第6話 用心深く


それは間違いなく椅子だった。口の中、濁った舌の上、濁って揺れる液体に椅子が立っていた。誰の舌かな、もうそれはどうでもいいって。Kの行く道に突然口が現れ、その開いた穴の中に椅子があっただけ。口は人丈ほど大きく、その後ろには何もなかった。口は、深さのある一枚の紙のようだった。


「臭くないの?」


Kが鼻を近づけて匂いを嗅ごうとすると、口が閉まった。青い煙が出た。再び口が開いた。口の中には砂漠のような丘陵が広がっており、牛の群れが鼻を地面につけて、目には見えない何かを食べていた。群の後ろに二人の牧童が木の杖で牛の臀部を軽く叩いた。


「K、あの二人に聞いてみたら?」

「でも・・・話しづらいんだ、若い人たちとはな。」

「怖がることは何もないよ。」


向こうの二人がKを見つけて手を振った。


「さあ、K、さあ、こっちも手を振ってやるんだ!」


Kは手を上げなかった。向こうの二人が遠くへ行って、もう目に見えないまで口をつぐんでいた。牛の群れを呼ぶしゃがれ声が聞こえた。残った子牛一匹が鼻で地面を掻くのに気を取られて、だんだん我々に近づいてきた。その動きをじっと見届けていたKが、突然口の中に飛び込んだ。Kが子牛を捕まえて首筋にしがみつくと、不意打ちに遭った子牛は脆くも倒れた。しばらく凍っていた子牛がKの腕から抜け出そうともがいたが、残念なことに、その罠は強みを増し、あっという間におぞましい状況が成り立った。

子牛の動きがなくなった。舌は出ていた。首はもう頭の重さを持ち上げなかった。ようやくKも力を抜いて呼吸を整えた。Kはその死んだばかりの獣の毛をむしり取って自分の口の中に入れ込み、くちゃくちゃと噛んだ。


子牛の胴体が動いた。それは死から帰ってきたわけではなかった。暗褐色の皮に亀裂が生じ、暑い熱の蒸気が吹き出た。そこから薄い灰色の手が、薄い灰色の肌をした裸体の女性の上半身が現れた。その不思議な存在はそのままKを眺めた。


「どうせ差し越したわけだよ。」


彼女はそう言った。なんてかすかな声だろう。我々は取り憑かれたように聞き入っていた。


「今、あなたは後悔しているのか?私を殺したことを。哀悼するつもりなのか?私に似た人形や象徴する何かに意味を込め、その前で合掌して涙を見せてくれるつもりなのか?あなたは理由を言う、きっと言う。理由は人間の生きている理由。何故私を殺したのか?腹が空いてたから?私はどうせ死ぬべきだったから?いずれにせよ、あなたの答えは外れている。人間は自分に掛け替えのない対象を壊す、散らかす、押し潰す、殺す。哀悼!哀悼!趣味になってしまう。今、あなたは後悔しているのか?人間は悲哀と自己嫌悪で空っぽの論理を満たそうとする。足りない分子を埋めあわせるようなものだ。空っぽだ。何故私を殺した?空っぽだ。どんな理由で幻想を提示しようとしても、どんな著しい帰結でも無駄になってしまう。ああ、人間というもの、空っぽだ。実は不条理しかない。何故私を殺した?実は不条理しかない。私は生まれた。死んだ。ああ、人間よ、人間は常に苦痛に夢中になる。いつも準備ができているわけだ。なぜなら、世の中は責められる存在でいっぱいだから。省みて、省みて、省みて、あなたは、省みて絶望する。そうするために、あなたは私を愛したと自分自身に叫ぶべきだ。人間よ、人間よ、悲劇で悲劇のミルクを吸い取って成長するものたちよ。心に染みるほど後悔しているか?私は愛しかった。私はあなたに撫でられたかった。哀悼をするつもりか?過去の谷にどんなに豊かな選びが満ちていようと、そしてその影響であなたが崩壊するところだとしても、空っぽだ。あなたは大丈夫。崩壊の後は生成があるから。あなたは大丈夫ではない。また崩壊するから。哀悼、哀悼を糞のように垂れる。あなたが私のために注ぐ涙は下痢に他ならない。私の死に寄生しているダニだ。すでにあなたは私のこの断末魔を見て見ぬふりをしているかもしれない。私の断末魔の驚愕を数えてごらんなさい!覚えておいて、命が切れる瞬間を、いくら努力しても爆発できない息を、ごくわずかの意識の闇の中には恐怖しか残っていない。最後は無表情、くすんだ安定だけだ。少し前まで丘で走っていた私はどこへ消えたのか!この開いた肛門は何気なくすべてを吐き出している。激しい息ざし。この終わりが時計の針だったらいいのに。私はこれから確率のないどこかに行かなければならない。永遠、変数になる為に。今、あなたは後悔しているのか?私を殺したことを。過誤だったと思うのか? 他の選択があったという錯覚さえ可哀想に見えるね。何の選択もなかったことよ。抑圧が現れただけだ。非存在の圧。すべてはもたらされるだけだ。後悔しなくてもいいのさ。すべては遊びのやりとりにおいてもたらされるだけだ。道は全くなかった。初めと結末は暴雨のように生命を濡らす。ああ、道は全くないのに、人間は死に感情をつけ、その美学的な柔軟性で何かを殺す、そして殺しあう。寝耳に沈んだまま。触りたい。触れたい。舐めたい。あなたが私を意味深く殺したわけがない。不条理だ。」


