4
学校へ向かう前に僕は最寄りの喫茶店へと向かった。
なるべく先生方が職員室にいない、給食の時間あたりを狙って時間を潰すために。
アイスコーヒーをブラックで頼み、僅かに口を湿らせた。
ガムシロップを加えなかったから味はしなかった。
それでいい。甘みはこれからの展開に必要ではない。
学校に着いたのは正午を少し回ったあたり。
裏門から敷地に入り、職員室に向かって階段を上がってゆく。
今後一生あの正門に近づくつもりはなかったし、こちらの方が職員室に近いのだ。
「失礼します」
一声かけてから職員室に入る。
目論見通り、担任持ちの先生方は教室で食事をしているようで、職員室に残っているのは二、三人の先生と、教頭先生だけだった。
元同僚たちは僕を一瞥すると、すぐさま視線を外した。
トラブルの元と関わり合いになりたくない、と言わんばかりの対応は予想通り。
そういった視線の数を減らしたかったのだから、僕の目論見は成功している。
自分を慰めながらかつての自分のデスクを見れば、上には小さな段ボールの箱が乗っていて、僕の私物はそこに纏められているようだった。
といっても、僕が本当に持ち帰らなくてはいけないようなものなんて、本当は何一つありはしない。
僕は箱の中を確認するフリを手早く済まし、お世話になりました、と口に出した。
元同僚たちから返事はなかった。
僕は一礼して、その場を後にした。
「不破先生」
「……教頭先生」
段ボールを持って部屋を出た僕を、教頭先生がわざわざ追ってきたらしい。
廊下で立ち止まり、僕は再度頭を下げて、お世話になりました、と告げた。
教頭先生は口を開いて、閉じて、それから意を決したようにもう一度開いた。
「不破先生は、本当に子供たちをよく見てくれていました。
どうかあまり、気に病まないで。先生は悪くなかったんですから」
「ありがとう、ございました。こちらこそ、先生には大変良くしていただいて……」
柔らかい口調で投げかけられた言葉に対して、ぎくりと身を固くしてしまう。
決まりきった文句を口にして、感謝するフリを繕うことしかできなかった。
「ゆっくり休んで、また元気になって戻ってきて下さいね」
「はい。そうしたいと思っています。本当にお世話になりました」
―――いっそ痛烈に咎めを受けるほうがよかった。
どこまでも僕の心を慮ろうとする気づかいが、身を刺すように感じられた。
僕はそのまま逃げるように校舎から滑り出る。
とにかく一刻も早くこの学校から出たい。
なのに、手に持った段ボールの小箱は今や、鉛の枷のように重い。
帰り際、正門の裏側が目に入る。
色とりどりの花の挿さった空瓶がいくつか、門の裏側からも見えた。
耳元で一色真宵の声が僕に囁く。
『ねえ、せんせい。
せんせいはなにも悪くなかったんだよ?』
そんなはずはない。
もちろん僕が悪かったのだ。
放課後、そのまま学校で遊びたがる子供たちは少なくない。
けれど低学年のうちは寄り道をせず一度家に帰すのが我が校の決まりだった。
僕は正門に立って帰路につく子供達を見送る。
子供たちの声もまばらに遠くなったころ、シャツの裾が引かれた。
何かに引っ掛けたかと思って振り返ると、そこには一色真宵が立っていた。
「一色さん。さようなら」
僕が別れの挨拶を告げても少女は僕の裾をつまんだまま、手を離す様子も、門を出てゆく様子もなかった。
「……帰らないの?」
「かえりたくない」
少女は珍しく僕から目を逸らして、投げやりな態度でそう言った。
彼女が不満を表明する姿を初めて見た、ということに僕は遅ればせながら気づく。
「でも一色さん。帰らないとお母さん、心配しちゃうよ。
学校終わったはずなのに、遅いな〜って」
「しないよ。ママはパパとけんかしててそれどころじゃないから」
ああ、ああ。そういうことか。
これは彼女からのSOSだったのだ。
僕は彼女を大人のように扱うことに慣れすぎていた。
そうではない。彼女はまだ小学二年生なのだ。
それも、他人の感情を鋭敏すぎるほどに感じられる感性の持ち主。
家庭の不和に過敏に反応してしまうのも無理はない。
「ねえ、せんせい」
「なにかな」
「けっこんするときって、えいえんのあいをちかうんだよね」
「そうだよ。先生も結婚する時誓ったよ」
「それなのにどうしてママはパパとけんかするの?」
……言葉に詰まるわけにはいかない。
不安を抱える子供の、真剣な質問だ。
たとえ難しい、答えのない問題であったとしても、教師として今この彼女の前で答え損なうわけにはいかない。
「……愛があるからこそ喧嘩になることだってあるんだ。
互いを想う気持ちがすれ違って、それで喧嘩になる」
「せんせいも、おくさんとけんかする?」
「たまにね」
「それならやっぱり、あいなんていらないんじゃない?」
亜依。
僕の愛する人。
それが要らないなんてことはありえない。
彼女のいない生活なんて、考えられない。
……もしかしてこれは、あの図工準備室の続きをはじめようとしているのか?
