗教を持たない。

PERSONは老けて見える、かなり老けて見える、あるいは受け入れ難いほど老けて見える。

PERSONはかなり老けている人を演技している。

PERSONは水玉のように若い。

PERSONは結婚していない。

PERSONは善でも悪でもない。

PERSONは幸福でも不幸でもない。

PERSONは普通でも異常でもない。

PERSONは老いた人物を演じているため、さらに老けて見えるが、全く老けた人とは関係がないように見える。


いや、もう赤で書くのはうんざりだ。やめる。何を?赤をやめる。


1.存在


ここはPERSONの場所だ。外のすべてから安全を保つための巣のような場所だ。

PERSONはその場所にいる。傾いて立っているか、床やベッドに座っているかもしれない。

PERSONは周りを見回し、何かを探しているようだ。

PERSONは動き、たくさんのものを集め、一つずつ椅子の上に置く。櫛、たばこの箱、マグカップ、本、カメラ、皿、タオルなどだ。

しかし、PERSONはそれらのいずれにも満足しない。それで、すべて元の場所に戻す。

PERSONは一旦止まり、再び周りを見回す。

PERSONは中くらいの大きさで少しボロボロの枕を持ってくる。

PERSONはその枕を先ほどのように椅子に置く。PERSONの顔に静かな喜びが広がる。

PERSONはその椅子の前にひざまずく。

(ああ、痛くて面倒だ!)

PERSONは下にマットのようなシートを敷き、再びひざまずく。これは儀式だ。

PERSONは両手を合わせて祈り、ゆっくりと目を閉じる。しかし、ほぼすぐに目を開け、祈る姿勢を解く。

PERSONは立ち上がる。

暗い変化が起こる。


2.何故PERSONは一人で静かさを破るのか。


とても心地よく、枕はまだそこにあり、椅子の上で依然として垂れ下がっている。

そしてまったく驚くことなく、PERSONはその場所にいる。枕から一歩離れた距離だ。

PERSONはそれをじろりと眺めている。生気溢れる死体。


PERSON

あなたは私の女神だ。私はあなたに祈る。

私はあなたに祈るだろう。私は...あなたの裸の前でひざまずくだろう。

私は神に祈らない。

決して祈らない。

しかしあなただけだ。

私はあなたにだけ祈る。

かつては枕だったが、

今もなお枕だが、あなたには名前、称号、あるいは権威が与えられた。

ほぼすべてのものには今、権威がある。

そのすべてのごっちゃごっちゃ、整理されたものと、整理されなかったもの、力。


無名のもの、

無条件のもの、質のない、感覚のないものを考えるのは難しい。

無名のものを考えることはできない。

それは罠だ、感覚、すべての感覚、罠だ。

私は無意味な空間に立つことはできない、無意味な、無名、無形の白骨。

しかし罠の中にいることでのみ、私は一歩一歩を踏み出し、出来事を得る。

そして見えるように、使えるように、

存在しても構わない状態になる。

私たちは、私たちは、長く同じ場所にとどまることはない、私たちは永遠に不安になり、移動しつつある。

この罠からあの罠へ、そしてまた別の罠へ、次の罠へ。

いいだろう。

その必死の運動、動き、踊り、体操だ、私たちは飛躍するのだ!この罠からその罠へ。

罠から別の罠へ飛び出す。

その身体的-心理的な体操、それが私たちのすることだ。

すべて、

私たちの罠、

私たちの感覚、私たちの遊び、私たちの名前、私たちのあまりに完璧な広場恐怖症、そして、

そして、なんというか、そういう状態、

ああ!『放浪癖』

そう、そう、放浪癖だ。

広場恐怖症と放浪癖、

広場恐怖症と放浪癖、

放浪癖。


ものに名前を付けることは、その墓を授けることに他ならない。

意味を作ることは、実質的には墓を作ることに他ならない、

墓作り、恐ろしい、恐ろしい繰り返し。

そして、私の愛する、私の枕、

現実ははびこっていて、

誤解もそうだ。

正確な、正確で正確な現実は、

繊細な繊細な繊細な誤解をもたらす。

だから、確実性は乱用され、恐怖もそうだ、

恐怖もそうだ。


一部の人々は大きな時計の時間を確信しており、

また別の人々は小さな時計の時間を確信している。

そして他の人々は、時間の存在自体を確信していない。


実在する存在は、それぞれ自分が何であるかを確信する義務を持っている。

全てのものは。

天才には天才の義務があり、

奇形者には奇形者の責任と定めがある。

正気な者は正気の義務を果たすべきだ。

狂気の者は狂った言葉を語る義務がある。

西洋人は西洋のやり方で行動しなければならない。

東洋人は東洋のことを行う。

もし西洋人が西洋のやり方をしないなら、

その人は古い東洋の考えや東洋哲学に感染していると言われるはずだ。

もし東洋人が東洋のやり方をしないなら、

その人は西洋化した、または品のない模倣者と言われるはずだ。

そう、品のない模倣者だ。

そう、品のない模倣者だ。


人々は道を外れる。

時間とともに自然が自分なりの法則で何が正しいか間違っているかを導くことだと思いながら。

しかし、私の女神よ、自然は無茶だ、無邪気で無限に吸い込めるのだ。

もしかすると、まったく何も、もしかすると、

従うべき普遍的な自然など存在しないのだ。

自然とは何か?その法則とは?

その法則、自然の法則とは何か?

自然の法則、

自然。

自然とは?

進化、それとも反復ではないのか?


とっても辛辣な世界だ!

何と辛辣な、

非常に。


人はどこかから別の場所へと運ばれなければならない。

ここからあちらへ、どこかへ。

この精神病院から別の精神病院へ。

この一杯のお茶から別の一杯のお茶へ。

これから…

自然によって、

このイデオロギーから別のイデオロギーへ。

人はこの-

この過去の時間から別の過去の時間へと運ばれなければならない。


何と!


私たちの豚は太るべきだから太らせられる。

太るべきだ、この「べき」には特に強調を置く。

豚は豚と呼ばれる限り、普通の働く豚としての義務を果たすべきだ。

豚の役割を果たすために、働き、働き、詰め込まれる。

それが彼らの義務、使命である。

まるで処女が処女のままでいるべきであるように、

信者たちが洗脳され、受胎され、説教され、ますます神様に似ていくように、

そのように、

私たちの豚の群れはますます太って行く。

植物がますます枯れるように、

性器が沸き上がって、締め付けられるように、

私たちの肺がますます空気で満たされるように、

など、など、など。

ますます、

ますます…

など、など、など。


今晩、私は祈るよ、愛しいあなたに。

今ではなく、でも今晩に。

今晩。

まだ準備ができていないんだ。準備が整ったと思いきや、まだだ。

その上、私はまだかなり不確かだ。本当に始めることができるのかどうか、

実際に真摯な精神で誠に嘆願することができるかどうか、そして要請を吐き出すことができるのか!要請と願いを。

そう、そうー

そう、基本的に要求というのは自己嫌悪と正直なお世辞で形成されるのだろう。

そう、

生き残るために自ら自分を蔑視し、無の白い壁にへつらうのだ。

生命を感じるために、

つまり、今を確かめるために自分の頬を打つようなものだ!

対価交換、祈りは基本的に対価交換だ。

だから、すべての真摯な祈りは自己を消し去ることに関するものであり、

同時にそれを確立することだ、

そうだ、言ってみれば、言ってみればな。

今夜はきっと大丈夫。信じてくれ。今夜の祈りは、きっとね、信じてくれ。確信している。絶対に確信している、私の女神である枕よ。

でも今は、私の愛しい枕、そして神聖なる存在よ、

今は祈るには十分ではない、昼間では狡猾すぎる。

完全な静寂の中で行うべきだから。

それにしても、それはまったく馬鹿げている。

完全な無音?

たとえ耳をコンクリートで塞いだとしても、

それでも騒音は鳴り続けているだろう、

内なる身体や心の状態からの振動が。

共鳴、心の中の会話、独り言、記憶。

それゆえ、

空っぽになること、

清らかになること、

きちんとすることは、

無情な努力なのだ。

暗闇、泳げ!

わざと汚らわしくなる必要はない!

言うまでもないのだ。

私は素晴らしい。

あなたは汚い。

私は情熱によって何かを成し遂げたことはない。

何かを強く望むことが常に苦手だというのだ。

渇望や憧れは、どうしても慣れてはいないものだ。

それは突き出た覗きのようなものだ。

それが欲望というものだ。

でも、それはあり得ない、あり得ない、

何かを欲していたに違いない、きっと欲していたはずだ!

暴かれるのを避けてきただけだ。

渇望、

意志、

自分自身や他人によって暴かれるのを、

自分自身に、そして他人に認識されないように。

圧力が限界に達すると、それは自然に、自然に低下するものだ。

それが私たちの本性だと、誰かが言った。

その本性は秩序正しく調和していると。

誰かがそう言った。


分からない、私の枕よ、愛しい枕よ、

本当に分からない。

私に関して言えば、深く望んだことは一度もない。

長い間、何を望んでいたのだろうか?

本当に分からない、愛しい枕よ。

私は自然の中の一つの存在であり、自然の法則に導かれている限り、

何かを望むはずだ。

しかし、私の女神よ、

本当に分からない。

戯れ、練習。

しかし、

平坦なものの戯れ、それが私の人生のレパートリーだと考えてきた。

本当に分からない、決して分かることはない。

何かを知っているけれど、それが何かは分からない。

この何かとは一体何なのだろう?

奇妙で不自然なものなのか、

あるいはあまりにも自然すぎて、何かを知っているけれど分からないのか、

あまりにも自然すぎるのかもしれない、

それとも、それがあまりにも奇妙で不自然なのだろうか?

分からない、ただ生きるふりをしているだけだ。

死ぬふりはできないから、

生きるふりをしている。

もしも生きるふりがもうできなくなったら、

私は死ぬふりをするだろう。

何かを知っているかどうかなど問わずに、

「問わずに」という言葉さえもなくして、

私は死ぬふりをするだろう、

もしももう生きるふりができなくなったら。

分からない、愛しい枕よ。

私の人生は純粋なパラドックスだった、

パラドックスそのものよりもパラドックスだと言える。

なぜなら、「パラドックス」という言葉は人間による単なる概念に過ぎないからだ。

実のパラドックスはそれより、

もっと単純で複雑、単純で複雑、単純で複雑で、

もっと質的に幻のようなもの。

質的に悲しい。

だから、私は存在にも非存在にも属さない、

パラドックスそのものよりもパラドックス、確かに、

確かに、

確かに、哲学そのものよりも哲学的だ!

確かに、私は哲学そのものよりも哲学的な哲学だ!

