無価値の呪文

「色なき緑の表象が

 激しく眠る夢の中

 砂塵に埋もれた言問を

 飢えた獣が掘り返す」


 燐光と共にいくつもの御札が夜闇の中を舞う。

 まるでファンタジーの世界のような光景の中心でアリカさんは朗々と歌い上げる。

 独唱者にして指揮者、と言えばいいのだろうか。

 この舞台の主役は彼女で、この舞台を支配しているのも彼女だった。


「いいや、違うぜ? 。これが舞台なら、君こそが主役だよ」


 まるで僕の心を読んだように、アリカさんは言う。


じゃない。読んでるんだよ。

 胸に触っているのはセクハラ目的じゃないんだよね」


 確かに彼女の指は、確かに僕の胸に強く押し当てられたままだった。

 言霊使いを名乗ったアリカさんだが、言霊というのはそんなことまでできるのか?

 しかし僕の疑問を読んでいるのだろう彼女はそれ以上答えない。


「問一、『一時の迷いは、永遠の愛にかなわないの?』

 それはだ、ざわめきの中に在る」


 アリカさんは一際大きな柏手を打った。

 木々のざわめきのように音が反響し、残り続ける。

 わわわん、わわわん、と鳴っていたそれは、だんだんと人の声のように変わる。

 収束してゆく。


「ざわめきの中に……『在る』って」

「やっと呼んでくれたんだ、せんせい」


 僕はアリカさんの言葉を思わず繰り返してしまって、それでわかる。

 彼女が在ると言ったから、そこに在る。

 そうした形で、一色真宵の姿は再び校門の前に現れた。

 生前と変わらぬ姿で。




「……一色さん」


 名前を呼んで、その先何を言っていいのかわからなくて、僕は口ごもるというか色々理解が追いついていない。あまりに現実離れした展開の連続で混乱したままの頭は、先ほどアリカさんが言っていた言葉の意味をようやく理解する。


 主役は僕。

 つまりこれは、主役が彼女に、一色真宵に対して何かをするシーンだということだ。

 しかし、その何かというのはいったい、


、不破先生。

 『残響』を解くにはそれしかない」


 餅つきの合いの手のような絶妙なタイミングで、アリカさんが教えてくれる。

 舞台の上で台詞を忘れた役者に、こっそり台詞を囁くように。


『一時の迷いは、永遠の愛にかなわないの?』


 それが一色真宵の投げかけた質問だ。

 ならば僕は答えなくてはならない。

 たとえ胸の内に答えが未だなくても。


「かなうかもしれない」


 胸の内を正直に明かす。

 それが真摯な態度というものであるはずだ。


「わからない、僕は妻だけを愛していたと思ったのに、それがわからなくなってしまったから」


 僕は両手を上げて手のひらを見せた。

 一色真宵は、そんな僕のことをじっと見ている。


「でも、一色さん。君は愛じゃなくてもいいと言ったね。

 迷いでもいいと。一方通行の想いでいいと」

「そうよ。それだけで真宵は幸せなの」


 満面の笑みでそう告げる彼女に、言葉が詰まってしまう。

 突きつけようとしていた拒絶を躊躇ってしまう。


「いいや。君の幸せはそこにはないよ」


 僕の言葉を継ぐように、アリカさんが呟く。

 

