第8話 真ん中の枠
「今見た? 金色の鳥が飛んで行った!」
Kはよほど驚いた顔でそう言った。Kの指差す所には何もなかった。朝日を貫いている木の頂。我々はしばらく黙って待ったが、ある一点を眺めているのではなく、少し遠くを見たり、角度を変えて視線を回したため、すぐにめまいがした。
「コウライウグイス。」
「その鳥の名前?ありふれた鳥じゃないよね?」
「ありふれたのはあなたの考え方だけだ。」
人間は人間の言葉に反応する。しかし、多くの反応は否定として、そのみすぼらしい関係性に輪郭やリズムを作る。否定するための肯定を固定することだ。言葉に対する反応として、言葉で直接したり、軽くうなずいたり、指で表現したり、顔をしかめたり、笑ったりして相手に自分が聞いていることを必死で表す。人間は相手の言葉を巧みに否定するのにほとんどの精力を消費する生物だ。それが面白い。我々はいつもKに驚く。Kには露骨な否定性があり、まるで山から降りてきた突発的な野獣のようにあらゆる有様を曖昧にした。反応の規則はKの体から流れ出る。
水田が広がっていた。小道がうねりながら平面に分裂を起こした。(じゃんけんぽん!)今にも崩れて沈みそうに(じゃんけんぽん!)柔弱なぬかるみの道だった。その道の途中に一人の青年がいた。(じゃんけんぽん!)彼はKに手を振った。
「今、ある見知らぬ男が、この道は自然に形成されたもんですね、と言ってそのまま消えた。自然って何だろう?。」
Kは内ポケットから半透明のビニール袋に包まれた何かを出し、彼に渡した。かなり柔らかく緩い動作だった。我々はもう一度それを巻き戻して見た。やはり柔らかく緩い動作だった。我々はその従順な手に触れたかった。
「ドストエフスキー はもう十分だ。」
ビニール袋の中身を取り出すこともなく、彼は言った。がっかりした顔。
「ドストエフスキーとか、ヘミングウェイとか、カミュとか、もう、うんざり。」
「ドストエフスキーとか、ヘミングウェイとか、カミュとか、うんざりするほど読んでもいないくせに。」
「一冊を読み終えたことはなくても常に読み終わった気がするんだ。」
Kは彼が持っていたビニール袋をひったくって水田に放り投げた。
「何か言えよ。」
「さよなら、ロシアのある作家の本よ、とっくに死んでこの世の何も知らぬ男の本よ、自分の本が世の中の隅々まであらゆる言語に生まれ変わることも知らぬ男の本よ、飼い主も失い、居場所も失い、吠え方も失い、投げ捨てられることしかない。」
彼の言葉が終わった途端、Kが大声を張り上げた。歌?鳴き声?いや、それはトランペットの音を真似するに違いない。彼はそのKを疑い深く眺めた。人格は薄い皮膚で縫合されている、形式的なものだ。その薄くて汚い皮膚を脱ぐと、粘液質に触れる。人格は、握る手から滑るのみである。
水田は分裂し続けた。
いずれにせよ二人はそこで止まる理由がなかったので国道に抜け出た。あまりにも静かすぎて、アスパラートの硬さに倒れそうだった。
(じゃんけんぽん!)
あなたの負けだわ。
何も出してないんだもん!
負け惜しみを言うな!
かわいそうなもんだよ。
嘘つき!
嘘つき!
死ね!死ね!
あんたが死ね!
死ね!死ね!
気絶しそうな道の隅に喫茶店が見えた。「伝統茶」と書かれた看板の前で彼は止まった。
「この喫茶店ってさ、客来ないんだよね。全然来ない。なのにもう数十年間続けている。不思議なもんだ。金持ちの時間潰し用かもんね。」
「あんたが潰してあげれば?」
「よせよ、お茶でも飲むかい?」
店の庭に小さなグラスハウスがあった。その中には虎の剥製が生きているように立っていて、覗き見る人たちをにらんでいた。よく作られた偽物には見るに忍びないほどの哀れがにじんでいる。避ければそれでいいのだ。
予想通り店内には誰もいなかった。照明はついていて、音楽も流れていたが、誰もいなかった。あなたは奇形でしょう!