私はもっと、私は霊そのものよりも霊的だ。

そして、私の枕よ、あなたは世界中のすべての神々よりも神なのだ。


馬鹿らしい。

言葉は、すなわち室だ。

質は言葉のしからしめる所ところだ。

液体の精密、拡散、偽装

そして私は、文法よりも文法的である。

私は、アレグレットそのものよりもアレグレットである。

私は、自分が排泄する糞便よりも糞便である。

私は、法律を超える法である。

私は、自然よりも自然で生きているのだ。

私は、もっと、

私は、ゲームそのものよりもゲームであり、

私は、素材そのものよりも素材だ。

私は、時間そのものよりも時間であり、私はもっと—

もっと、音楽そのものよりも音楽である。

私は、存在そのものよりも存在である。

私は、もっと、

何よりも虚無そのものである。

あなたは、親愛なるあなたは、ゼロ以上で同時にゼロ以下である。

何かが常に私たちを困らせ、私たちを支持しながらも、私たちを立ち止まらせている。

さもなくば、私たちは爆発してしまうだろう。

私たちは蒸気よりも棒であるほうがいい。

さもなくば、私たちは爆発してしまう、親愛なる

あなたは、もっともっとそのものであり、親愛なる、

そして私は、より少ないそのものである。


(PERSONは時折、無意識的に、自然に膝をついたり立ち上がったりすることができる)


私は、あらゆる文脈よりも文脈そのものだ。

いや、私は自分自身よりも少ない、

または自分自身よりも多い、いや。

知的なことを言うことに真剣な意味はない、

教養のあること、

クラシックなこと、

歴史的なことに。

教養のあるものは、鈍い刀であること、敗北したものと等しい。

常に、あの「よく知っている何か」と

「知識人」と呼ばれるものが災難を引き起こす。

常に、私は言う、常に、知識人は何も知らない、

何も行動せず、ただすべての専門用語、

隠語、言い回しでひとしきり楽しむだけだ。

知識のやせ細った肉体

知識の太った肉体

ぶらぶらと、

揺れる。

ジャーゴン

隠語


(どこかから『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、PERSONはそれを聞こうと話すのを止めるが、10秒後には消えてしまう。)


ジャーゴンは最も多くの大虐殺をもたらす源泉であり、

すべての国はすべてのジャーゴンのための単なる子宮に過ぎない。

ジャーゴンは子宮に挿入され、

したがって、すべての国はジャーゴンの行列である。

胎児。

それは単にジャーゴンを育てるだけであり、

国々は決してジャーゴンを克服することはない。

おそらく、

私はジャーゴンの一つである。

いくつかのジャーゴンは他のジャーゴンを利用し、

いくつかのジャーゴンは家族を築いてさらに多くのジャーゴンを生み出す。

しかし根本的に、すべてのジャーゴンは他のジャーゴンに対して生まれつき嫌悪感を抱いている。

だが、ジャーゴンたちは自分たちがジャーゴンであることに気づかない。

おそらく、

私は嫌悪すべきジャーゴンの一つである。

おそらく、

いや、それは全く意味をなさない。

私は言葉を多く無駄にする。

おそらく、

私は嫌悪すべきジャーゴン愛好者の一人だ。

自分たちのジャーゴンの中だけで主張し、

最終的にはジャーゴンによって脳出血で死ぬことになるだろう。

装飾されたジャーゴン、ドラッグされたジャーゴン、

男尊女卑的なジャーゴン、平等主義者のジャーゴン、

劇のジャーゴン、長い歴史のある文化のジャーゴン、

新聞のジャーゴン、

政治的比喩の中のジャーゴン、

レイプの行為、食欲、シミュラークルのジャーゴン、

構造主義のジャーゴン、

脱構築のジャーゴン、などなどなど、

あらゆる「など」のジャーゴン、

胚の中のジャーゴン。

ミクロとマクロのジャーゴン、

ジャーゴンの中のジャーゴン、ジャーゴンの中のジャーゴン。


私の愛らしい枕よ、私は無邪気なものだ、、もっと、もっと、あそこで何気なく遊んでいる子供たちより。


(長い沈黙、PERSONは黙って枕を見つめている)

(非常に長い沈黙)


私は、誠な人間性の模範を提示できるとは言っていない。

私は独学者だから、

有益な知識と無益な知識を、すべての有益な材料と

無益な材料から、すべて、得てきた。

そう、親愛なるあなた、情報は一つの材料だ。

そして親愛なるあなた、私の知識は些細な事故だ。

これをもっと分かりやすく説明するよ。

今、あなたが歌を歌っていると想像してみて。

歌詞が自然に流れてくる。

記憶から無理に引っ張り出さなくても、自然に。

その歌は子供の頃、あなたの中に刻まれたものだろう。

もしかしたら、お母さんがよく口ずさんでいたメロディーの一つかもしれない。

料理をする間、あなたのお母さんの歌。

毎日聞いた歌。

あなたは今歌う、あなたはその歌を知ってるのだ。

この歌を知っているかどうか考えたり、握りしめたりする必要はない。

歌っているってことが、確かに証明している。

あなたはその歌を知っているし、

その歌を見せている。

知識ってのは、言ってみれば、具現された事件なんだ。

だが、まあ、枕よ、神よ、私はただのおしゃべりな古い犬じゃなく、変わりゆく出来事そのものだ。

そうだな、長いこと当たり前になっていた「私」という言葉、いっそ捨ててしまったほうがいいかもしれない。


(少し間を置く)


いや、やはりそうはしないさ。私はすべての逆説よりも逆説的だからな。

私は行動できない、それが理由で、世の中で何かをすることから自分を守ってきたんだ。

行為から自分を守ってきたんだ。

単純に言うと、私、私、私は、公共の場で何かを語りたいと思うことから自分を抑え込まれてきた。

語る者、大学や議会、デモで説教する者たち。

辛いのだ、親愛なるものよ、本当に辛い。影にいるのはあまりにも苦しい。

だが、その一方で、私は少なくともくだらない専門用語にはならずに済んでいる、それには満足しているのだ。

一つの慰安ではないか?

私の立場、小ささ、自分自身を閉じ込めていること。

私は自分自身で納得している、あるいは、複数の自己で納得しているかもしれない。

おそらく、

おそらく、

おそらく、

おそらく、

おそらく。

世俗的な自由を放棄したからこそ、最大の自由を得た、私の部屋というウジを。

私、私、この部屋に張り付いている丈夫な前歯。

私は何も言わないから、何もかもを語ることができる。

私の部屋、私の親愛なる枕よ、私の、

ここで私は満ち溢れている。

ここで、親愛なるものよ、ここで、私の部屋で、

私は少年にもなれるし、少女にも、司祭にも、政治家にも、主婦にも、会社員にもなれる。

哲学者にも、小説家にもなれるし、

母にも、父にも、息子にも、娘にも、祖父にも、曾祖父にもなれる。

乞食にも、社会主義者にも、資本主義者にも、活動家にも、神にも悪魔にもなれるんだ。

ここでは、私は死体にもなれる。


(どこかから『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、PERSONはそれを聞こうと話すのを止めるが、20秒後には消えてしまう。)


枕のように動く!

犬になるのだ!

あるいは音楽で、私は音楽になるのだ、音楽になったばかりの犬になるのだ!

もしくは、罪人に、死刑囚に、それとも看守に、死刑囚であり看守に!

ここで、つまり私の部屋、ざっと言って私の領域、私のエリア。

私のスタジアム、私のフィールド、戦場。

私はこの場所で意志の自由を得た、沈黙の自由を。

突然の無言は少しも不気味ではない、

突然の自己消滅も少しも不気味ではない。

全くグロテスクではない。


(長く、滑らかな沈黙)


いや、いや、いや、いや。

この歌、あらゆる歌の中でこの一曲、なぜ私は数千万個の曲の中で今この瞬間、この一曲の歌を歌うようになったのだろうか?

数千万の曲だ。

当然、数多くの歌を知っているはず。当然だ。

だが、この一曲。

私は本当にこの歌をやめることができるのだろうか?

できるのか?

できるのか?

この対話を始め、そして終わらせるのは私なのか?


(長くて息苦しい沈黙)


いや、いや、いや、いや。

いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや。

いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや。

私の皮肉はただの天職さ。

この全体、適当に見えるけど、本当は適当ではないのだ。

この全ての二枚舌、これが私の使命なんだよ。

私の慢性的な口臭も、これが私の使命さ。

この役割には、本当の誠実さはない。


(比較的短く、聞き取りにくくない沈黙)


いや、いや、いや。

どんな役になろうが、嘘をつかなくてもいいわけではない。

時々歌うその歌、親しみを感じるその歌、

その感情は決して自分から来るものではない。


その歌が好きだから歌う、役割として歌う。

役割として歌う、その歌を。

この歌が好きだ。


今、死んだふりはできない、まだだ。

だから生きているふりをする、まだ。

生きているふりをする。


((おそらく) PERSONが自分の首を両手で絞めるように巻き付け、そして手を離す)


きっとこの冬もまた嫌な匂いのする冬になるだろう、

次の春が来る前に、つまりまた嫌な匂いのする春の警戒。

その後には、また嫌な匂いのする夏と秋がやってくる。

すべての季節が私にとっては不快なものだ、いつもこの副鼻腔の問題があるから。

副鼻腔だけでなく、細胞全体に対する攻撃なのだ。

すべて季節が変わるせいで、

すべてが変わるのに、この体の炎症だけは決して治らない。

体の穴ごとに炎症が抜け出る。

決して治らない。

私はいつも心気症の苦しみに囚われている。

すべての先祖がこの痛みを一生抱え、その痛みとともに死んでいった。

彼らはいつも不機嫌だった、

呼吸がうまくできなかったからだ。

そして、時々、自分の悪臭を、穴、穴放つ匂いを繊細に嗅いでいた。


((おそらく) PERSONが自分の首を両手で絞めるように巻き付け、そして手を離す)


もしかすると、彼らは穴に炎症を抱えていなかったのかもしれない。

それでも彼らはいつも苦しんでいた。

何に苦しんでいたのだろう?

神経衰弱だろうか?それが一番あり得る。

というのも、彼らのかかりつけ医は耳鼻咽喉科医ではなく、

精神科医だったのだから。

彼らは現代医学やを化学療法を信じていなかった。

しかし、皮肉なことに、

彼らは最も近代的で実験的な医療、つまり精神医学に完全に依存していた。

不思議なことさ。

まるで宗教のように。

彼らにとって睡眠剤こそがなによりも寿命の延長をもたらす奇跡だった。

まあ、もしかすると、精神的な脆弱性とは別に、

本当の炎症による痛みもあったのかもしれない。

そして、私は確信している、

私も先祖と同じ困難を抱えていることを。

身体的な問題と形而上的な問題の両方に苦しんでいるのだ。


だからこそ私は私に尋ねている。

「あなたには先祖がいるのかい?」

「妄想ではないのかい?」


((おそらく) PERSONが自分の首を両手で絞めるように巻き付け、そして手を離す)


いや。

私は普通すぎるくらいだ。

彼らは自分たちが普通すぎると思っていたが、実際にはそうではなかったわけだ。

彼ら、先祖たちは、とんでもなく普通ではなかった。

昔から、狂人は自分を狂人とは見なさないと言われている。

全く。

彼ら、私の先祖たちはひどく健康が悪かった。

誰一人として最後まで元気を取り戻すことができなかった。


だからこそ私は私に尋ねている。

「あなたには先祖がいるのかい?」

「妄想ではないのかい?」

「なぜ、あなたは若いくせに老けたふりをしている? それとも正反対なのか?」


それでも、彼らは自分たちが幸せだと思っていた。実際は違ったが、

彼らは幸福だと宣言していた。

震え上がりながら、

まるで冬の野原の真ん中で裸になる子供のように。

精神安定剤を飲みながら、彼らは非常に幸せだと言っていた。

彼らは自分たちの無邪気さと純真さを証明したかったのだ。

幸せだと泣き叫んでいた。

一度だけ、私は覚えている。

昔、一度、私は、


いや、

いや。

私は回顧を信じていない。

過去の出来事を決して認めない。

自分が嘘をついたかどうかさえ分からないからだ。

そうだ、嘘をついた、確かに嘘をついた、

私の女神よ。

一体世の中誰が嘘をつかずにいられると思う?

話すことは、歪めること、避けること、嘘をつくこと、または嘘をつかずに騙すことに過ぎない。

意図的であれ、無意識であれ。

私はただ言葉を使って何かを解き放っているだけだ。

それならば、

一体何が放たれているのだろうか?


