5
子供の頃の思い出は、彼らの人生に良くも悪くも強い影響を与えるものだ。
悪いものから守ってあげたかった。生活の中の小さな喜びを、拾い上げて見せてあげたかった。
子供たちの輝く笑顔を、そのまま真っ直ぐ育ててあげたかった。
『真宵はね、うれしいんだ』
いい先生になりたかった。
僕はそれができなかった。
僕の目の前で死んだはずの一色真宵は、歩く僕の隣に浮かび、宙を泳ぐように着いてきて、以前と変わらぬ笑顔を僕に向ける。
僕の足取りは重い。
けれどどれだけ速く走ったところで、彼女を振り切ることはできなかっただろう。
『幽霊って、強い未練がないとなれないんでしょ?
だからこうしてせんせいの隣にいれると嬉しいの』
すれ違う人間の身体も、電柱も、車もすり抜ける。
つまり彼女はそこにいない。
そのはずなのに、彼女の声も姿も、僕には強い現実味をもってそこに存在しているように思えた。
『真宵の想いが、強い未練だって認めてもらえたんだよね。ふふ!』
彼女は楽しそうに笑う。
どうして笑えるんだ?
僕にはわからない。
それは一色真宵のことだけではない。
自分の心がどこにあるのかさえわからない。
何もわからず、迷ってしまっている。
『ねえ先生。わかったでしょう?
いっときの迷いだって、愛に負けたりしないくらい強いんだから』
僕は答えない。
自分がどんな答えを口にするのかが恐ろしくて、口を真一文字に結んだまま、永遠のように長い帰路をじっと歩いた。
「おかえり! 大変だったでしょ」
家の鍵を開けると、亜依は仕事部屋から出て笑顔で僕を迎えてくれた。
段ボールを床に置くと、玄関先に座り込んで、靴紐を緩めて脱ぐ。
「ううん、大丈夫。誰にも何も言われなかったよ。荷物とって、帰ってきただけ」
「そっか……よかったね。お風呂沸かしてあるからね」
ありがとう、と答えようとして、脚が震えているのに気づく。
力が入らない。
「……うん。でも、ちょっと休んでから行くよ」
僕を見る亜依の瞳は不安そうに揺れている。
笑顔はどこかぎこちない。
いつから彼女はこんな顔ばかりするようになってしまったのだろう。
僕がそうさせたのだ。
彼女の笑顔を曇らせているのは、僕の不甲斐なさだ。
あの眩い一色の笑顔と比べて、あまりにも
思い切り額を打ち付ける。
僕は今何を思うところだった?
「違う」
「晴斗!?」
「違う……大丈夫だから、本当、大丈夫」
鼻筋を何かが垂れた。
口の中に入った感触がぬるりとしていることで、僕はそれが汗ではなく血であることに気づく。
「大丈夫じゃないよ」
ぱた、と音が鳴った。
僕の血が落ちた音ではない。
亜依の目から涙がこぼれる音だ。
「大丈夫じゃない、大丈夫じゃないよ、帰ってきて倒れて、立ち上がれもしないのが、大丈夫なわけないんだよ!」
「亜依……」
揺れる瞳からついに、不安がこぼれ落ち、言葉となって溢れ出したように。
亜依は僕の頭を抱いた。
視界が遮られて、一色の顔も見えなくなる。
『せんせい、これが、『もっと仲良くなるために必要な喧嘩』?』
声が聞こえる。
それから、囁くように小さな笑い声。
それをかき消さんばかり大声で、亜依は僕を叱る。
「辛いでしょ、苦しいでしょ。だったら頼ってよ! 私の負担を考えないで、私のことを想うなら、自分のことを大事にして! 辛いのは晴斗なのに、何もできないなんて嫌なの!」
「……でも、君が大事なんだ。負担になりたくない。君に幸せになってほしい」
「私の幸せを想うなら、そこに晴斗も一緒についてきてよ……」
「ごめん、ごめんね、亜依」
本当にごめん、亜依。
僕には君に愛される資格なんてない。
君の顔を見て他の女のことを考える僕に、どうしてその資格があるだろう?
「お願い、どこかに行ったりしないで。私と一緒にいて。愛してるから……」
「僕も、愛してる」
愛。
虚ろな言葉だ。
口の中で何も味がしない。
「晴斗。あのね、友達が教えてくれたんだけど。夢に纏わる問題を解決してくれる先生がいるらしいの」
玄関の床を拭いて、二人で風呂に入った。
そうしてリビングでコーヒーをいれながら、亜依がおずおずと呟いた。
「……メンタルクリニックとか、セラピーとかそういうのじゃなくて?」
「ううん。見た目は駄菓子屋さんなんだけど、桔梗の花を持っていくと、特別な施術をしてくれるんだって」
なんだか怪しい話だった。
しかし、亜依は僕が一色真宵の幽霊に悩まされていることを知らない。
目の前で生徒の死に触れたせいでひどい悪夢に襲われ、精神を病みつつあると思っているのだ。
それでよかった。
教え子の幽霊に取り憑かれただなんて、どうして伝えられるだろう?