僕が僅か迷ったその隙を突くように、彼女は言葉を継ぐ。
「真宵は、けんかなんてきらい。
なくなればいいのにっていつもおもってるよ」
「そうだね。でも時には、もっと仲良くなるために必要な喧嘩だってある」
「じゃあ、せんせい。真宵とけんかする?」
俯いていた顔を上げて、少女は問いかける。
その瞳に少し、先ほどにはなかった輝きが戻ってきたようにも見える。
「しないよ」
「どうして? 真宵はもっとせんせいとなかよくなりたいのに」
「大人が子供と喧嘩をするのも、愛を深めようとするのもまともじゃない」
「うん。真宵もそうおもう。まともじゃないよね」
「僕は君の先生だ。そういうまともじゃない大人から君を守るのが僕の役目。
僕がまともじゃない大人になったら、一色さんも困るでしょう?」
「せんせいはまともだよ。真宵のことをみてくれるの」
「先生だからね。でも、だから愛を受け取るには値しない」
僕は改めて拒絶の意をあらわにする。
彼女のこれは、一時の迷いだ。
子供時代に見るまだ見ぬ世界への憧れだ。
それに加えて、親から与えられる愛情の不足が結びついて、僕へ愛の告白をするに至ったのだろう。
そんなになるまで追い詰められてしまったことに、僕は責任を
「違うわ」
まるで僕の心を読んだかのように彼女は否定した。
鋭く差し込まれたその言葉によって、僕は完全に反論するタイミングを見失う。
一色真宵の視線は僕の目に結びついたまま離れない。
「ねえ、先生」
いつもと違う彼女の声色に、違和感を感じる。
しかしその正体がわからない。
「真宵が本気で想ったことが一時の迷いでしかないのなら、真宵の本気ってなんのためにあるの」
「それは、」
「真宵は先生を愛しているのよ。だから―――」
僕の言葉を遮ってから、一歩、二歩とスキップするように離れた少女は、それからくるりと半分ターンして僕に向き直った。
眩い笑顔は、昼過ぎの陽を浴びて輝いていた。
「
きっとその笑顔に、時が止まったように見惚れてしまったせいだ。
ここから先はコマ送りのように記憶されている。
「キャアアアアアアアアアアア」
突如響き渡った悲鳴のような音。
猛スピードで突っ込んできた車。手を伸ばそうとして、二歩遠い。一色真宵は跳ね飛ばされ車はそのままの勢いで正門に突き刺さって破壊的な衝突音と粉々になったフロントガラスを撒き散らして僕は尻からその場に倒れ込む。何が起きた。何が起きた。何が? 事態を把握しようとして立ち上がりたいのに足が震えて立ち上がることすらままならない。心臓の鼓動がやけにうるさい。完全に前半分が潰れてしまった車の盗難防止の警告音がサイレンのように鳴る。校舎のほうから誰かが駆けてくるのが見える。遅い。もっと早く走れないのか。早くしないと、一色が。車の残骸、その隙間から赤い雫が滴って、水たまりを作っている。赤。ランプ。救急車を呼ばないと。呼んでどうにかなるのか? 見たくない。どうなった、彼女は?
一色真宵は死んだ。
彼女を轢いた車を運転していたのは、彼女の母親だったと後になって聞かされた。
僕は何もできなかった。
守ることも。
愛することも。
迷うことさえ。
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