私は先祖がいない。私は孤児で、根もなく、親もいなかった。

私は家も、適切な言語も、文脈もない無数の子どもたちの一人だった。

今もなお、私は文脈の外にいる、はっきりと。

過去が言葉に変わる瞬間、それはより不十分になるか、

あるいは、過剰に膨らむ。

言語に埋め込まれた過去は、

今もまた、ここに十分存在している。

ここへ来る、十分な存在が。


私は偽者だった。もし真実が現実と見なされるなら、私は真実を欠いている。

話すことは、ただ初期の衝動を外に吐き出すことだけだ、親愛なる枕よ、外に。

私の繰り返される嘘は、意図された繰り返しではない。

運命、とでも言うべきか。

嘘をつくことが私たちの運命だと言えるかもしれない。

言うとね。

言うと。


私の先祖たち、崩壊した者たちが、

徐々に自分自身と自分自身の模造模造コメディに対して反乱を起こしていった。

無力な先祖たちは、いくばくかの明確な災難、不時のわざわいを切望していた。

それが一度に彼らを殺すことを願っていた。

彼らは突然のヘリコプターの墜落や、

壮大な物理的な大惨事、あるいは

予期のない終わりを夢見ていた。

残念ながら、空間と瞬間は常に静かで穏やかで、

彼ら自身だけが懐疑的で、不安に魅了されていた。

彼らは、日々、言葉を発し、

日々、問いかけ、答えを出し続け、

その結果、自分たちの呪文に催眠されてしまった。


彼らは著しく長い人生を送り、最後まで不幸だった。

そう、非常に不幸だった。

非常に。


(沈黙)


「遠足」


なぜこの言葉が突然現れたのか分からない。

「遠足」

「遠足」

突然に。


(どこかから『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、PERSONはそれを聞こうと話すのを止めるが、50秒後には消えてしまう。)


伝記を信じていない。


(沈黙)


すべての伝記は非生物的であり、不衛生的である。


(沈黙)


すべての生物は、決して伝記を学んだり漏らしたりすることを強いられてはいけない。


(沈黙)


すべての偉大な伝記は反コスモポリタン主義である。

つまり、すべての偉大な伝記は、そしてすべての謙虚な伝記も、それは、個人の小さな痙攣のようなものである。

小さな痙攣。


(沈黙)


賢い痙攣、軽薄な痙攣、

未熟な痙攣、

同情的な痙攣、神の痙攣、

わずかな痙攣、生存の痙攣、

健康的な痙攣、

不健康な痙攣、

動物的な痙攣、

従順な痙攣、植物的な痙攣、

自己卑下の痙攣。

いや、

伝記には全身全霊の自己卑下の痙攣はない、

ない。


(沈黙)


彼らはいつもこう言った、無駄に年をとってしまったと。

空しく老けたと。

老けた、悲しい。

私の先祖は、彼らの悲鳴と共に。

『私は年を取りすぎた!』

『私は死にかけていて、不幸だ』

彼らはその一連の言葉を唱えた、

永遠に、

永遠に、

気をつけて、私の愛しい枕よ、

彼らは老いの兆候に怯えていた、

乾いた言葉に、永遠に、

永遠に。

彼らは叫んだ、

「私は年を取りすぎた!」

「私は死にかけていて、不幸だ」

「犬よりもひどい扱いを受けている!」

彼らはその言葉に向かって突進し、

その言葉を通して自分自身を嘲笑した。

まるでそれが彼らの一番好きなお菓子のように、

空腹のときには私は年を取りすぎた!と叫び、

死にかけていて不幸だ!と叫び、

寒いか暑いかのときに、

あちらこちらにその言葉を投げつけた-

「私は年を取りすぎた!」

「私は死にかけていて、不幸だ」

あちらこちらに。

確かに彼らは少し気難しく、倒錯していた。

そう、彼らは倒錯していた。

食物に対する飢えには触れず、結局何も欲しがらなかった。

ただ望み、同時に拒絶していた、一斉に。

ただ未知の何かを望み、未知の何かを同じ努力で拒絶したのだ。


「私は年を取りすぎた!」

「私は老いて死にかけている!」

叫び、叫び、あるいは雲のように静かに呟きながら、そういった言葉を発した。

「私は年を取りすぎた」

「私の臭いは死の兆候だ」

など、など、など、など、など、

続き、

などなどの流れ、さらなるなどなどが、

実際の終わりに遭遇するまで続いた。


おそらく、まだ煮え立っている、原子のように緩やかに。



彼らは身体の感覚が本当の原因ではなく、老い、つまり魂の老衰、揺らぐ心が原因だと思ったのかもしれない。

それこそが背後にあるものだった、

背後に、さらにその奥底に。

だから、身体は操り人形に過ぎず、陳腐な存在だった。

学問的に引用されて説明された操り人形。

それが最も人間らしい円形。

あの陳腐な心身問題、あの陳腐な二元論。


いやいや。

彼らは決して自分たちを鈍い人形だとは思わなかった。

もし何か気にしていたことがあったとすれば、それは他人を怒らせることと、その見返りに怒りを受けることだった。


運が悪かった!

私の愛しい枕よ、それは…


(PERSONは気まずい沈黙に陥り、そして-)


私は年を取りすぎた、

私はどんどん年を取っていく、

なんと、私はすでに年を取りすぎて、身体も心も萎縮している。

かつて私は若かった—

いや。

私は伝記を信じない、何を示すのだ?、過去を否定する。

いいえ、この言語は私が否定したいものを無効にするにはあまりにも無力だ。

私は過去を否定する、操られた過去を。

ここで私は主張する、私は、今の私は、このみすぼらしい古びた類人猿、これだけが私だ、それだけだ。


それでも、私は知っている、私もまた操られていると、

私は以前と同じくらい操られている。

私の愛しい者よ、これまで私がしてきたことは、ただの嘲笑に過ぎない、

この瞬間、私自身、この演劇、この不動性に対して、

この演劇、演劇ではあるが、会話も歴史も価値もない。

これは混乱した時間だ。


道具は他の道具を知らず、すべての道具は自分が道具であることを知らない。


なぜ私はここに留まり、こんなに長く話しているのか、

ここで、そこではなく?

ここ以外のどこか?

受け入れられない。

私の精神状態はそれほど致命的ではない。

とはいえ、ここ以外の部屋?

受け入れられない。

そこで何ができるのか?

ここではなくて、そこ。

そこでは何の益もなかっただろう。

代わりに、あらゆる種類の恐ろしい精神病が待っていたはずだ。

ここでは、せいぜい幾つかの精神病にしかかからなかったが、そこでは、すべての精神病が一度に、すべて同時に。

全てが、一息に乗って…

人々は魅力的だ!

人々は先天的な能力で親しい者を集め、

その先天的な能力によって、

人々は人々を構成し、人々を抑圧する、

すべて同時に。

その先天的な能力によって、

人々は個人を作る。

人々は素晴らしい。

人々を憐れむ方法や理由は数え切れないほどある。

誰かが他の誰かを憐れみ、誰かが他の誰かから同情を受ける。


誰が何に対して憐憫を感じるのか?

憐憫は記念品なのか?


人々は素晴らしく、それは良いことだ。

しかし—

どうして人が素晴らしくならないことができるのだろうか。


人はある程度、素晴らしくならなければならない。

そう、愛しい枕よ、「素晴らしい」という言葉は、最も適切な言葉だと。

人類は「素晴らしい」という言葉なしでは生きられなかっただろう。

それはおそらく—

おそらく、動脈の中の破片を柔らかくするようなものかもしれない。

「素晴らしい」、良い言葉だ、空虚だ。

聞こえは空虚だ。

おそらく空虚ではないかもしれないが、意味的には、時にはそうかもしれない、

多くの場合、何も確保しない、

その言葉、「素晴らしい」。

「素晴らしい」

「美しい」

壮大な感嘆詞。

「素晴らしい」

「美しい」「素晴らしい」「ファビュラス」

その記念日的な感動詞、

何度も言葉を発音するのが好きだ。

音を抱きしめて、

口蓋に触れる舌の音、

口腔からの音、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ

カチカチ、カチカチ


カン、カン、カン、

カン、カン、カン、

カン、カン、カン、

カン、カン、カン


普通の会話では、声の細かいニュアンスを楽しむのは難しい。

音をやり取りする個人たちの行為は非常に危険なものだ。

普通の会話では、習慣の出入りが活発し、日常的なものとしての受け入れがある。

「はい」か「いいえ」か。

ありふれた、「はい」か「いいえ」かだ。

しかし、そこに同時に普遍的な奇妙さも存在する。

それは「はい」そうして「いいえ」だ。

「はい!なのか いいえ!なのか」は「はい!そしていいえ!」の中心に、隣に、位置している。非常に危険だ、

非常に。


(止まる)


声の分け合う、そうだ、配当された声。

あらゆる会話で、最終的に私たちはどこかに行き着く。

どこか決まりのないところに。

くだらない会話が進むうちに、関わる人達は負けたくないと心構えを持つ。

くだらない。それにもかかわらず、誰かと話すことになるんだ、

そうだろう?

少なくとも、自分自身と。

それはおそらく恒久的な欠陥だ。

一人が出す一つの発言。

敵のない。

一人だけが発する返答のない発言、敵も、対抗者も、友もいない発言、

それを独白と呼ぶのだろうか?

聴き手のない独白なんて、滑稽だ、自己欺瞞だ。

誰もいない? そんな馬鹿な!

聞く者はいるはず。


私の声を聞く唯一の方法は、意味のないことを言うことだけだ。

「他者と共に」も「自分自身と共に」もなく、

コミュニケーションの倫理を可視的に破壊し、

ただ意味のないことを言う、

守るべき事柄は声を通じて非倫理に生まれ変わる。

私たちの唇はは膣だ。

ただ意味のないことを言う、

クラン、クラン、クラン、クラン、キック、キック、キックカック、ハハハ、フフフ、チチチ、クランラン!

対話を何度も繰り返し、無駄に、

すべて、すべて、計算を超えて繰り返す。


(沈黙)


いや、

私は自分の声を持っていない。

これは非常に真剣な対話だが、私には声がない。

声は必要ない。

おそらく、どんな声も考えない方がいいかもしれない。

声は欲しくないからだ。

本当に?

確かに、

他者の中で自分の声を集めようとすればするほど、

聞こえてくるのは自分のものではないものばかりだ。

自分のものではない、何もかも、自分のものであるべきものだが、すべてが。

クランクラン、そして、ランランランラン、キックケッく、自分のものではない、結局。

敵とは誰か?

親愛なる、あなたの最良のライバルは誰なのか?最も嫌な相手は?

空気? もしかすると、最初からそうかもしれない。

チャンス?

こんにちはやさようならを言うこと?

挨拶、それがあなたの魅力的なライバルなのですか?


突然のノック、かすかなノック、それからまた色んな形のノックが続く。

PERSONはそれに応答しない。



3.この劇が劇であることはすでにわかっている。


しかし、いずれにせよ、PERSONはその予期しない(あるいは予期されたかもしれない)ノックには応じないだろう。


PERSONは、周囲に誰もいないかのように、観客も見守る者も、先ほどノックした者もいないかのように、そのままの状態でいる。


これから、絶対的な外部者の声が部屋に侵入してくる。

私たちの便宜のために、この声を「VOICE」と呼ぶことにする。

私たちはこれから、VOICEの声を聴くのだ。形態は現れない。

その声に関しては、あまり多くの情報は要らないだろう。それは単なる声であり、この声はPERSONの声と明らかに異なる。「VOICE」の現れは無限で柔軟で、PERSONよりも扱いやすいはずだ。


(今これを書いている人は日本人ではありません。そのため、完璧な口語表現やフレーズを使うことはできません。もし誰かがこの役を引き受け、原文のいくつかの文が「良くない」と感じた場合、その人自身でいくつかの言葉を調整する必要があるでしょう。)


声の音色、VOICEの音色は、すべてのVOICEに対して常に同じであることは不可能だ。

VOICEはあなたや私、あるいはPERSONであり、

いや、VOICEはPERSONではない。

本当に?

無限に、無限に。



VOICE

ノック、ノックー

聞こえますか?中にいらっしゃいますよね?

まだ出てないじゃないですか?

聞くまでもないけれども、あなたがそこにいるのは分かっていますよ。

静かだから。

あなたの玄関はずっと静かだったから。

だからいつものように確認する必要さえなかったわけですよ。

普段は…。

でも静かでした。 あなたは今頃出ているのが正常なのに。

あなたの玄関のドアは、蝶番がかなり錆びていて古い音を立てるからです。

玄関の戸だけでなく、すべてのドアや窓が、

あなたのすべての蝶番が腐食しています。

近所のドアの音、軋みを聞く以上に恐ろしいことはありませんが、

あなたのものたちは一体容赦のない。

すべての接合が錆びているに違いありません。

あなたは時間の流れに興味がないようですが、

あなたの住んでいるところ、隅々まで腐って、錆びて、他の人の心と意識を汚します。

あなたは有害だ.