居心地のいい場所だな、とKは思った。両側の壁の前面に女性の肖像画がびっしりと掛かっていたが、ほとんどが西洋人女性の姿で無表情だった。二人は金髪でタバコを前歯にくわえている女性の絵の下に座った。
「最近はね、気が楽な時には小説を書くんだ。時間でいうと3時間ぐらい、一日に。一日に3回飲む薬みたいだ。」
彼はそう言って、照れくさそうに笑った。金髪の女も笑った。Kは笑ってなかった。我々も。自分の言ったことに自信や魅力がないから笑いながらごまかすのだから。我々は彼のことが気に入らなかった。彼は繊細で神経質的に笑う。無知を隠すためだ。無知な人は天才の真似する。天才を真似した無知な人の真似を。
「母は父の頭のサイズを毎日測った。ずいぶん前の話なんだけど。」
天才を真似した無知な人の真似を。
「毎日父の髪の毛を全部剃ってから巻尺で測ったわけ。脳下垂体の異常だったらしい。頭が少しずつ大きくなるんだって。母は父の髪の毛を全部剃って、測って、練った石膏の粉を頭に塗って、固くなるまで待った。それをそのまんま取り外すと、まるで壊れた骸骨のように見えたもんだ。母は今日の型を昨の型に重ねて、ああ、また大きくなった、と。」
我々は人の話を聞くのに向いていなかった。Kも同じだったはず。嘘以外には何も面白くない。真実もさぞ嘘に近い。そうだ。人の言うことをただの嘘だと事前に考えて受け入れればいいんだ。
「日の当たらない部屋に横になって聞くんだよ。バイオリンの音を。母にバイオリンを習う小学生の女の子がいて、毎日うちに来るんだ。しかしこの子全然伸びはしない。母は足で拍子を取る。1、2、3。1、2、3。全然できない女の子は泣くしかない。全然できないはずだ。母はバイオリンを全然引けないからだ。母がそのバイオリンを弾く姿を見た記憶がない。この何もない村ではなあ、皆んな誰かを信じたくて我慢できないもんだ。ハマるのが肝心なもんだ。」
自分の言葉に現実感を失った人は笑ったり、薄暗い語尾に身を潜めたりする。何かに引っかかって自分の言い訳が取り去られるのを願うということだ。彼は自分のことを話し続けた。Kは決して彼のことについて尋ねていなかった。彼は暗点探しに取り掛かれていた。説明の持たない長い文だ。我々と正反対の実現機能で彼自身のことを取り捕まえ、現れていた。長い、長い台詞。正反対だ。子供たちは大声で喜悦を叫んでいて、古木の枝は槍のように落下する寸前。台詞はだらだらと伸びる性質があり、そこで過去的背景はない。我々はセリフを止める、曲げる、滞留時間の長い物質のように、消化不良を招くのである。そんなひねくれた役に熱中する。台詞は説明を断ち切る。
「ポスチャ! ポスチャ! 全くわけのない叫び声ばかり吐くんだよ。バイオリンにちっとも興味がないのにさ。むしろ、怯えてた。母にとって人間性ならではの求め、歴史、積み重ねた表現は恐るべきもんだ。すぐ緊張してしまうからね。文化的な様相に対して少しも免疫性がない人のように。母を吹き消すかも。そんな不安感が時々降りかかって来るんだ。俺も具合が悪くてさ、何か書こうとしてもすぐ飽きてしまって、結局のところは寝転がりっぱなしになって、聴いてるんだ。何もかも、何もかも聴いておく。聞くのに必要なエネルギーってどれくらいだろうかね。何もかも、それによってそれだけの何か特別な情緒が生い立つかも。だから何でも聴いておくべきさ。特別な、感。ドストエフスキーでは足りないんだ。父の頭と同じ形の真っ白い頭像が床に、階段の隅に並んでいて、空っぽの頭が、俺はそれを、それらを見なければならなかったし、日々徐々に具合が悪くなた。その子も同じ目にあうよ。すり減らされるんだ。父と同じ様になるわけだ、きっとね。その女の子も、俺も。あの子、全然弾けないんだ。俺も全然書けない。あの子毎日うちに来て練習するのにさ。俺も毎日書くのにさ、最初から最後まで最初から最後まで慌てるだけだ。あんなにしてたのに、全然できない自分に驚いて感覚がなくなるんだ。俺、これから小説を書くよ。 何の疑惑もない人物にまつわる疑惑あふれる小説を。しょせん創作なんてするのも見るのもくだらないものさ。そんなくだらない真似を隔てる何かがあるんだ。その何かを破れられるかどうかの選択しか残っていない。母のベッドの横には植木鉢が一つあるけど、全然水をやらない。 母はいつも水の入ったグラスをそばに置いているが、ぜんぜん飲まない。 母は植木鉢に水を全くやらず、置いておいた水も全く飲まない。 水の入ったグラスは積もってるけど、植木鉢は枯れていく。」
疑惑があふれる小説とは?話が矛盾に置き換えられている様?彼はKに違って弱虫だっだ。Kは真実をかく。彼は異なっている表面の物事を書く。彼は理論家であり理想家だ。
「結局、何かが決まっているとしたら、あの子は一曲も弾かずに終わる。俺も一編も完成できないまま死ぬことになる。ぶるぶる震えているんだ。あの子も俺も、ぶるぶる震えている。分かっているからだ。弾けない、書けない。あんたは小説を書きたいのかい?」
Kは頷いた。
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