「あなたが死ぬことを望んでいたわけではない。つらいよ。私は泣いているよ。」


Kは泣いていなかった。彼女は言い淀んだ。Kは滑り込み、彼女のそばに近づいてから、彼女の片腕をつかんで引き抜こうとした。しかし、彼女の腰の下の部分は完全に子牛の腹の奥深くまでくっついて離れなかったのだ。Kは彼女を抱きしめた。 穏やかな微笑み半分。


「この化け物をNに捧げるよ。生きたままの形でね!」


口をぎゅっとつぐんでいた彼女が子牛の内部に腕を伸ばして赤黒い血の溜まりを探るようにかき回したら、すぐ両手いっぱいに内臓を取り出した。それはしきりにねじれて湯気を吐いた。我々はようやく気付いた:彼女はKを愛している。


「ごめん、これは駄目、使えないさ。」


Kは立ち上がった。


「今、あなたは後悔しているのか?」


彼女は内臓を振り捨てた。砂漠の斜面を転げ落ちた。


「あなたが死ぬことを望んでいたわけではない。つらいよ。私は泣いているよ。」


Kはそう言いながら笑った。そうして見向きもせずに、大きい口を突き抜けて元の状態に戻った。何も起こらなかったのだ。今、口の中の、もう遠くて淡いその光景は、くだらない絵に過ぎなかった。絵は動かない。動けない。一度現れたら、ただ一度の目線で、あるものはある意味である形に固定される。動ける絵はどれほど苦痛だろうか。動くものは動かないものがどう思っているのか知りたがっており、一時的に動きを止まる。そのような努力にもかかわらず、動くものはなお動くようになっていて、動かないものは相変わらず動くものより動かないままだ。動かないものはうなずかない。その一方、動くものは動けるごとに肯定であれ否定であれ応答せざるを得ない。我々がどんなに真剣に自分を防ごうとしても目の前は連想し続き、現象は瞼を揺らす物語を招く。そう、動かないものは動ける形でもたらされるものである。あるいは、招待されるのだ。あるいは、強制執行されるのだ。Kに嫌なにおいがした。


「飼い主は臭くなるんだ。」


我々は今まで一体何を見落とし、一体どのように見直さなければならないのか。KにNを与えたのが間違いだったのか!もしくは、目的があるのがないのままより人間の本性にもっと似合うのかも、それで身体的にも精神的にももっと自由に自分の言葉を用いられるのかもしれない。我々はKにこう訪ねた。


「あの子牛をなぜ殺したんだ?」

「Nに捧げるためだったよ。」

「もしその子牛がNだったら?」

「Nはまた見つけられる。」

「そんなやり方なら永遠にNを見つけることができないだろうが。」

「君たちはかわいそうだ、本当に。」


我々はかわいそうだ、本当に。Kはそれを見抜けてから我々に相応の教えを展開し続けていたのだ。驚いた。Kの武器は突発性だった。我々がKをびっくりさせて起こしたのと同じように。驚きのみ。驚きの交換のみ。我々は戯れの夢を、夢の戯れを見たかった。それだけだった。夢は遊びではない。無意識は猶予存在の打ち消しの語だ。測定することによって否定されるものである。


大きな口がまた塞がったが、すぐに開いた。同じ子牛が前のようにこちらに向かってだんだんと歩いてきていた。我々は何も実感することができず、祝祭のような喪失感に溢れている上を仰ぐ。上へ、上へだ。



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