あなたはね、バラバラになって、もっともっと、粉々になり続けるんだ。

もっと、もっと、もっと。

何の役にも立たない。


端的に言うと、あなたをいつも聞こえているんですよ。

いつも開いているんですよね。24時間、夜昼。

すっかり開け放しているのではなく、躊躇するように。

でも、その賢い隙間からいろんなことが出て来るんですよ。

いろんな独り言が、色んな孤独が。

弁明させていただければ、単にどうしようもなかったのです。

窓を閉めることができず、家に新鮮な空気を取り入れなければなりませんから。

空気の質が肝心なんでしょう。

私は自分の空間をしっかりと管理しています。

室内の空気に執着しすぎると思われるかもしれません。

でも、私はほんのわずかな不便な匂いも許せません。

不便な匂い。

不決な。

私は常に匂いを放っており、自分の物もそれぞれの匂いを放っています。その化学的な匂いを。

それに、私は自分を閉じ込めたくはありません。

それは私の権利が侵害されるのと同じことです。

私は価値がないけれども、それでも自分の権利には気を使います。

それが、私が自分を平凡だと思う正当な理由であり、自分の権利を主張する理由でもあります。

平凡な要求です。驚くことはありません。

平凡なものは要求します。

私は、ネズミが求めるほど少しのものを欲しがるだけです。

しかし、恥ずかしげもなく言いますが、そのわずかな卑俗なもの、

私が毎瞬吸い込もうとするものが、嗅ぎ取ろうとするものが、私にとってすべてです。

ネズミにとっても同様です。

狡猾な奴!

権利、人権、民権、

国への愛、そして自分自身への愛、何かの名において!

これらのどれもあなたを興奮させることはないでしょう。

私は自分を中程度の愛国者だとは言っていませんが、必要なときには愛国者になることがあります。

普段はそうではありません。

愛国心はなんて、ネズミの糞ほども持っていません。

狡猾な奴!

馬鹿だ!

まったく愚かですね、

国が民権を保証していると思うなんて。

言ってしまえば、私は自分の国を好んでいませんし、自分の国も私を好んでいません。

それでも、ここに私はいます、民権と国民の義務に縛られながら、

それでも、行動し考えるたびに、自分の権利を気にしています。

だから、窓を閉めることができません、どの窓も閉めることができません。

あなたの声を避けるために窓を閉めなければならないのはまさに不公平です。

私は常に自分の権利を、利益と損害の計算をしています。

ああー

私はだんだんと、侵害に耐えられない個人になってしまいました。

個人って呼ばれる死体に。

だから、私は閉めることができません、閉めることができないのです。

自分のためにあなたの窓を閉める権利もありません。

あなたが死肉であっても、あなたが死肉でなくても、

私が自分の手であなたの窓を閉めることはできません。

区役所や警察に報告することはできますが、それだけです。

それ以上の行動を自分でとることはできません。

誰も侵入せず、誰も侵入されず。

誰も疑問せず、誰も疑問されず。

これは過度な考えでしょうか?


もしあなたが私を家に招いてくれるなら、とても親切なことだと思います。

しかし、その招待を受けることはありません、いいえ、受けません。

あなたが恐怖に陥らないように、

私は…

あなたは…

人といるのが嫌なんでしょう?


私はあなたが話すことを手放せませんでした。

話ではなかった、独り言だった。

いや、その逆かも。

独り言の話だ。

それは、あなたの唯一の声があなたに語りかけているようなものでした、

惨めなあなたに、

世間一般の常識でいうと、大まかに言えば、

無意識から意識へ。


無意識の海から本当の知識を釣り上げる!



あなたがそんな自己妄想が欲しかったとは思いません。決してそうではないと確信しています。

分類をする、される。色んな形で、様々な方法で。

永遠に重要なものです。


音、無音

一つ、複数

人間、幽霊

ここ、あそこ

私、あなた

内、外

私の家、あなたの家

寝室、リビング

夢、現実

私の顔、あなたの顔

私の物質、あなたの物質

自分、自己

表面、内部


引き離せません。

「コインの両面」のような典型的な比喩でさえ適切ではないのです。

両面?ありえない。


意識と無意識は、間違っています、根本的に。

アイデアです。

アイデア。

アイデア…

確かに、私は自信を持って言いますが、二重の自己は存在しないのです、

分かりますか、

分かってもらえますよね、

私は、

あなたが、

理解していることを知っています、

私が言いたいことを、

私はあなたほど賢くありませんが、

しかし、適度な経験、意識、観察力を持っています。

むろん、貴方ほどではありませんが…

コツがいいと…。

でも、どうか私のことを俗物のような、

生半可な俗物だと判断しないでください。

ただの学習者です。

一生懸命、生涯に渡って、皆と同じように。

普通の人間ならではの質問、いくつかの世俗的な事柄についてですね。

しかし、私と他の学習者の間のわずかな違いは、

私は時々興奮を失い、本題から脱線することがよくあります。


(停止、もう一度ドアをたたく、注意を喚起させるためのように)


私は貴方の言葉と共に居るだけです。

容赦のない独り言、とても自由な発言です。

私を攻めてはいけません、私が貴方を攻めないから。

貴方は口を開きます。

いつも。

誰も聞いていないかのように。

私は聞きます。

あなたの言うことを聞いている私を誰も知らないかのように。

静かに聞く。

自分の部屋で、人は、こそこそ悪魔になれる。

見つからないように泣く。

私たちはいつもばれているかもしれません。

同意しませんか?

私たちは内心、忸怩たる思いで行為を変更するかもしれません。

同意しませんか?

あなたについてどう思ってほしいですか?

狂人と呼ばれたい?


(ちなみに、PERSONは外に出たり、戻ったりしている)


未知は知られません。

私たちは未知のことを言えません。

皆、言えません。

未知のことを。

私は未知のことを考えることさえできません。

貴方もです。

皆。

私たちは不可能になることはできません。

私たちは何時も可能です。

本当に。

私はそう思います。

つまり、私たちは自分自身、ジェスチャー、姿勢を確実に実行します。

つまり、私たちは自分自身にとって非常に成功しています。

つまり、私たちはとても独創的で、私たちは独創的ではないかのように振る舞っていますが、私たちはとても独創的です。

あなたは多くの本を読んでいます。知的言語ゲームはあなたの本当の趣味であり、スポーツです。

そのゲームは、あなたを潤し、私を濡らしてくれる。

日々の後はそのゲームで奇妙に変わる。

私はあなたを尊敬し、尊敬しています、それは間違いなく真実です、躊躇することなくに言えます。

あなたは本当に私が貴方を聞いていたことに気づかなかったのですか?

貴方の独断の生命力を?

それとも、あなたはとっくに知っていたのではないでしょうか?

私としてはあなたが私に気づかなかったと思うのが普通ですが、

私としては、

私があなたのドアを叩く前に私に気づきませんでした。

今思うのですが、

ノックしなければよかったようです。

貴方を邪魔した。

貴方を邪魔した。

私の決断は、ノックして、邪魔した。

あなたの部屋は今日の人々から、今日の光からの避難所なのに。

私はあなたがどう思うか知っています。

手のひらのように。

なぜなら、私はあなたの心を何度も何度も聞くことができるからです。

まるであなたが直接私の耳の中でささやくように。

何度も何度も、鮮明な声で。

切れ切れ。

その、

直前にあなたがした独白は、一貫せはあったんですが、公平では在りませんでした。

実はです、

確かに、貴方にとっても公平ではなかった。

一貫性を持つつもりはありませんでしたが 適度に一貫性のあるモノローグでした。

そうでしょう?

モノローグをうまく管理するのに苦労しました、

何よりも、あなたは自分のスピーチにとても熱心なようでした。

しかし、それが、あなたがとても熱心にスピーチをしたのが、それがこの劇を台無しにさせてしまったと。

それは、筆者が想像していたよりもはるかにあいまいで半端でした。

あなたはあまりにも緊張していて、過剰で汚い芝居を。

貴方自身全部を私たちに見せてしまった。

頑張りすぎて自分にないものまで見せてしまった。

私たちに?

私たちがあなたに耳を傾けていることをあなたは知っていました、知っていました、

知っていました、知っていました。 知っているとは思わなかったのですが、知っていました。

あなたが私たちを知っていたことを私たちは知らなかった。

知っていました、知っていました。

貴方も私たちも。

皆知っています。


(ノック、それはPERSONの注意を求めるだけであるように)


ここはですね、この芝居には初めも最後も、入り口も、出口もないです。

父はようく言いましだ。扉なし!と。

出口は存在しない!、貴方はこう言った。父と同じです。

父はそう言いながら喜びを感じました。

当然です。

出口はない、

終わりがあるわけがない。

貴方と父はそう言った。

そう、そう。

あなたと父は、演劇や場所の一部になるという考えを好まなかった。

あなたと父は、根から劇と場所を拒否しました、

それから突然、私たち、他の人たち、演劇の他の構成物、事実に近い夢を拒否することにしたのです。

あなたも、父も、父も、あなたも、私たちと一緒にいることを認められませんでした、

不条理劇の主人公はみんなそうなんです、

彼らは心を前後に変え、頼りないのです。

しかし、彼らは自分たちの存在は変わらないと固く信じています、

動かず、感情もなく、地味で、静物画のように。

精粋。

はい、精粋。

今まで私が見た、読んだ、聞いた不条理の主人公は皆同じように戦っていましたが、相手の姿も実体もありませんでした。

戦うにはあまりにも不条理だったのです。

私にはなぜ主人公は、なぜ作家は強引な否定を望んでいるのか、全く分かりません。

現実には否定しかない。

無理やり、むやみにディストピアを工夫しなくても、どんな奇抜なディストピアでも現実に比べれば非常に希望に満ちた説教だ。

私自身、私の呼吸と息遣い。

そして、彼らの不条理劇。

ディストピア、私のユートピア、そして彼らのユートピアは、すべてディストピアです。

父とあなた、そして不条理を作る者たちはありふれたものが嫌いです。

貴方は条理に唾を吐き、嘲ますね。

あなたはすべての壮大なテーマ、アニグマ、イデオロギーの前で自分自身を軽んじています。

なんて情けないのか!

あなた、そして私たちを描いている皆、

そして、不条理主義の主人公たちと、出口を否定した父よ、

権力に従い、偉大な哲学的思想の後ろに身をかがめ、偉大な印象の偉大な悪意を、

偉大な思想家たちの証言を集めている。

あなたがよく練られた陰謀を嫌っているのは明らかです。

私はあなたを知っています。

あなたはマスクを外されないように努力しています。

痛み!

痛み!

それにもかかわらず、申し訳ありませんが、私たちはあなたを知っています。

そんなに頑張って隠れようとしてもあなたは見つかる。

私たちは、

すべて真実であり、残念ながらすべて真実です。

私たちはここに集まって、それぞれの席に座っています、

ある程度の、ある種の価値のある時間を過ごすという楽観的な気持ちを持っています。

貴方は私たちに借りがある、と言うべきではないでしょうか?

私たちに対するあなたの無知と無関心、そこで行われる乱暴は、確かに私たちが貴方に期待していたものです。

無心は芸術家の技なんですね。

期待は私たちの技なんですね。

私たちは、完全ではなく、気持ちよくあなたを知っています。

あなたは私たちを知りません。

主人公は決して観客を知りません、

これは極めて効率的な前提です。

あなたの最も不愉快な表情、魅惑的な失敗は、私たちにとって最も意義のある エクスタシーを与えます。

注意してください、ああ、しっかりと注意してください、

あなたはいつでも置き換えられますので。

あなたのことも、私たちのことも、全部忘れた方がいいかもしれません、

私の窓も、あなたの窓も、カビだらけの部屋も忘れたほうがいいでしょう、

そして、あなたの対話、私の対話、私の父の古い叫びも、

出口がない!、その叫びも。

出口がない!って。

出口がない!