「喜びもない。怒りや悲しみもない。

 生死の理を越え、この世に幽体を顕現させるほどの渇望だってない、生前君が感じていた耐え難い喪失感だって、ここにはない。

 君の愛も君の迷いも。

 何もないんだ。ここには何も残っていない」


 それは理不尽に対して腹を立てているような、悲しみを押し殺しているかのような口調だった。


「全てはもう、過ぎ去ってしまったんだから」


 アリカさんのその言葉に一色真宵は答えない。

 彼女はただじっと僕の言葉だけを待っている。


「それが死だ。決定的な断絶さ。

 ここにあるのは解かれなかったが故に消えることのできなかった思いの残響―――

 真宵ちゃんじゃない。

 不破先生、あなたの中で育った一色真宵の残響だ。

 本当の真宵ちゃんが何を思っていたかは、もう誰にもわからないんだよ、先生」


 アリカさんの声は彼女には届かない。

 届かせるつもりも、きっとないのだ。

 アリカさんは、僕に起こった作用だけに注目している。

 これは、僕の問題、僕に出された問いかけなのだ。

 相手が傷つくかもしれないとかなんとかで、黙っていていい場面ではない。


「一方通行でいいと君はいうけれど、僕は、与えたいと思ったんだ」


 そう思えば、自然と言葉が口から出てきた。


「想いを向けられて、それなのに僕が何をしなくてもいい、

 ただ受け取ってくれさえすればいい、なんていう関係には、僕には耐えられない。

 だからごめん、一色さん。

 君が迷って欲しいと思ってくれてても、僕は迷うのに向いてない」

「……そうなんだ」

「そうなんだよ」


 僕の解答はこれでおしまいだ、と思うと、一色さんは困ったような、残念そうな表情を取り繕うように微笑み、徐々に姿を薄れさせて消えてしまった。

 アリカさんも僕も何も言わなかった。

 こうして一色真宵の残した呪いは、僕の内から消え去ったのだった。




 沈黙が僕を責めているように感じて、言葉を漏らしてしまう。


「僕は……彼女を救えなかった」

「真宵ちゃん、君にとびきりの笑顔を見せてくれたんだろ?」

「それは、」


 そうだ。

 一色真宵の笑顔を美しいと思ってしまったあの日のことを思い出す。


「君は教え子の笑顔を引き出すことができた。何もできなかったわけじゃない」

「……でも僕は、その笑顔に迷ってしまった」

「感情は一時のものだ。怒りが持続するのは6秒だ、とか言うでしょ? いつだって今この瞬間の感情が一番鮮烈なんだよ」


 アリカさんはまるで教師のように僕に言い聞かせる。


「だから、インパクトの大小を比べることに意味はないんだよね。

 今この瞬間、一番新しい感情が一番インパクトが大きいのは当たり前。

 そこに意味はないんだ」

「……」

「愛と比べたとしてもそう。あ、きれいだな。と思うことに罪はないんだよ」


 まあ、ぼくの旦那がやったらぶっ殺すけどね、と矛盾した物言いを付け加えた。

 ……高校生みたいな見た目だけど、どうやらアリカさんは既婚者であったらしい。


「永遠の愛は不変の愛じゃない。永遠であるよう書き直し、読み直すものだよ。

 何度でも、繰り返すから愛は永遠でいられるんだ。

 そういう覚悟そのものを、愛と呼ぶんだってぼくは思ってる……

 先生は、奥さんを愛したいと思う?」

「それは、もちろん」

「じゃあ、帰って愛してるって言ってあげて。十回だって足りないくらいね」


 アリカさんはそう言って微笑んだ。

 僕は頭を深く下げる。

 胸のつかえが取れ、夜の澄んだ空気を感じられるようになっていた。


「本当に、ありがとうございました。この御恩は必ず……」

「『微睡屋』の在処さんにお任せしてよかったね。

 後でしっかり今回分の料金もいただきますんで、よろしくう」


 ウィンクしてみせる彼女の笑顔を素敵だと思った。

 けれど亜依への愛を疑うようなことはもうなかった。


















 不破先生は何度も頭を下げてからその場を立ち去って、曲がり角でもう一度頭を下げて、路地の向こうに消えていった。


『き……』

「ふぁーあ」


 やっとひと段落か。

 ぼくは一人、弔花の供えられた校門の前で伸びをした。

 ぴし、と音が鳴る。

 ラップ音とも呼ばれるそれは霊障の兆しでもある。

 しかし今回の場合は、ぼくの張った結界にヒビが入る音だった。


『……つき……』

 

 月のない夜だ。

 雲に隠れて見えないけれど、地方都市とはいえ小学校のある住宅街。

 真っ暗闇というわけではなく、電灯の灯りで照らされている。

 ぼくが放った呪符は今やその燐光を大きく減じており、既に完全に光を失い、ただの紙切れに戻ってしまったものもある。

 静音結界。あるいは沈黙の呪符。

 いらん横やりを防ぐために施した処置がようやく破られようとしている。


「どう? ぼくの向けの説明。

 結構上手くまとまったんじゃないかな〜とか思うんだけど」


 宙に向かって問いかける。

 辺りには誰もいない。

 人避けの結界は既に張ってあるし、これから人が寄ってくることもない。

 不破先生が何か思い直して戻ってくることもできはしない。

 

 ……依頼者にして標的である不破先生にここにいてもらうわけにはいかなかった。

 そもそも身の危険があるし、先生そのものを武器として使われたら厄介だしで、

 平和的に御退場願うのが一番いいよね。

 だから、それらしい方便を使った。

 先生が納得さえして、決別する覚悟を持ちさえすれば、残っている呪いなどさしたる問題ではなかった。


 一番の問題は、ここにある。

 

「真宵ちゃんはどう思う?」


 言問の呪い。問いかけることで、解答を強いる呪い。

 まあ別に答えなきゃいいだけの、強制力のないかわいらしい攻撃だ。

 だけど。


 ばりん。

 硝子の割れたような決定的な破壊音。

『沈黙』の術が打ち破られ、怨嗟と憤怒とに満ちた呪声が大音声で鳴り響く。


!』


 周囲の電灯が彼女の怒りに呼応するように割れ、辺りが暗闇に包まれる。


 ひひひ。さあて、ここからが本番だ。

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