「気晴らしになるかも。行ってみるよ。ありがとう」
それで亜依が落ち着くのなら、行ってみるだけの価値はあるはずだ。
近くの花屋には桔梗の花は売っていなかった。
ホームセンターの園芸コーナーなら売っているかも、と花屋さんに聞いて、少し足を伸ばしてホームセンターに寄ってみると、鉢に植った桔梗が売っていた。
スパイ映画でもやらないような秘密の取引に加担しているようでバカバカしく感じたが、なるほど確かにこのバカバカしさこそ、今の滅入った僕に必要なものだったのかもしれない。
教えてもらった地図の通り商店街を抜け、住宅地に入ってややもすると、紺色の暖簾の下がった店らしき木造の一軒家が現れた。
表にはやたらと派手なガチャガチャの機械が置いてあり、店先には駄菓子が並べられている。
「すいません」
店内は薄暗く、人の気配もない。
声をかけてみても返事はなく、仕方なく店の中へと足を進める。
「あの、誰かいらっしゃいませんか」
店の中は何に使うのかわからないがらくたが所狭しと置かれている。
奥の方に土間のような広い空間があったが、妙にだだっ広いばかりで何も置かれていないのが印象的だった。
「それ、誰に聞いたの?」
突然声をかけられて狭い店内を振り返る。
いつの間に現れたのか、後ろに立っていたのは黒い髪の小柄な女の子だった。
高校生くらいの年頃のように見える。
しかし、バイトを雇うような店にも見えないが……その店員は、僕の持つ鉢植えを見ながら首を傾げた。
「にしてもさあ、桔梗の花ってどうなの。洒落のつもりなのかね」
「えっと、これは妻に持っていくよう言われただけで。
あ、妻も友人から聞いたらしいんですけれど。詳しいことは、何も」
「そうだよねえ……ま、いいや。とりあえずどーぞ奥に」
どうやら桔梗の花を持ちこむのは、あまり歓迎されるやり方ではないようだった。
それでも何を納得したのか、奥へと導く彼女に促されるまま、広い土間を抜けて、僕は作業台の近くに置かれた椅子に腰掛ける。
「それで。君は夢で何を困ってるの?」
女の子は何か相談事を聞き出す、というよりはより具体的に、夢によってなんの不都合が発生しているか、を尋ねてきた。
……ここは、夢で困っている人間専門の店だとでもいうのか?
まるで医者か何かのように悪夢を診断するということなのだろうか。
あの、ここはどんなお店なんでしょうか
と問おうとした口は、しかし全く別の言葉を紡ぎ出した。
「死んだ教え子が、寝ても覚めてもずっと見えるんです。
まるで彼女が僕に取り憑いているようで」
なんだ、これは。
こんなことを口にしたら、まるで狂人じゃないか。
視界の端で微笑む一色をちらと見て、『まるで』どころではないことを自覚しつつも、僕は混乱している。
店員の彼女は、与太話めいたオカルトを口に出した僕を笑うでも怖がるでもなく、僕の頭の少し上くらいを見ながら仕切りに首を傾げている。
その目線は、一色真宵の浮いている空間には向いていない。
この店員には、一色真宵は見えていない。
悩みを抱えている人を脅かして、金をむしり取る霊感商法のような手合いだろうかと警戒心を強める。
もう変なことを口走らないようにしないと、どんな目に合うかわかったものではない。
「や、何も憑いてるようには見えないよ」
しかし予想に反して店員はあっさりと脅しのチャンスをフイにした。
僕の緊張が緩む。
その瞬間を突くようにして、店員の女の子はボソリと呟いた。
「気の迷いじゃないの?」
「そんなはずはない!僕は迷ってなんかない、僕は迷ってなんかない!」
乱暴に立ち上がったせいで、椅子が倒れて音を立てた。
僕の口は制御を外れて、勝手に僕の思いをぶちまけ始める。
「僕が愛しているのは、亜依だけだ。
そのはずなんだ、それなのに……
あの時僕は即答できなかった。
違うと答えられなかったんだ。
それは、本当は一瞬揺らいだからじゃないのか。
あんなに僕を思ってくれる妻を、僕は裏切ったんじゃないかって、ずっと考えてしまう、僕は……そんな自分が堪らなく、許せない!」
はじめは止めようと思っていた。
けれど、一度喋り出した口は止まらない。
そのうち、全てを曝け出してしまいたいと思うようになった。
自分でも恐ろしいほど流暢に、溜め込んでいた泥を吐き出すように、言葉が口から勝手に溢れてゆく。
「一色さんが言うんだ。
こうして僕に取り憑くことができて良かったって。
化けて出るくらい本気で思っていたと、証明できてよかったって……
それに比べて僕はどうだ、自分の本心すらどこにあるのかわからない!
いや違う、本当は恐ろしいんです、
昼も夜も一色さんのことばかり見ている僕が、どんな本心を抱えているか知るのが怖い!
夢に困ってるんじゃない、僕は、自分と向き合うのが恐ろしいだけで、それで」
勢いのまま口に出していたそれの勢いが衰えて、僕は我に返る。
店員は僕の吐き出した言葉、どす黒い負の感情のこもったそれを浴びても平然とした様子で僕の額のあたりを見つめていた。
「うん、わかった。前言をちょっと撤回しよう、ごめんね。
君、何も憑いてないけどさ。呪われてます」
そして僕を指さすと、事実を述べているだけ、といった淡々とした口調で彼女はそう言った。
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