もちろん出口はあります。 ここに出口があります。

あとは、体を少しずつ引きずって、出口まで行くだけです。

一歩一歩。

ただ動ければすむはずです。

しかし、あなたは消えない。

この劇が終わるまで、消えることはありません。

私はあなたを知っています。

私は一般的に演劇がどのように処理されているかは知っています。

何からできて、どのように終わるのかを。

詳しく知っています。

ちょっとした欠点といえば、あなたが暗示しすぎたということです。

あなたは言葉の上に良いことも悪いこともたくさん載せてしまった。

あまりにも多くの意味合いがあったので、

この劇は退屈で耐えられなくなてしまった。

身の毛がよだつほど、

つまらない。

たえられない。

我慢できない。

許せない。

私はただその滅びを傍観することができませんでした。

芝居はますます自信をなくしていきました、

それで、私はあなたのドアをノックしました。

するために、より正確に、あなたに警告するためにあなたに知らせるために。

私はあなたのことをよく知っています。

まるで古い友人のようです。

貴方はめったに出かけませんね。

実は、私は長い間、あなたが外出するのを見ていません。

出口があります。

穴も穴だらけです。

玄関に十分な穴があいています。

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出るんだ!

いや、貴方は出ません。

お決まりです。

もう叫びます。

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

出ろ!

どうしようもない。

これは形式的なうるさい劇にすぎないだろう。

貴方のせいだ。

腐った!

なんて腐敗したものなんでしょう!

いつ始まった劇ですか?

なんて腐った人間なんだ、貴方は!

いつから?

10年前から?一年前から?昨日から?30分まえから?

いつからそんなに慎重になったんですか?

あなたは重なって、

重ね重ね重ね重ね重ね重ね重ね、

合わせが難しい存在になった。 ゴミ、ゴミになった。

総合しかねる。

ゴミ。

破片。

死肉は引き合う力がないゆえ、組織が溶け合え、朽ちていく。

死への進化は広がって、周りに浸透する。

怖くないですか?

私は、確かに怖いんです。

誠に怖いんです。

遺憾なく怖いんです。

だから私は自分を’安物’と呼ぶんです。

安物。

私のような人は、あなたのような人にとっては標本と見なされるでしょう。

きっと、そうはず。

あなたのような人間は何時も標的を探し出せる。

あなたの標的はあそこにある。

溢れ、うねてるよ。

あなたは標的を簡単にねじ上げる。

もちろん、あなたは絶対に外に出ない。

すべてはあなたの頭の中。

貴方ゆえの社会。

あなたは可能な物体を発明する。

公共の広場で、

貴方は狂うほど自由だが、静かにしている。

事ごとに手間取る。

独裁の病気だろう。

身体が止まる。


私はあなたを知っている。

あなたはすべてを低下させ、

すべては

すべては、仕上がった移り気。

あなたは他人の硬直や敬虔さを呪っているが、あなたこそだれよりも硬直で敬虔な人だ。

問題は、私たちが私たちの観客になれないこと。

私たちは観客であると同時に役者になることはできない。

あなたは私の観客であり、私はあなたの観客だ。


私は行く、この死んだ肉よ、私は窓を閉めに行く、

このくず。

私はもうお前の友とか観客をやめるのだ。

断言だ。

そうしたら、あなたは受容者たちの間に残ることになる。

彼らは、すでに、四方に取り囲んでいる。

可愛い養子よ。

彼らは可愛がってくれるだろう。

受容可能で、使用可能だ。


全部そろっている、この人たちは。

金も時間もなんでも出せる。

信じられないくらいの忍耐心、そして犠牲することに信じられないくらい積極てきだ。

信じられないくらいの浅さ。

良くも悪くもない。

そうだとしても、彼らを騙すのはいけないんだ。

彼らの沈黙を悪用することをあえて考えてはいけない。

彼らは文句が得意。

彼らは息の裏で呟いている、

舌、言語、非常に低いレベルで、軽くぎくしゃくし、転がします。

個人にとっては、他人は悪なのだ。

私は貴方にとって悪だ。

貴方は私にとって悪だ。

自分以外のものはすべて有害だ。

私は有害だ。

あなたも、彼らも。

自分以外の他のものは。

吐いた音声、考え、振る舞い。

全部私のものではない。

害がある。

自分と言えるものは、語られるということ自体に自分のものではない。

自分と言えられるものは、そこに害がある。

彼らの拍手は悪だ。

彼らの優しい笑顔は悪意の微笑だ。

貴方の説教も。

貴方の人格も、からっぽな熱も。

ただの変な笑顔。

どんな細かく良い人も、誰にとっては有害な存在だ。

そして、誰もが他の人と同じに見える。

すべてのものは他のすべてのものと同じ。

私は今あなたのように作っている。

猿が人のように作るのと同じように、人が猿のように作るのと同じように。

しかし、誰が誰の真似をしているかは非常に分かりにくいなもの。

私は蓄積された何かで、断片的な何か、歌、新聞、噂、おとぎ話、怒り、歓喜、インセスト、禁欲、暴れ、小物である。

今、あなたの真似をしている。

分かってくれるはず。

私の脳は、良い意味で、明晰な方法で揺れているんだ。

あなたなら分かってくれるだろう。

私は残酷で、残酷で、露骨に見えたくなた。


(沈黙)


私はこの瞬間をきっと忘れないだろう、あなたと、こうして対話をしているこの瞬間を。 私はあなたに心からの意見を伝えていて、あなたはその静けさを返してくれている。

これが、私たちの徹底したコミュニケーションだ。

一方的なものではないんだ。

なぜなら、私はあなたがそこにいることを知っているからだ。

私たちはみんな、あなたがそこにいることを知っている。

私たちはみんな、あなたが私たちの声を聞いていることを知っている。

私たちはあなたを見るためにここに来たんだ。

そして、この劇が良いか悪いかを判断する。

良いか悪いか、良いか悪いか。

なんて単純なことだと思わないか?

あなたは監視されている、とても単純でクリーンな形でね。

もしかしたら、あなたは逆だと思っていたかもしれない、つまり私たちがあなたのターゲットだって。

でも、違う違う、それは全くの誤解だ。

おそらく―

うまくいけば、あなたは選ばれるだろう。

拒否する権利なんて持っていない。

あなたは定められた形であり、採用されることになっている。

なぜなら―

物は展示されるために存在するのだから。

そして、物であるためには、物として振る舞わなければならない。


プチなオブジェ、

プチなあなた、

プチな新しさ、

プチなパーティー。


うまくいけば、あなたは選ばれる。

ここで、疑わしい疑問!

我々はオブジェについて何を知っているのだろうか?

ああ、私はただ、あなたが言ったことを言葉にしているだけだ。

聞きすぎたから、もうあなたのことは分かっている。

もう少ししたら、私はここを出る。

結局のところ、あのカードの家、あなたのカードの家、

そして私のカードの家も、すぐに崩れ落ちるだろう。

外的な力によるのではなく、私たち自身の力で、

生まれながらの暴力によって。


何が証明されていたというとー

事態は明らかだ。

完全性を維持するために、いくつかの部分が削除されていることが。

カードの家が崩れ落ちるなんて、笑えるだろ。

何にも建てられていないのに。

何を押し破るんだ?

何も作られていないのにさ。

何が何を殺すのか?

何も居ないのに。

存在していないものが同じく存在していないものを。

次に来る何かに対して特別な期待もない。

話すのをやめた方がいいよ。

人間の特異性なんて!

私のクソが私の本質だ。

私の体の中の寄生虫、それが私の本質なんだよ。

何がカードの家だ!

何が無限かというと、

それは無知だ。

無知だけが、唯一無限なんだ。

無知以外のすべては有限であり、知は無知に勝てない。

時間は無知によって、意外性の皺として身もだえる。

ねじりねじって―



(間)


申し訳ない、少し興奮してしまったみたいだね。

誰かと話すたびに、どうしても緊張が高まってしまうんだ。

最近では、生きている人と話す機会がほとんどなくなってしまった。

私にも、数少ないけどいい友達がいたんだ。

むしろ、私たちは小さな部族のような感じだった。

中には支配的で強力な者もいれば、比較的弱かったり、隠れたり、従順な者もいた。

それは社会化の一環で、私たちは悪い関係ではなかった。

口臭が混じり、日々午後がやってきた。

私たちは別れた瞬間、一安心したが、すぐに不安になってしまった。 明日はすでにそこに待機していたわけだ。

慢性疾患のように。


(間)


今日のお天気は、心地よくて厳格な日差しが続いています。とっても魅力的な日。

あまりにも明るいので目を細めなければならない。とても明るい。

ただ、今の時期にしては暖かくないと思いますね。

今年は何年だっけ?

今は何月でしょうか?

今はどの季節でしょうか?

まったく、私には何が分かるのでしょうか?

ただ一つ、ここが通路のない子宮だということだけは確かに分かります。

なぜそれ以外のことが何も分からないのでしょうか?

いつも何かが私を引き止めているんです、何かが——

今日は何日でしょうか?

今日は何曜日でしょうか?

もう晴れていることも、

あなたがそこにいて、私がここに立っていることも信じられません。

私は一体何者なんでしょう?

この劇の中で、ただ数分間汗を流して働く労働者に過ぎないのでしょうか?

この劇は、自分自身についてあまり理解していないようです。

この劇の作者は、私たち自身について何の手がかりも与えてくれていないようですね。

私たちは名前もなく、性別もなく、時間も年齢もなく、地域もなく、そして自己さえもありません。

確かに、私たち全員——

あなたも、私も、観客も、採用者も、制作者も、

皆、無名の装置のように扱われています。

かさばる装置のように。

いたずらっ子、

いたずらっ子!

まったく。


(足が、誰か――おそらくPERSONの――足が舞台に少しだけ突き出る。その後、引っ込む。)


作者は私たちをどこにも向かわず歩かせている。

この劇で、

主な形として行われているのは、あらゆるつながりを断ち切り、

支配感を高めることにある。(でもそれは誰のため?)

作者はできる限り少ない情報でこの劇の時間を満たそうとしている。

なぜなら、暗示の美しさが最も重要だからだ。

しかし、その美学を気にしない私たちは、

できるだけ多くのヒントを聞いて、この劇が何を言いたいのかを正確に知りたい。

もしくは、その逆で、言葉をさらに並べたいのは作者で、

私たちは、長々とした説明を拒み続けているのかもしれない。


とにかく、この劇は厄介なものだ。

とにかく、私たちにはまったく関係ない。

とにかく、意思疎通は不可能だ。

とにかく、人生は短い。

たとえ私の人生が特別に長くても、

それが本当に長いとは感じないだろう。

死がある限り、人生は短い。

もし死がなければ、人生自体が死そのものになるだろう。

だから私は、永遠の死よりも短い人生の方が良いと思う。


いいえ、もしかしたらそうではないかもしれない。

生まれない方が良かった。

生まれない方がいい。

しかし、すでに生まれた者にとっては、死なない方が良い。

なんてシンプルなことだろう?

なんてシンプルで狡猾なことだろう?

なんてシンプルで官能的なことだろう?

エキゾチック?

誰もが自分の人生を引きずらなければならない。

私の引きずる人生、あなたの引きずる人生。


これは良いショーではありません。

何かを言っていますが、今日が何日なのかは教えてくれません。

私たちには「今日」がありません。

とてもいたずらですね。

私たちの軽蔑すべき友よ。


いつか一緒に劇場に行きましょう。

今週末はいかがですか?今月の終わりにぴったりです。

毎月の記念日としてその日を決めましょう、どう思いますか?

毎月の終わりに劇場に行くこと。

あなたは心理的で言語的なものを覗くのが好きですか?

原始的な動きはお好みではないでしょう?

おいでください、きっと何か共有できるものがあるはずです。

お互いに確認し合えるものが。

全部見逃したくはないでしょう。

私が言ったことを覚えておいてください。

私はあなたのことを知っています、窓越しにあなたがおっしゃっていたことを聞いていました、私は。



VOICEの声は消える。



4.私の苦い唾液。


苦い、なぜだ?、私の味覚神経がおかしいのか?それとも、私の心が苦い状態なのか?


PERSONが、自分の場所、部屋、空間にティーカップを持って入ってくる。

PERSONは、以前と同じ人物かもしれないし、少し変わったか、全く別人かもしれない。

PERSONはお茶を一口飲む。

椅子の上にある女神像(もしくはクッション)が気に入らず、蹴り飛ばす。

代わりに、PERSONはその椅子に座る。

『'Maria Teresa Vera- Veinte años’ 』が約10秒間流れ、突然止まる。

PERSONは、なぜ音楽がそんなに早く終わったのか不思議そうに周りを見渡す。

PERSONは床をしっかりと踏みしめ、穏やかだがしっかりとした低い唸り声をあげる。

PERSONが立ち上がり、ぼんやりとしながら、何か言いたげに唇を動かし、荒い呼吸をしている。

PERSONは再びお茶を一口飲む。

静寂。

PERSONは椅子に座るが、突然飛び上がる。まるで棘に刺されたか、妙な冷たさを感じたかのように。

PERSONは再び椅子にクッションを置き、今度はその上に座る。お茶を一口飲む。

PERSONはお茶をすすりながら、舌でマグカップの縁を触れている。


(PERSONの行動に対して何も説明を書きたくなかったが、詳細な指示をいくつか書いてしまった。本当に後悔している。)



PERSON

もうオナニーはしない、年を取りすぎた。

何年も…

最後にオナニーしたのは、何年も前、いや、何十年も前だ。

全然やる気が起きなくて、何年も、何十年も。


頭が痛い時はゆっくりこめかみの周りをマッサージする。

ゆっくりと、引っ張りを中和させる。

おでこやこめかみをこすって、痛みや緊張を和らげるんだ。

その機知に富んだ緊張、ひどい緊張。

しばらくそうすると、痛みが和らいで、頭痛が消えていく。

頭皮をこすってるだけで。

いつもそうなんだ、そうなんだ、非常に。

非常に。

その後、痛みが少し和らいだら、

残ってるちょっとした痛みはケーキみたいに甘く感じる!

素敵だね、愛しい痛み。

厳しい痛みは甘い痕跡に舞い落ちる。

動物が気になる場所に触れるのは本能だ。

イライラするところ。

犬は傷を舐める。

変な感じがする場所を舐めたり、かじったりするのは、まさに純粋な反応である。

私はある対象をみなければならない。自分の意志は体に届かない。

サイレンの音、たぶん窓の外を見るだろう。

だぶん。

だぶん。

かゆいところを掻くように。

赤ちゃんは鏡に映った自分を触ったり、叩いたり、舐めたりする。

赤ちゃんは鏡に映った自分に口づける。


もう睾丸のあたりにかゆみなんて全然感じないんだ。

生殖に関する臓器や精神力はもう、

何の形もなく、形を与えてくれることもない。

ちくちくする背中を掻くんだ。

でも、もう睾丸のあたりにかゆみなんて全然感じないんだ。

全然。

全く。

全然。

いや、もう全然そんなことはないんだ。

年を取りすぎて、生殖器も俺のことを恐れているに違いない。

昔は、よく文章を読んでいるときに、習慣的に股間の毛をいじってたんだ。

眠くならないようにするためにね。

嫌だと思ってたのに、気づけば毎晩、例外なくそれをやってたんだ。

毎晩ベッドでね、毎晩。

毎晩ベッドで本を読んでたんだ。

非衛生的だって分かってたのに、ついさりげなくやってしまった。

毎晩ベッドで本を読んでたんだ。

その本は、不愉快な作家たちの、気が抜けるような言葉ばかりで、

ぐらつく作家たちと、そのぐらつく本を読みながら、

俺は股間の毛をいじってたんだ。

毎晩続く楽しみがあったのに、気づいてなかったんだ。

本を読むことと、股間の毛をいじることを同時にやるのが、

どれほど素晴らしいことかなんて、まったく分かってなかった。

ところが今日はもう年を取りすぎて、老いて、死に向かっている。

自分のことさえ、ろくに世話できないんだ。

読むこともできない、考えることもできない。

書くこともできないし、期待することもできない。

憎むこともできないし、愛することもできない。

単純にもなれないし、複雑にもなれない。

無味乾燥にもなれないし、興奮することもできない。

善人にもなれないし、悪人にもなれない。

愛想よくもなれないし、感じ悪くもなれないんだ。

宗教的にもなれないし、無宗教的にもなれない。

祈る方法もわからないけれど、祈らなければならない。

誰に、何に祈るのかもわからないけれど、

誰か、何かに祈らなければならない。

何かのために祈らなければならない。

祈ることの意味など、まったくわからないけれど、

祈らなければならない、まるでゲームのように、儀式のように。

祈ることに逆らうために、祈らなければならない。

そして、それによって何も成し遂げられない、

何も意味することはない。

(どうして何かが何か別のものを意味することができるのか?)


自分自身を観察することは、なんだかエキゾチックだ。

「私」、

「自分」、

「人間」、

「存在」。

「私」

「自分」。

小さな「私」と大きな「私」。

「自分」のない「私」。

「私」、

「自分」。

「私」と「自分」は、これまで以上にエキゾチックなものになり、

やがて自分にとって完全に見知らぬ存在になっていくのだろう。

実際には過去を評価している。

「前」という堂々たる名詞、それが嫌いだ。

嫌でたまらない。

「前」、復讐の昨日、過ぎ去った日々、それが嫌いだ。

そして、明日というものはすべて恐怖だ。

当たり前の戯言にすぎない次の日々、それが恐怖。

嫌でたまらない。

でも、もう次の明日が訪れることを願っている。たくさんの明日が来ることを。

たくさんの明日が欲しい。

どれだけ多すぎるほどの明日があっても、それで十分だとは決して思わないんだ。

しかし、どの明日も恐怖に等しい。

次と明日はすべて役に立たない。

どの明日も、昨日に消し去られる。

そう、そう。

そう。

昨日は、今オナニーをしていないことを非難するだろう。

昨日は、私があまりにもぐらついていたと攻めるし、「その時はあまりにもぐらついていた」と言うだろう。

昨日はそう言う、それがやつらのやり方だ。

それこそが、やつらが時間に寄生する方法なのだ。

それは呼び寄せる、呼び寄せる、

泡を飛ばした昨日のもつれた塊を——

コケコッコー

コケコッコー

まるで機械的なルーチンのように、

コケコッコー

私が吐き気を感じなければならないことについて吐き気を感じる。

この嘴はだれのものなんだ!

昨日は今を拒むだろう。

チューチュー

チューチュー

明日は昨日を詐欺師だと言い、

昨日は明日を詐欺師だと言う。

すべての安っぽい明日はすべての昨日が安っぽいと言い、

すべての安っぽい昨日はすべての明日が安っぽいと言う。

すべての詐欺は結果的に安っぽい。

今日、私のオナニー不足は、

言うまでもなく、それはみすぼらしい策略、

みすぼらしい策略、

みすぼらしい策略だ。

「みすぼらしい」という言葉は、たぶんみすぼらしく聞こえる言葉だ。

みすぼらしい策略。

素晴らしい。

その欺瞞に逆らうことができればいいのに、

すべてが嘘だということは知っているから、

知っているすべての嘘が偽りだということも。

すべての知られた嘘は、すべての知られた真実と同じくらい疑わしい!

そう言おう、そう言おう。


(止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、PERSONは止まる)


しかし、この、今日の、オナニー不足の体は明日へ向かうのだろう。

もっと足りない肉体が。

衝動なし。

かゆみなし。


私たちは皆、あらゆる巧妙な手段に屈しなければならない。

長期的な巧妙な手段、短期的な巧妙な手段、

理解できるもの、理解できないものも含めて。


その詐欺師たちは偽の人格を売りさばいている。

偽のものを、偽物たちの間で回しながら売りつけ、

子どもたちを偽の子どもに染めていく。

そして、自分が詐欺師ではないと思っている連中は、

その詐欺師たちが一体誰で、どこにいるのか、

一体全体どこにいるのかと、疑問に思っている。

一体誰が詐欺師なんだ?と、私たちは自問する。

詐欺師を人々の中、物の中から探し出そうとする。

偽物を作る連中を、本物らしく見える偽物たちの中から狩り出そうとする。

滑稽なことに、時として狩る者が他の狩人たちに狩られるのだ。

これがまた、コメディーであり、同時に悲劇でもある。

もしかしたら、私もその詐欺師の一人なのかもしれない。あるいは、その予備軍か。

全ては、私自身の詐欺を正当化するための巧妙な詭弁に過ぎないのかも。


かさばって重たい虚栄心。

虚栄心、

虚栄心。


(PERSONが座る。ゆっくり、それとも急に?)


今更思い出すことー

私は色んなことをして来た。

そして、私がしたことはすべて純粋な善意だったわけだ。

でも、私は台無しにした、完全に台無しに。


物は、決して善意から行動しない!

生きているか死んでいるかに関わらず。

物は行動する! 行動する!

物は何か別の理由から行動することはない、

物は行動し、

それ以外のすべては策略、煙と鏡、

あるいはみすぼらしい逸話、

言ってしまえばみすぼらしいバラード。

でも、物語は大歓迎だ、

私たちは自由なものを歓迎しないが、

物語の中にあるものは歓迎だ。

しかし、物語の中にあるものだけだ。

絶対に、

絶対なものは、

絶対に、絶対なものは。

(良い沈黙の一撃)

私は今、哲学を論じているわけではない。

哲学的な驕りは、私の中深く根付いた手法だ。

芸術には手法しかない。

私はその哲学的な驕りから解き放たれる必要がある、

なぜなら、私は自分の人生における哲学的な驕りのイメージを求めているからだ。

私は哲学的な驕りそのものの具現化でありたい。

物語は物を支配する!

いや、物などない、

自分を物として知ることはできないけれど、

その動機を聞き、その物語を聞く。

私は哲学的な驕りそのものに!

私の人生には何もなかった—

しかし、その哲学的なダニになれるという希望だけがあった。

それしか何も持っていなかった。

(良い沈黙の一撃)

血縁関係の美徳?

(『 'Maria Teresa Vera -Veinte años'』が流れ始め、30秒後には消えてしまう。)

夢にも思ったことはない。

まったく、ない。

家族を作ろうなんて、

そして一旦の絆をつなぐために残酷になるなんて!

夢にも思ったことはない。

まったく、ない。

すべての子供たちは

やがて成長して

その運命は薄く、狭い。

子供たちはほんの数種類の人間にしかなれない。

彼らはゴミになるか、ゴミ箱になるか。

怪物になるか、小さな頭脳になるか。

ゴミかゴミ箱か。

もし子供がいたなら、彼らに尋ねただろう。

「ゴミになるか、モップになるか、どっちを選ぶ?」と。

すべての親もまた、ゴミかゴミ箱だ。

ゴミになるのが得意な親もいれば、そうでない親もいる。

ゴミ箱になるのが得意な親もいれば、そうでない親もいる。


先祖と子孫。


そんなことはできなかったんだ!

そんな運命に耐えられるかどうか、自信がなかった。

家族を持つということは、一緒に自殺するようなものだ。

そしてー

誰とも繋がらずに一人でいるということは、

一人で自殺するようなものだ。

一緒か、一人か。

私は後者を選んだ、ずっと前に。

ずっと前に。

血縁なし、

そうそう、

血縁なしってこと。

遺伝なしってこと。

遺伝なしってこと。



あらゆる手段を使って、自分を絆の恐怖から守ってきた。

あらゆる方法で、絆、束縛の誘惑に抗ってきた。

誰も何も軽蔑したくなかったから。

結局、接したものすべてを軽蔑してしまったから。

人も物も、全て。

あらゆる関係があらゆる出来事を生み、

あらゆる出来事があらゆる不規則と規則、規則、集団的な出来事を生む。

しかし、もともと規則も不規則もなかった。

すべては言葉、すべては口の中にある。

すべては言葉——

親は言葉で子を磨く、言葉は彼らを摩擦だ。

自然に、あるいは不自然に、

すべての子供は怪物か小さな心になる。


私は怪物か、それとも小さな心なのか?

そう問うべきだ。

ずっと自分に問い続けてきた。

同時に、その問いを避けようともしてきた。

ずっと、私の人生を通して。

その問いが、まったくもってくだらないと、自分を責め続けてきた。

私はゴミなのか、ゴミ箱なのか?もしかしたらその両方かもしれない。

くだらない、そして有害だ、その問いは。

なぜなら、偏見は軽蔑すべきもので、分類も同じく。

私は二元論が嫌いだから。

でも、「二元論が嫌いだ」と言うこと自体、まさに完璧な二元論ではないのか?

言葉遊び。

もう、くだらない言葉しか出てこないんだ。

ゴミか、ゴミ箱か。

怪物か、小さな心か。

分類は、どのみち偏っている。

どのみち、

どのみち。

あらゆる分類にアレルギーがある。

それでも、あらゆる分類を探っている。

その苛立たしい行き来は、

おそらく、私の人生の創造なのだろう。

そう、たぶん。

直立することは不可能だ。

そう、まったく不可能だ。


時々、この場所、私の部屋は私を麻痺させる。

まるで、誰かが誰かに暴露したいけれど、

最初から暴露する秘密がないかのよう。

この誰かはただ熱を消費したいだけ、そう、ただそれだけ。

私たちは皆、ただエネルギーを手放したいだけ、そう、それ以上でも以下でもない。

(しばらく言葉を止める)

影響から抜け出そうとする子供は、決してその希望を現実にすることはできない。

その影響を考えれば考えるほど、子供の人生や心の中で、その影響はますます絶対的になるわけだ。

同様に、すべてのルールを撤回しようとする者も、すべてのルールを無視することはできない。

すべてのルールに常に関心を持ち続けなければ、

すべてのルールを排除するためには、

すべてのルールに興味を持ち続けなければー

慢性的にルールに興味を持ち続けなければー

(しばらく言葉を止める)

考えること、それが殺人者だ。

自分が考えられると思うことこそが、本当の殺人者だ。

自分が考えられないと思うことは、実際の殺人者だ!

(しばらく言葉を止める)

彼は言った。

芸術はやるな、

哲学もやるな、

宗教にのめり込むな。

真理を渇望するな。


でも、嘆け。


でも、嘆け。

彼はまるで自分に言い聞かせるかのように、私にそう言ったんだ。

その時、彼は60歳、いや、61歳だったかもしれない。

私は20代後半、あるいは30代に入った頃だった。

彼は時々、精神安定剤を飲んでいた。

トランキライザーって言ってた。

普段は普通だったけど、たまに薬を飲むことがあったんだ。

彼の両親も同じようにトランキライザーを飲んでいて、

そして徐々に、彼の親戚全員が驚くほどの量を飲むようになったんだ。

彼の兄弟、妹、甥や姪、みんなそうだった。

彼は泣かなかった。代わりにトランキライザーを飲んだ。

人生を受け入れる代わりに、彼らは肉体の平穏を選び、

巨大なトランキライザーのタンクの中でもがいていた。

誰もが行動する代わりに、

徹底的に先回りして何かをすることをやめていた。

先回りして、

先回りして、そう。

徹底的に、曖昧さへの恐怖、明日への恐怖に捕らわれていた。

泣くことも、悲しむこともできたのに、

彼らは永久に活動を停止させる甘い薬を飲んだんだ。

永遠に、永遠に。

それじゃあ、私のトランキライザーは何なんだ?

臭い口の中をゆすぐための密かなデザート。

この劇か?

この独白、さらに酷い悪臭を吐き出し続けるこの独白!

始めるべきじゃなかったんだ。

生まれるべきじゃなかった。

こんなことを始めるべきじゃなかったんだ。

もしかすると、もうその時が来たのかもしれない。

今こそ、それをやる時だ。

いや、それは違う、絶対にそうはならない。

いや、いや、どんな犠牲を払っても、そんなことはしない。

今はもうあまりにも枯れていて、何かに反抗することはできない。

今は自分に逆らうには遅すぎる。

自分を捨てるなんて、全くナンセンスだ。

それなら、ここに座って、これやあれについておしゃべりする方がましだ。

ここにあるものと、あそこにあるもの、

良いものと嫌なもの、

空虚なものと豊かにあるもの、

馬鹿なものともっと馬鹿なもの、

どれだけ愚かで、どれだけ人工的なのか、

そのようなことを延々と。

それが私の嘆き方だ。

これが私の哀しみ、

精神安定剤は要らない、

私は嘆く!嘆きの声。

(PERSONはマイムで薬を飲む。)

私の叫びは順調に働いている、何の問題もなく。

長い詩を透かして見る。

オフセンターでも、デッドセンターでも。

私は二項対立が嫌いだ。

この世の誰が中心から脱することができるだろうか。

どこでも中心がある。

誰も中心にいることはできない。

どこでも中心が飛び出る。

止まらない。

私の枕は一つの中心だ。

オナニーなしの苦痛も一つの中心だ。

そして、あなた、そこに座っていて、私を邪魔しないように、

この劇やここにいる誰かを乱さないように、

あなたもまた一つの中心だ。

あなたのいつもの行動もまた一つの中心だ。

私たちはこの中心からあの中心へ逸脱する。

ある中心の中にいるか、いくつかの中心の中にいるかもしれない。

率直な中心、隠された中心、

ひそかな中心、引き出された中心、

出し抜かれた中心、

憎しみと愛の中心、

贅沢な中心、低所得の中心、

第一の中心、第二の中心、第三の中心、

左の中心、右の中心、

中心のない中心、中心のような中心…


狂人。

狂気だ、まったく狂気だ。

これにいくら払いたい?

1分で何枚の銅貨か?

狂気だ、まったく狂気だ。

反吐が出るんだ。

何でも何かと。

何にでも対価を払う、

それはもう感覚として身に付いている。

出生に対して払う

生きることに対して払う

死に対して払う

虐殺に対して払う

そして突然、平和に対して払わなければならなくなる

娯楽、芸術、

芸術のない芸術、詩、文学、歌、

古典的な、古典的な大虐殺に対して払う

常識と無意味さに対して払う

まだ生きているという事実に対して払う、まだ。

黙りすぎる自分に対して払う。

喋りすぎる自分に対して払う。

確かに、私たちはみんながどれほどぎこちない揺れにいるかを悟るために払わなければならない。

そして、トランキライザーを飲む。

トランキライザー…

トランキライザー…

(PERSONはマイムで薬を飲む。)

私は生涯を通して、この三つの厄介な敵を抱えてきた。それは、

「存在」、「支払い」、そして「死」。

これが私の一生の敵の名前だ。

存在、支払い、死。

三つの敵、解けない。

あらゆる小さなジレンマは、この三つの大きなジレンマが交わるところから生まれる。

存在と死、死と支払い、支払いと存在の衝突から生まれているのだ。

この三つの敵で話は始める。


トランキライザーはただの幸運だ、作り話だ。


もちろん、トランキライザーを飲むことで、たくさんのことを吹き飛ばせる。

彼らは――私の父、父の父、そして彼のすべての親戚は、

疑いもなく、疑いもなく、山ほどのトランキライザーを、

ひと握り、またひと握りと、迷わず受け入れていた。

彼らは「不安定な人」という役割を演じていたが、

そもそも不安定な人間とは何か、全く理解していなかった。

だからこそ、さらに大きなひと握りを、飲み込んだ。


彼らは何かぼんやりとした焦燥を感じていたのかもしれない。

かゆみを感じていたのかもしれない、

私はかゆくはないが、彼らはそう感じていたかもしれない。

彼らは良質なオナニーが必要だったかもしれない、

私はもうそんな気にはならないが、彼らはそれを欲していたのかもしれない。

でも、彼らはオナニーができなかった。

良質なオナニーを楽しむ余裕がなかった。

だからトランキライザーを飲む、

次善の策として。

全身に突き刺さる、不完全な感覚を安定させるために。

全身に、彼らの全身に。


私はしない、

私はしない。

生きるふりをするが、

死ぬふりはできない、

生きるふりをする。

疑いもなく。


今のところ、命を絶つことは不可能な機能だ。

そのボタンを押すことは決してない。

とはいえ、それはすぐ手の届く場所にあるボタンだ。

ボタンというのは、原始的でありながら、とても興味をそそるものだ。

ボタンを押したいという誘惑を抑えるのは、かなり痛い。

本当に、腹が縮む。

私たちは皆、ボタンがそこにあることを知っている。

各々のすぐ近くに、ボタンはある。

おそらく、そのボタンこそが、私たちに与えられた唯一公平な贈り物だろう、

たぶん、

たぶん、

たぶん。

それでも、私は押さない。

それでも。


祈ることはしない。

神聖な豚ども!



プロの慈善、プロの偽善。

中途半端な連中。

彼らは、職業として世界を歪め、

巧妙な声で世界中の無関心を育てている。

彼らは金を集め、そして無関心を育てる。

寄付者たちは金を差し出し、

夕食の席で何か話すための材料をようやく手に入れる。

彼らの野暮なディナー会話を飾る何かが必要だ。

そう、会話のきっかけを得るために。

彼らは、ささやかな好意の感覚を欲しがっている。

それで会話を始めたいんだ。

それに、この国は「良い慈善家」になるにはうってつけの国だ。

この時代はまるごと、巨大で慈善的な恩人である。

巨大で、慈善的な恩人。

恩人か、受益者か。

すべての恩人は、すべての受益者に対して悍ましい幻想を抱いている。

そして、すべての受益者は、すべての恩人に対して恐ろしい不快感を抱いている。

すべての子どもたちは、野生動物かサファリツーリスト、

動物学上の対象か、それを観察する見物人になるのだ。

その「観光の道徳」がすべてを破壊する。

観光客は、自分たちの前で物事が裸に晒されるべきだと主張する。

言い換えれば、彼らは地上のほとんどのものを観察する権利があると思い込んでいる。

大半のもの―

科学によって与えられたもの、

モダニズム、

ユニバーサリズム、

グローバリズム、

もしくは神、

あるいは……


極めて下品だ!あの――

リズム。

極めて勇敢だ。

極めて堅固だ。

リズム、そしてあの―

極めて独裁的だ。

極めて――

独裁的だ。


家族を持ちたいとは思わなかった。

動物園を経営したり、動物学者になりたいとは夢にも思わなかった。

私はただ、生きるふりをしているだけだ。

排尿し、空腹を感じ、寒い時には体を丸める。


尿をする!

空腹を感じ—

寒くなったら、体を丸めて手や腕を擦り合わせる。

時折、自分に思い出させるんだ。

自分の存在こそが災いの源泉であり、

存在そのものが過去や虚偽を引き起こしているってことを。

自己破壊の製粉機さ。

そして、この終わりのない消化不良に苦しみ、

何も消化できず、ただ摂取するだけ。

何も消化できない。

ただ取り込むだけ。

私の消化がどうだろうと、

誰も気にしちゃいない。

私の可哀そうな身体的・精神的な吐き気だって。

私たちは、詰め込まれるべくして詰め込まれ、

腐り、毒になる運命なんだ。


私たちは熟しすぎている。

すべてを過大評価して、

何度も、何度も。

何もかもを押しと止める。

だが、俺たちは内側も外側も熟れすぎてしまう。

内側も、外側も…


時々、爆発する。


ノンセンスで満ちているわけではない。

それは、センスで溢れているからだ。

脳が処理しきれないほどの膨大な感覚を感じ取る。

常識を超えて過敏に反応している。

突然、何かの感覚が襲いかかり、不意に恐怖を感じることもあるが、

それを恐怖だとは言わない。

代わりに、ノンセンスだ、あるいは馬鹿げた神経症だと言い表す。

その未知の感覚に対して好奇心を持つことはなく、

ただノンセンスの世界に引き込んでしまう。

そのせいで、私たちはノンセンスなものに恐れを感じてしまうんだ。

私たちは省かれた何かをあがめるし、申祭り上げるし、

無意味を信じる。

無意味。

感覚に満ちているが、私たちは無意味を常に崇拝する。

この世界は感覚で満ちているが、それは単なる低俗なものとして数えられる。

そして、その幽霊のような無意味がすべてを代替する。

重力のように、あらゆる感覚を引き寄せる。

そう考えると、

この世界は無意味で満ちている。

そう、ノンセンスで満ちているのだ。


このセンス的な世界、

このセンス的な世界の解釈全部は、

ノンセンスに統治されている、ノンセンスに、

私の言語は私の知性であり、

私の知性は濁っているノンセンスに支配されている。

知性、

方法論、科学的な方法論、

数字、超越的な善悪、母性愛、親族、友情、

品のない善意と悪意、ナショナリズム、

有名な「考える、故に私はある」、有名な反コギト、

人類学、考古学、人文学、

美学、構造主義、なになに主義、なになに学、なになに念、などなど…

目に見えず、感じることのできないそれらの全て、

そのノンセンスの山は私そのものであり、

「私」、大きな「私」、根本からすべて。

(沈黙、PERSONは何かを思い出そうとする)

何かに腹が立つ。

何かを見に行くことには、気持ち悪いものがある。


あなたは私より不幸ではないこと、

この芝居やその結末より不幸ではないものが好きだったのかもしれない。

あなたは何かもっと良いことを期待していたかもしれない。

たぶん、あなたは何も期待していなかったかも。

恐らく期待しすぎたのは私だけだった。

なにもかも、期待しすぎたから。


出来事はない。

この芝居は、最小限の出来事から成り立っている。

この無事件こそが、私があなたに提供できる唯一の出来事だ。

私は、あれこれ、なんだかんだ、波のように押し寄せるつまらない話を、ただー

愚痴の雹。

私は、意識の流れをそのまま朗読しているわけではない。

私の意識は豊かに、スムーズに流れてはいない、ゆえに、停滞し、汚染されている。

だから私は棒でかき混ぜ、刺激を与え、叩いて渦を作るのだ。

私の意識には自然な流れはない、私は流れを作り上げる。

私は人工的な渦を無限に作り出せる。

この芝居はそのような戯言に捧げられている。

あなたはこの芝居を嫌悪するだろう、確信している。

なぜなら、この芝居の成分はあなたのものよりも、ずっと退屈で、無気力で、意味がないからだ。

実際、すべての芝居、すべての動物園、それの中のものたちも、実際にはあなたのものよりも無気力で、疲れ果て、意味がない。

観察者のみだ!

生きているものは。

実際、物事は観察者を除いて、すべて無生気だ。

私は実際には、あなたにとって生気のないものだ。

あなたは実際には、私にとって出来事のない存在だ。

私は常に観察者の自然さ、本質に興味を持ってきた。

観察されるものには興味がない。

私が最も魅かれるのは音楽ではなく、聴き手、観客、自分自身なのだ。

観察者たちを観察すること、非常に面白い。

音楽はどうでもいいんだ。

私は人間を見る。

聞き手は他の観察者を知らないのだ。 実際、彼らの中には気づいている者もいるかもしれない。 意識的に、無意識的に、彼らは観察されていることを知っている。

実際、誰もが他の観察者を知っている、意識的に、無意識的に。

意識的に、無意識的に。

実際、皆知っているはずだ。

実際に、おりの中の動物は観察者を嫌がる。

ということはほとんど誰もが知っている。

すべての作家は、すべての読者を深く軽蔑している。

すべての意味は、すべての言葉に反対である。

実はー

事実ではないはずだ。

これは事実ではないはずだ。

事実は実は事実ではない。

言葉遊び。

戯けな戯れ。

私の父はよくこう言った。

「芸術や言語やイデオロギーに行くのではなく、一人で嘆くのだ!」

一人で嘆くのだ。

実際、私はこの劇を始めるべきではなかった。

いや、それは微妙な嘘、それは微妙な言い訳だ。

この芝居が欲しかった、

この狡猾さが欲しかった。

私はこれらすべてが必要だった、

演出家、パフォーマー、

舞台、音、観客、チケット、

良い日々、良い天候、

良い評判と悪い評判。

この芝居を書き始めてからもう一ヶ月が経った。

一ヶ月以上—

5月24日、

今日は5月24日、水曜日、いいえ、木曜日。

これが始まったのは、

約一ヶ月と十日前だった…

そう、だいたい。




一ヶ月ほど前から、この劇にのめり込んでいた、

必死に、この劇の中で、

私は長い間、この生活に浸っていたけれど-

私は、実際に受け入れられる以上の言葉を書かずにはいられなかった、

必要されるだけの隠喩でとまられなかった。

この劇は必要以上に多くの直喩を増殖、

あちこちで、歓迎されない言葉が、あちこちで、

雑音が、

ダンディズムの極み。

実は、これまで演じてきたこの芝居はまだ生まれていないんだ。実は、

私たちは何の地点でもなく、どこにも向かっていないんだ。実は、

この芝居は私たちにとってそれほど重要なものじゃない。つまり、

私は間違いなくいずれまた別の芝居を書くし、

人々もいずれ、違う形で自分たちを楽しませてくれる何かを見つけるんだ。

これは何もないさ。

重たすぎるわけじゃない。

そう、そう。

私たちはここにいて、

ずっとここに座って、この瞬間のことを忘れてしまっているんだ。

私たちは何かを忘れる為にそれをみるのだ、同時に、同時にそうする。

反演劇や反文化を主張しているわけではない。

すでに終わってしまった私の芝居には反対だ。

他人の芝居にも反対だ、

過去の芝居にも、

歴史の芝居にも反対だ。

反演劇に関わっているわけではない、

でも死んだ演劇には、そう、反対だ。

何かが最終的になるのは耐えられない。

完成された芝居、完成された一日、

完成された仕事、完成された人生、完成された自己、

完成された文、

「完成」というのは、

私が絶対に立ち向かえないものだ。

閉まった扉が耐えられない。

完成された文、完成された構文、


悪夢だ!


5月24日、今日はその終焉の日だ、ざっくり言えば。

この芝居は書き直されるかもしれない、再演されるかもしれない、改訂されるかもしれない。

でも今日は5月24日、私は今日がその死の日だと宣言する!

この芝居は自己満足だ。

結局のところ、これはあまりにも自己満足だ。

5月24日、5月、

5月24日、

5月24日。

それは…

この芝居を終わらせるのが待ちきれない。

待ちきれないんだ。


私はそれぞれの錠剤に、私が最も愛する場所の名前をつけた。

私のお気に入りの都市や町、香港、サンタローザ、リンツ、札幌、オールスドルフ、西塘、ズノイモ。

だから毎晩、寝る前に一つずつ、香港を一つ、リンツを二つ、サンタローザ、オールスドルフ、西塘、ズノイモを飲み込む。

これが私の一日の終わり方だ。毎晩、これらの都市を飲み込んで、その素晴らしい都市たちが、

私の馬鹿な胃の中を通り抜けていくのを感じるんだ。

時々、彼らは小さな騒ぎを起こしているのを感じたり、ゴロゴロ音を立てたりする。

特に、リンツのカプセル二つは、かなり大きすぎるからね。

リンツは半分が青、半分が黄色のカプセルで、長さは23㎜、直径は8.2mmだ。

香港は、やはりお気に入りだ。サイズがちょうどいいんだ。大きくも小さくもない、いや、むしろ小さい方か。小さくて白い、とても白い。

いや、白いのは西塘だ。一番小さいやつだ。香港はマスタード。

そうだ、西塘はとても白いやつだ。

オールスドルフはかなり怪しい形だ。六角形で、少しピンクが付いている……

香港も六角形だ。

サンタローザ、サンタローザ……

行ったことがない、どこにも行ったことがないんだ。

親父は札幌に執着していた。

私はそこに行ったことがない、結局行けなかった。

素晴らしい街、町だ……

だが、いざその素晴らしい街や町に行ったら、急に災いが訪れるように感じるものだ。

すべては遠くから見るからこそ魅力的なんだ。

いや、それは醜い考えだ。

遠くから見るからだと?

それを私が自分から言い出したのが醜くてたまらない。

香港……お気に入りだ。

オールスドルフもそうだ。

毎晩、これらの街を口に、喉に押し込むことができる。

六角形の……

今や、その街が私の病んだ体を保っているのか、それとも私の病気がその街を存続させているのか、わからなくなってきた。

水が必要だ、冷たくない水が。



突然、多くの存在が現れる。その存在たちは、よくわからないけど、もしかしたら(1)普通の社会人、つまり何の変わった行動もなく歩き回っている普通の人たちかもしれない。彼らは9〜20人くらいで、場所を歩き回り、PERSONの周りに立ったり歩いたりしている。彼らは美術館で展示物を眺めるような態度で周囲を見渡し、ささやきながら意見を交換し合っている。ほとんどPERSONに触れそうなほど近いかもしれない。もしくは(2)二人だけがいて、彼らは軽い日常的な会話をしているか、もしくはまったく話さずにただ立っている。二人はPERSONを見つめているかもしれないし、見つめていないかもしれない。(3)その他、また後で考えることにしよう。


どんな状況であれ、PERSONは彼らを観察し、どんどん近づいていく。



PERSON

予想通りよ、

あまりにも典型的だ。

典型的だよね。これが典型的だと思わない?

不条理でシュールな劇を模倣している。

典型的、あまりにも典型的。

これで終わりなのか?この馬鹿げた劇の幕引きが?

吐き気がする!

真剣に考え抜いたものがこれか?

気の毒だ。

これは、まさに物足りない自殺の形だ。

皆が自殺している。例外なんてない。

赤ん坊だってやっているし、胎児でさえもそうだ。

我々は生きているわけじゃない。自殺しているんだ。

存在そのものを無に帰す過程だ。

ある者は幸せな空気の中で、ある者は普通の空気の中で、またある者は陰鬱な空気の中でそれを行っている。

ただ泣きながら自殺している者もいる。

よく「人生は本当に失望だ」と言うけど、そんな言葉は弱々しく響く。

「これは失望の中の死だ」と言わねばならない。

疑う余地なく、純粋に、ただただ失望の死だと。

(沈黙)

ある者は、

自らの終焉のパレードを急いで終わらせようとしている。

人々が建物や地下に駆け込む。

(沈黙)

後でこれを見直さなければならない。

これは、私が知る限り最悪の、最悪の終わりだ。

何か手を打たなければならない。

おかしいことに、あなたが私について書いたことはそれなりに面白い。

あなたは他の誰かによって書かれたに違いない。

もちろん、あなたについて書いた者たちもまた、他の誰かによって脚本化されているはずだ。

一ヶ月以上も、貴方は私をどう処刑するか心配していた。

まるで強制収容所にいるような気分だ。

だが覚えておけ、私は貴方の敵。

私は貴方に対して完全に真実ではない。

一体誰が誰に対して真実でいられるのか?

誰に?

誰に対して誠実でいられるのか?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?

誰に?


私の庭にはキジがいる。

そのキジは私を不安にさせる。

彼はじっとしていて、まるで剥製されたようにじっとしている。

なんだか信じられないほどグロテスクに見える。

彼が醜いと言っているわけではないが、何かに没頭しているようだ。

キジは簡単に驚く、とても臆病な動物だ。

しかし逆に、その見た目は私を怖がらせる。

彼は今、動いている。

動いている、そう、グロテスクな尾を引きずりながら。

昨日見たやつもこのキジだったかもしれない。

最もグロテスクなやつで、ほとんど動かない。

キジは皆、グロテスクだ。

もしかしたら、彼らは人間も皆、グロテスクだと思っているかもしれない。

呼吸し、食べ、笑い、眠り、助け、祈り、話し、座り、立ち、見守り、思い出し、死に、教え、教えられ、噛み、噛まれながら、

自分自身のグロテスクさを見失うことはできない。

できない…



これはサスペンスだ。

あなたはサスペンスの中で眠っている。



人々(あるいは二人の男)がPERSONに近づいてくる。その様子は、映画の中の連行を思い起こさせる。


PERSON

音楽をかけてくれ!

これを全部終わらせるために…

音楽を流して!

かつて私は…私は…

すべてを忘れて、ただ音楽を流してくれ、

そうしてくれ、

カーテンコールも拍手もいらない、もうそれはなしだ、

ただ音楽を、

このすべてを終わらせるための音楽を。

そうしてもらえるかな?

そうしてもらえるかな?



「'Maria Teresa Vera- Veinte años'」が流れている。この時は、曲の途中で止まることなく終わらせることができる。PERSONが言ったように、「カーテンコール」なんてものは存在しない。

可能なら拍手もなしで。

では、どうやってこの劇を終わらせるのだろう?

答えは—全くわからない。

わからない、私は自分の仕事を全うした、わからない。

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